第56話 四姉妹、あれから
(三人称視点)
「
腰まであろうかという
かつてのお転婆な少女の面影を残しながらも美しく成長し、今や
「
アマーリエに声をかけたのはエヴェリーナだった。
ややウェーブがかかり、人に柔らかな印象を与えるオレンジブラウンの髪は肩に届くぎりぎりのラインできれいにカットされている。
軽やかなイメージが強いショートボブだ。
かつて栄養失調で今にも命を失いかけていた頃の面影はまるでない。
ややふくよかになったようにさえ、見える。
それには訳があった。
二人目の子を宿し、安定期に入ったのだ。
「
「そろそろ着く頃かしら?」
小首を傾げ、暫し考えに耽る姉の姿を見るのは久し振りだとアマーリエは懐かしさを感じている。
あれから、随分と時は流れたものだと彼女は遠く過去に思いを馳せた。
異なる次元の扉が開く。
世界の根幹を揺るがしかねない大事件だったが、それを覚えている者は非常に少ない。
ネドヴェト家の四姉妹の中で記憶を留めたのはアマーリエとエヴェリーナの二人だけだ。
二人の記憶が完全に消えなかったのはその血に因るところが大きい。
二人以外で記憶が消えなかったのはロベルトとペトル。
王族の血を引く二人の記憶がある程度、残ったのも血に因るものとしか思えなかった。
そして、気紛れな女神の悪戯か、全てがなかったとしか思えない平和が訪れる。
誰もが望んだ平穏な時は記憶を有した四人にとっても望んだものだった。
しかし、まるで何もなかったかの如く、全てが取り繕われた世界は心地良い毒の如く、四人が感じたのも致し方ないところだ。
幸いなことに人間は忘れることが出来る生き物である。
ある意味、ぬるま湯のようにやんわりと沁み込む毒により、ただ一人を除き、各々の日常へと戻り、時は刻まれる。
四姉妹の長女マルチナは学園を卒業するとすぐに王太子トマーシュの妃候補に選出された。
候補とは名目上のことに過ぎず、王太子妃は内定している。
王宮での妃教育が開始されたがネドヴェトの黄薔薇と呼ばれ、貴族令嬢の鑑とされたマルチナである。
修了するまでにさして時を要さなかった。
王太子トマーシュとネドヴェト侯爵家令嬢マルチナの世紀の結婚式は、国を挙げて行われた盛大なものだった。
成婚から二年後、マルチナは双子――王子デニスと王女ダーシャを授かっている。
さらにそれから、一年後。
マルチナは王太子妃ではなく、
ドミニクがトマーシュに王位を譲ったからだ。
「気軽に里帰りできなくなってしまったわ」
公の席で母や妹に軽く愚痴を言いながらもマルチナは人生を謳歌している。
残念ながら、姉妹が久しぶりに揃う場への同席は叶わなかった。
しかし、王妃という立場のせいではなく、第三子の臨月に入り万全を期すためだった。
次女ユスティーナにはあの事件の記憶が一切、残っていない。
アマーリエとエヴェリーナはそのことを神に感謝している。
誰よりも責任感が強い姉の性格から、自責の念に押しつぶされるのを懸念したからだ。
ベラドンナの毒の影響から大きく体調を崩していたが、その原因は騎士科の乗馬の授業での落馬に差し替わっていた。
落馬で重い怪我を負い、療養を余儀なくされた。
アマーリエとエヴェリーナはこれも彼女にとって、追い風になると考えた。
負けん気の強い姉は障害を乗り越え、立ち直ることが出来ると考えた。
やがて
かつて目指した夢を叶えるべく、邁進する彼女の姿はまるで絵物語に出てくる男装の女騎士のようだと誰もが思うほどだった。
果たして、それは夢物語では終わらない。
学園を優秀な成績で卒業したユスティーナは、貴族令嬢としては初の女性騎士となった。
父ミロスラフが団長を務めた第二騎士団ではなく、第三騎士団に入り、正式に登用されたのである。
第一騎士団、第二騎士団は貴族階級の出身者が多数を占める世襲制の認められる騎士団だった。
実力が重視されるとはいえ、それ以上に血筋が物を言う。
第三騎士団は実力第一主義である。
平民出身者が多く、血筋は関係ないとされていた。
その第三騎士団に登用されたという事実は大きい。
ユスティーナは女性も夢を見て、叶えられる。
そんな希望の星となったのだ。
だが彼女の物語はそこで終わらない。
世界を見て回りたいと学園を辞し、国を出たペトル・ビカンを追いかけるべく、あっさりと騎士を辞めた。
「後はあなたに任せたわ」
長い髪をポニーテールでまとめ、旅装束の男装に身を包んだユスティーナはアマーリエにそう宣言すると長い旅路に出たのである。
「相変わらず、勝手よね」と言いながらもアマーリエはそんな姉の姿を誇らしく、思った。
決して口に出したりはしない。
もし口に出せば、それ見たことかと勝ち誇る姉の顔が思い浮かんだからだ。
そのユスティーナは長い旅路から、戻って来る。
ビカンと共に……。
三女エヴェリーナはこれまで通うことが出来なかった学園に通い、充実した学生生活を満喫した。
時に思い出される昏い記憶に苛まれることもあったが、幸いなことに頼りとなる者が傍にいた。
同じ記憶を有する妹だけでなく、ユリアンとサーラのポボルスキー兄妹の存在は非常に大きい。
ユリアンとサーラにあの事件に関する記憶は改竄されているのか、認識にいくらかの齟齬が生じていたが結ばれた絆は変わらなかった。
本来のエヴェリーナはそのまま何事もなく成長していれば、引っ込み思案ではなく、好奇心旺盛でおしゃまな女の子になっていただろう。
かつてのアマーリエのように……。
だが、あの事件でそうならなかった。
同年代の子供と関わることもなく、ネドヴェトという鳥籠から出られなかったエヴェリーナは本来よりずっとおとなしく、引っ込み思案な性格になったのも致し方ないことだった。
ユリアンもまたどちらかと言えば、おとなしく飾らない性格の少年である。
性格面での相性がよかっただけではなく、互いに好感を抱いてこともあり、周囲の応援も少なからず影響し、二人が交際するまで時間の問題と思われたがそううまくはいかない。
二人とも極端に奥手だったからだ。
周囲が歯痒く思うほどにじれったいユリアンとエヴェリーナだったが、実に清らかな交際を始めたのは学生生活が終わりを迎えた頃だった。
正式な婚約関係を結ぶまで、さして時を要さず、周囲を驚かせたのである。
だが、エヴェリーナはさらに周囲をあっと言わせる行動に出る。
学園を卒業するとすぐにポボルスキー伯爵家に嫁いだのだ。
意外なことに四姉妹で最初に子宝に恵まれたのはエヴェリーナだった。
そして、あの事件の当事者にして、解決に大きく寄与した四女のアマーリエ。
初恋を実らせ、想いを叶えたものの彼女が思い描いていた未来といささか、様子の異なる道を辿っていた。
ネドヴェト家当代の当主夫妻には娘が四人で男子がいない。
家督を継ぐ男子がいない以上、然るべき婿を取った娘が次代の当主になるのが妥当だった。
その為に長女のマルチナは淑女教育に身を入れ、黄薔薇と呼ばれるほどの淑女の鑑となっていた。
しかし、それもご破算となった。
マルチナは王太子に嫁いだ。
王太子であるトマーシュが侯爵家に婿入りする訳にはいかない。
ただ、この時点では次女のユスティーナがいた。
彼女は騎士を目指し、花嫁に行くことはないと強く、宣言すると共に家を継ぐ意向を見せていたからだ。
そのユスティーナがあれほど目指していた騎士の名を捨て、家を出たことでミロスラフとミリアムもさすがに焦りを見せる。
三女のエヴェリーナもポボルスキー伯爵家に嫁入りする。
アマーリエしか家の未来を託せる娘がいなくなっていた。
再興したロシツキー子爵家に嫁入りする日を指を数えて待つだけだったアマーリエにとって、寝耳に水と言ってもおかしくない事態の急変である。
ロシツキー子爵ロベルトはネドヴェト侯爵家に婿入りしなければ、ならなくなった。
「ごめんね、
母ミリアムによる詰め込み教育に音を上げる一歩手前のアマーリエはそう言ってただ項垂れたが、ロベルトは「君と一緒だと楽しいよ」と一笑に付す。
アマーリエはロベルトがミロスラフから、かなりしごかれていると聞き及んでいた。
甘える訳にはいかないと奮起した彼女は後に一角の淑女となるのだが、それはまた別の話である。
「エヴァ! エミー!」
彼女は先触れ通りの時刻にやってきた。
美しき白馬に跨り、颯爽と屋敷前に現れたユスティーナは愛馬と同じ真白き乗馬服に身を包んでいる。
背筋を伸ばした凛々しき姿は騎士を退いたとはいえ、威風堂々としたものだった。
「あなた達に話したいことがたくさんあるのよ」
「それに会わせたい人もいるわ」とユスティーナが片目を瞑り、ウインクする様は実にチャーミングで悪戯心に溢れていた。
彼女の白馬に続き、到着した二頭立ての馬車が止まる。
中から、彼はのっそりと姿を現した。
身の丈はそれほど大きくない。
七歳程度の子供と同じくらいしかないので小柄どころの騒ぎではない。
全身はふわふわとした黄色い羽毛に包まれていた。
丸みを帯びたボディから生えている手は手というよりも羽である。
二本の足も水かきを備えていた。
ボディと同じく、丸みを帯びた顔には円らな瞳と嘴。
円らな瞳の上にはゲジ眉と表現した方がふさわしい太い眉毛のような色の違う飾り気が目立つ。
「また、
アマーリエは驚きのあまり、目を見開いたまま完全に固まった。
あひる部隊はあの事件で光になって消えたと聞いていた。
目の前で言葉を喋った
(神様はやっぱり、いるのね)
折りから吹いた風が甘い花の香りを運ぶ。
その女の子は全てを諦めた。
しかし、彼女は諦めようとしただけ。
本当は諦めてなどいなかった。
これは諦めずに抗い続けた女の子が幸せを掴む物語……。
Fin
【完結】アマーリエはがんばらない~四姉妹の末っ子、諦め令嬢になる~ 黒幸 @noirneige
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