嘘は貴方から教わりました

菜花

覆水盆に返らず

 とある異世界のとある国に仲睦まじい二人がいた。

 その二人――公爵家の令嬢であるオリガと王太子であるネストルは婚約していた。

 未来の王と王妃として王宮の誰もが彼らを敬っていた。ある事件が起きるまでは……。


 貴族達の通う学園に二人は在籍していた。

 そこでもベストカップルとして周りから微笑ましく見られていたのだが、ある女性が編入してきたことで事態は一変した。


 伯爵家の令嬢、ノンナ。

 一応貴族ということになってはいるが、この令嬢の出生はかなり怪しいものがあった。

 伯爵家の正妻は石女で、やむなく外で作った実子を迎え入れたという話だが、その外というのはどうやら娼館らしいというのだから、潔癖な令嬢はノンナを視界にも入れないし、共に授業を受けることすら嫌がった。


 ネストルがノンナと関わったのは、彼が忘れ物を教室に取りに戻った時だった。

 一人机の前にたたずむノンナ。机の上のボロボロの教科書を前に必死で涙をこらえているその姿は何とも哀れだった。


 最初は純粋な同情と正義感だった。

 新しい教科書を手配し、自分の目の届く範囲にいる間だけでも、と出来るだけ一緒にいようとする。

 汚らわしい、と文句を言う令嬢には「そう思うのは自由だ。だが口にするな、排除しようと理不尽なことをするな。彼女は正式に認められてここにいるんだ」 と忠告する。

 古い価値観を持つ人間には愚かな王太子と言われたが、それ以上に「無視しても文句を言われないのに、気の毒な令嬢を助けるとは心優しくて実行力もある王太子である」 と称えられた。

 婚約者のオリガが優秀すぎて少しばかり鬱屈していたところに、自分自身の行動が評価される。ネストルはこの件で浮かれてノンナに入れあげた。

 それが度を過ぎるものなら、当然オリガも黙ってはいない。


「婚約者でもない令嬢と四六時中一緒にいるなど……妾にでもするつもりかと噂されているのをご存知ですか?」


 王の数少ない実子、それも正妃腹の子として大切に大切に育てられたせいか、ネストルは他人の機微に疎いところがある。ノンナの件は周りがネストルを褒めたように当然オリガも褒めてくれるだろうと思っていたのに、初めてノンナのことを口にしたかと思ったら自分への文句なのだ。可愛くない女だと思ってしまう。


「僕は可哀想な令嬢を守っているだけだよ。それとも君は自分より下位の人間だったら助ける価値なんてないって言いたいのかい? 人の心がないんだね」

「……」


 取り付く島もない、とオリガは思った。

 オリガはノンナを助けるなとは一言も言ってない。ただ、それに付随する影響力というのを考えてほしいだけなのだ。

 ネストルはノンナを妾にするつもりらしいと噂が広まり、ノンナの好感を得ようと男達が群がっているのが見えないのだろうか。ついでに言えばその取り巻きの一人と空き教室に入っていく姿が何度も目撃されているとか。

 理不尽な苛めを裁くことは勿論素晴らしいと思うが、最初に苛めた令嬢は、せいぜい私物を駄目にするくらいだったのに、ノンナが王太子を味方につけてからというもの立場が逆転し、苛めた令嬢はノンナの取り巻き達に泥を頭から被せられる、倉庫に閉じ込められる、階段で背中を押されるといった直接的な暴力行為を受けて病んでしまい、先日学園を辞めて所有する領地に引っ込んだと聞いた。罰がやったことと釣り合ってないと思うのは間違っているだろうか。

 そして……これはオリガの我儘ではあるけれど。

 ネストルがノンナと親しくなってからというもの、毎週開いていた二人だけのお茶会にネストルは来なくなった。想い合っていると思っていただけに、どうしようもなく寂しい。ネストルは「用事があるので行けなくなった」 そう簡素な文を寄越すのみ。その時間、ノンナと街で遊んでいるのを知らないとでも思っているのだろうか。


 オリガは唇を噛みしめる。そしてネストルに言う。


「分かりました。……でも、余裕があるのでしたら、私のことも忘れないで頂けると幸いです」


 オリガは折れた。ネストルのしたことは功罪あるが功の部分が大きい。注意されたら見るからに不満を持ったところを見るとこれ以上言うのも野暮だろう。

 けど、熱が冷めればいつかは自分のところへ戻って来てくれるはず。そうオリガは信じていた。


 ネストルはノンナのことで文句を言われて腹が立っていたが、すぐしおらしい態度になったので頭も冷えていく。そうすると今までオリガに対して失礼だったのではと思い至る。

 次の週末にはオリガの家のお茶会に行くか。オリガの好きな花でも持って。何といっても婚約者なのだから。


 しかしその週のうちに事件が起きた。

 ノンナが一日授業に出なかったと聞いてどうしたのだろうと思っていたら、放課後に汚れた姿で現れ「今まで倉庫に閉じ込められていた。天井に近い窓を使ってようやく出られた」 と言う。

 何て酷いことをとネストルの頭に血がのぼる。

 主犯は誰だ、こんなことをする人間は例え高位貴族であっても罰が必要だとまくしたてる。

 ノンナはネストルに気づかれないように薄く笑い、こう言った。

「オリガ様です。娼婦の娘のくせにネストル様に気に入られて目障りなのよと仰ってました。お前のような女は一日中そこにいろ。とも」


 普段だったら信じなかったかもしれない。だが先日オリガは会うなりノンナの文句を言っていた。ノンナのことを良く思っていないのは事実だ。


 その週末、ネストルは公爵家のお茶会に呼ばれた。大層な規模のものをイメージするかもしれないが、これは昔からオリガとネストル二人だけの茶会だった。いつも二人でとりとめのない話題を話し合って親睦を深めてきた。

 ネストルは怒りを抑えながら席につく。オリガはネストルの内心など知らないまま嬉しそうに話しかけた。


「ネストル様は最近お忙しいようでしたけど、こうやってまたお茶会が出来て本当に嬉しいです。ノンナ嬢とのことも落ち着いたのですね」


 オリガからすれば何気ない話題。だがネストルはお茶会開始早々わざとらしくこんなことを言い出すのはやはり苛めの主犯だからだ、と短絡的に決めつけた。

 ネストルは怒りが吹きあがってくるのを感じた。しおらしい淑女のふりをして下位貴族を苛めていたとは陰湿な。ここは懲らしめてやらないと。


「最近は相手を出来なくて悪かったね。君の父上にも先程怒られてしまったよ」

「父が……? まあすみません。王太子相手に無礼でした」

「それはいいよ。それよりその詫びとして、来週共に観劇をしようと思っていたのだけれど、父上に知られたらきっと僕は怒られてしまうだろうね。他の女に熱をあげておきながら今更、と」


 オリガはそれは違う、とは言えない。父も母も最近のネストルの態度には思うところがあるように感じていたから。


「だから、内緒で観劇しよう。朝十時に街で一番大きなあの劇場で待ち合わせしないか?」


 オリガは頷いた。両親が低俗と言って捨てるような書物に、そのようなデートを楽しむ話があった。自分には縁がないと思いつつ、憧れる気持ちはずっとあった。愛するネストルから誘われたなら、オリガに断る理由はない。


「はい。約束ですよ。楽しみです」





 結論から言うと、オリガは劇場で終日待ち続けたが、ネストルはついに現れなかった。無駄に待たせた馬車の御者には多めに給金を払ったが、両親には令嬢がこんな遅くまで何をしていたと怒られてしまう。だがオリガはネストルを信じ、そこでは彼の名前を出さなかった。


 次の日学園に行くと「一日が無駄になる気持ちが君にも分かっただろう」 とネストルに言われる。

 確信はもてないが、おそらくノンナ関係だろうとは予想がついた。そう理解していても、人は理不尽すぎることを言われると頭が真っ白になるのだとオリガは知った。

 そして翌日、婚約を白紙に戻す旨が書面で公爵家に届いた。最後の糸が切れてオリガは泣きだした。だがそうなってからオリガはやっと両親に先日の休みの件も話すことも出来た。


 父親は動揺を隠しているのか、強張った顔で「王家の命だ。臣下は従うのみ」 とサインしていた。母親はずっと泣いていた。

 それでも体面やら世間体やらがあるので、卒業までは婚約者の振りをしていてほしいということだった。王からの手紙には「無理を言っているという自覚はある」 とあったが、同時期に届いた王妃からの手紙には「王太子の期待に応えられないオリガ嬢が悪い」 とあった。


 密命ではあったが、その日からオリガを視界にも入れなくなったネストルと、ネストルからそれとなく距離を取るオリガ。まるでネストルの恋人のように振る舞って憚らなくなったノンナ。誰もがオリガが振られてノンナが選ばれたのだろうと察しがついた。

 貴族令嬢にとって婚約が白紙になるなど恥でしかない。オリガに瑕疵がついたことで手が届くようになったと思ったのか、下位貴族の令息がオリガに纏わりつくようになったし、老人のような男性や何人も妻が亡くなっているような男からの釣書が届くようになった。毎晩のようにベッドの中で声を殺して泣き、毎朝ストレスによる頭とお腹の痛みに耐えながらオリガは学園に通った。

 そんな中でも偶然ネストルと目が合うようなことがあると、もしかしたら真実に気づいたのだろうかと希望を持ってしまうが、彼はいつもすぐ目を逸らして「嫌なものを見た」 と言うだけだった。オリガはその度に心にヒビが入っていくのを感じた。


 オリガがネストルの行動に何も感じなくなった頃、ようやく学園を卒業し、同時にノンナとの婚約が発表され、肩の荷が下りたオリガは公爵邸に引き籠るようになった。


 そうなってからようやくノンナの正体が分かった。

 ノンナが未来の王妃として王宮に留まるようになってから、一枚の権利書が盗まれた。鉱山の権利書。あの鉱山一つで国が三つ持つと謳われている。

 その権利書が無くなったと知れると同時に何故かノンナがいなくなり、そのノンナらしき女が何故か別の名前であの権利書を持った隣国にいるというではないか。どういうことかと伯爵家に聞こうと向かったが、当主は既に自死。正妻だった女性は離縁後に他家に嫁いで子を成しており、「あの家のことなど何も知りません。私は貴方の子なのか非常に怪しいと何度も言ったのですけれどね。怒鳴られたことしかありません」 との証言しか得られなかった。


 スパイ。そういうことなのだろう。どこの国もあの鉱山を喉から手が出るほど欲しがっていた。だから管理は厳重だったはずなのだが、婚約者として王宮深く入り込まれたら流石にお手上げだったのだろう。


 この件にはむしろオリガの父が怒った。

「騙されていたとも気づかず我が娘を貶めていた訳か。臣下が王に仕えるのは王が信頼できる人間だからだ。そうでない人間に誰がついていくか」


 父親は権利書を奪った国とは別の隣国に移住しないかとオリガに尋ねてきた。母親も王妃の言い草に思うところがあったのか、それに賛成した。年の離れたオリガの妹は流石に嫌がるだろうかと思ったが、真っ先に賛成していた。


「皆お姉様を散々馬鹿にして酷い! 世界中の誰が敵になったって私はお姉様の味方なんだから! 果物が二つあったら必ず良いほうを私にくれるお姉様の何が悪女なのよ! 『あなたは姉に似ちゃ駄目よ?』 なんてしたり顔で言ってくる人多いけど、全部『私の勝手です』 って返事してやったわ! 大体、あいつらが姉の何を知ってるのよ、野次馬程度のことしか知らないくせに! こんな国こっちから出てってやる!」


 知らない間に幼い妹にも苦労をかけていたのかとオリガは情けなくなる。オリガ自身、この国に居て良縁に恵まれる気がしなかった。一国の王太子がハニートラップにあったなぞ恥でしかないので、ノンナは病気で死んだことになっている。ノンナの素性が明らかにならないうちは、オリガは王太子の不興を買って婚約者から降ろされた傷物令嬢だ。


 とはいえ公爵家が国を出るなんて大丈夫なのかと聞くと、「ノンナとの件でオリガが泥を被ることと引き換えに、王家は一つだけ公爵家の望みを叶えるという約束を交わしている」 と父は言う。こうなることを予感していたのだろう。


 そして準備は滞りなく進み、一週間後には国を出るとなってから、オリガのもとにネストルが訪ねてきた。



 久しぶりに会うネストルはげっそりやつれていて人相が変わっていた。ノンナの件だろうか。

 家族からも使用人からも冷たい目で見られながら、ネストルはお茶会の席についた。観劇の嘘をつかれた日も、このガゼボでお茶をしていたな、とオリガは思う。


「それで、何の用ですか」

「……悪かった」


 オリガの心は冷え切っていた。本当に反省しているなら今すぐノンナの正体を世間に向けて明かして、オリガは何も悪くなかったのだと言ってくれればいいのに。無駄に行動力はあるくせにこういうことはしないのかと。相手に汚名を被らせたままにしておくのが貴方の正義なのかと。

 黙っているオリガに何を思ったのか、ネストルは勝手に色々言ってくる。


「今思い返せばノンナなんか好きじゃなかった。正義のヒーローに酔っていただけだった。恋に恋していただけだった。だからノンナがいなくなっても寂しいなんて思わなかったんだ。そうなってから君がいかに大事な存在だったか分かって……やり直してくれないか」


 オリガの耳にもネストルの状況は入っていた。ノンナの件で王太子の資質を疑われたネストルは、年の離れた腹違いの弟に王太子の地位を奪われそうになっていると。それを王妃が泣きわめいて遅らせているとか。王になるなら王妃が必要だが、ノンナに逃げられたあとは誰もその後釜になりたがらずに詰んでいるとも。その件で王妃から手紙が頻繁に来る。「王太子妃に戻らせてやってもよろしい」 上から目線なのは身分的には間違いではないが、状況的に偉そうに出来る立場ではないだろうと呆れてしまう。

 だが……これでオリガが受け入れたら、愛した人の王妃になってハッピーエンドなのだろうか。

 愛していた。王妃になるのだと思っていた。あの時間も思いも本当。


「……ネストル様、私もずっと……ネストル様が忘れられませんでした」

「……オリガ!」


 狂喜するネストルを前にオリガはにこりと笑う。


「でもずっと引き籠っていたから急に外に出るのが怖いですわ。まずは観劇でもして慣れたいのですが」

「え、観劇……あ、うん。いいね」


 一瞬ネストルは目を逸らした。思うところがあるのだろう。


「ならこの週末に行きましょう。朝の十時でよろしいですか?」

「うん、うん……楽しみだなあ」

「あ、でも私、社交界で色々言われてて……恥ずかしいからこのことは誰にも言わないでくださいね。行くって周囲に知られたらどんな目に合うか」

「……うん、分かってる」

「私、必ず行きますから。必ず会いますから。だから……」

「オリガ?」

「最初で最後のお願いです。私との約束、例え口約束であっても、これから先、一生破らないで……」


 それを聞いたネストルの目に涙が浮かんだ。


「もちろんだ。二度と破らない」


 そう言って帰っていくネストルを見送った後、オリガは「馬鹿な人」 と吐き捨てた。


 忘れられなかった? そりゃそうだろう。愛した男に憎まれてその原因が冤罪だなんて、あんなトラウマ忘れられるものか。以前愛されていたからって今も愛されているに違いないとかどれほどお花畑なのか。以前ならともかく、今は私をずっと案じてくれた父と母、可愛い妹のほうが大事だ。発情王太子より余程。その三人が王太子を嫌っているのだ。そんな相手と縁付こうなんて思わない。

 もう出国の準備は整っている。邪魔をされてはたまらない。王家には当日に文を送るとして、ネストルのほうをどうするか。復縁を希望していると聞いた時、出国が知られればあらゆる手段で邪魔されるだろうと予想された。頭の痛い問題だった。まったく何が復縁だ、約束をすっぽかすくらい嫌っていたというのに。そう思った時、オリガは閃いた。


 破る前提の約束をして出国する。なんて効率的で無駄のないアイディアだろう。

 良心が少しでもあればその日は劇場にいるだろう。その隙に逃げればいい。あれだけ言ったのだから人間の言葉が通じるならネストルはその日そこに行くはず。


 かくしてオリガは家族と、選び抜いた使用人数名とともに母国を出た。他の使用人は相応の退職金を持たせて暇を出してある。


 速さ重視の馬車は乗り心地が悪いが、それでも今は贅沢言っていられない。

 むずかる妹を膝に乗せてあやす。妹は大好きな姉に甘えられてご機嫌になり、姉も子供体温を感じて僅かに気が紛れるのでウィンウィンだ。気がかりのは空気の読めないあの王太子のこと。

 ネストルだったら十分も待てずに公爵邸にやってくるんじゃないか。そしてもぬけの殻の屋敷を見て追ってくるんじゃないか。移動中、その考えがオリガの頭から離れなかった。

 無事に国境を越えた時、やっと悪縁から逃れられたのだと涙が零れた。

 安全地帯に入ってからようやく仮にも王太子に虚言を言った、これは悪いことでは? と思い至ったのだが自分はあの人から嘘をつくことを教わった。同じことをしただけ。責められる言われはないと思い直す。


 オリガはその国で顔に傷があるが、優しく献身的な商人の男と婚姻することになる。




 約束の日、ネストルは劇場に来ていた。

 結婚するまでは健全な付き合いを望んでいた両親だったので、こういうデートもろくにしてこなかった。楽しみ過ぎて二時間前から来てしまった。

 待つ間、オリガと会ったら何を話そうかと楽しみで仕方なかった。とりあえずお茶会で盛り上がった話題なら外れはしないかなと思う。

 お茶会。毎週楽しみだったのに。毎週オリガの笑顔が見られたのに。その顔を見るだけで幸せになったのに。

 ノンナは良くも悪くも普通の女では無かったから一緒にいて刺激的ではあったけれど、思い返すと何一つためにならない女だったように思う。しいて言うなら悪口の語彙が増えたかもしれないが、つまりは悪習が身についただけだ。そのノンナは今隣国でこの国に居た時から付き合っていた男と結婚したらしい。男もスパイだったのだ。怪しまれないためにノンナのサポートをする手足。何も気づかなかった自分に吐き気がする。

 ネストルは軽く頭を振ってノンナとのことは忘れようと思う。これからは小さな頃から好きだったオリガがいるのだから。


 そして約束の時間になったが、オリガは来ない。はて、道が混んでいるのだろうか。それとも両親にばれて止められていたり……。

 公爵邸に行こうかと思うが、オリガの言葉を思い出して踏みとどまる。

『私、必ず行きますから。必ず会いますから』

 オリガは嘘をついたことはない。王太子妃として教育されたレディーだ、嘘をつくはずがない。

 だから……きっと来る。


 約束の時間から一時間が過ぎた。空の青さが目に染みる。

 二時間が過ぎた。一回目の上演が終わったらしく、客がぞろぞろと出てくる。


「あら? あの人来た時もいたわよね」

「誰かを待ってる風だけど、すっぽかされたんじゃないの」

「うわ~惨め~」


 客層が裕福な平民メインなのと、心労で顔つきが変わったのもあり、誰もネストルが王太子だとは気づかなかった。恥ずかしくて逃げたい衝動に駆られる。

 ……オリガも、この羞恥を味わったのだろうか。

 そう思うと逃げることは許されないように思えた。


 五時間。七時間。十時間。小用で場を離れることはあっても、ネストルはひたすら待ち続けた。

 そしてついに半日経ってもネストルは待っていた。それでもオリガは来ない。もしかしたら昼と夜を聞き間違えたのかも、と思ったが、その線も消えた。

 日付が変わる頃になってようやくネストルはオリガが約束を破ったのだと気づいた。

 ふらふらと王宮に戻ると王からの罵倒が飛んだ。

「公爵家は国を出て行った。事後報告だが、王家はもはやそれを止められん。この大事な時にお前は何をしていた! ……っゴホッ、ゴホッ!」

 

 結局この日の件が決め手となって、王太子はネストルの腹違いの弟の称号となった。王も最近体調が悪く、王太子を変えるなら急ぎたかったのだ。

 弟はオリガに好意を持っていたらしく、ネストルへしばしば嫌味を言ったが、直接害することはないので優しい部類だろう。




 ネストルは王太子の梯子を外されて以降、すっかり呆けてしまった実母と離宮に住まうようになった。


「オリガは? オリガはどこなの? あの子がいれば皆元通りになるのよ。あの子さえ我慢してくれれば!」

「母上……」

「何やってるの! 早くオリガに会いに行きなさい! 王妃の命令よ!」


 そう言って息子の背中をビシバシ叩いて鳥も飛ばない真夏の屋外に出そうとする。痛みにこらえながら「某日に約束したけれど会えなかった」 と事実を伝える。実母はまるで若い娘のようにきょとんとした顔をしてこう言った。

「それは今年の話なの? もしかしたら来年の話をしたのかもしれないじゃないの!」


 愚かだと言われればそれまでだが、ネストルはその言葉を天啓のように聞いていた。

「そう……かもしれない」

「そうでしょうそうでしょう。オリガは真面目だからきっと来るわ! あの子は何でも言うこと聞くんだから!」


 何度も無理に言うことを聞かせてきた実績があるからこその台詞だろう、とネストルは今になってオリガに申し訳なく思う。

 この母の言葉を胸に、それから毎年、ネストルはオリガと約束した日になると劇場の前でオリガを待つようになった。


 毎年他の客に笑われた。けれどオリガは冤罪だったけれど、自分はそうではないのだ。笑われるのも自業自得だ。

 何年も経つ頃には家族連れの姿が目に染みるようになった。

 そういえばお茶会で何度か「早く結婚して子供を産みたい」 とオリガが言っていたことを思い出す。あの時はおませだなあと思っていたけれど、今はもう自分の妻になりたいなんて令嬢はどこにもいない。

 そこまで想ってくれてた人なのに、自分は何一つ話を聞かずに捨てた。

 罪の形は、年を取るごとにはっきりしていくのだなと感じた。


 オリガに会いに行く、と言えば一日母を見なくて済むというのもあるけれど、待っていればもしかしたら来てくれるんじゃないかという希望が捨てられなかった。

 ネストルの存在が名物になり、チープな新聞の記者が記事を書こうとしたが王族関係者と知り話が無かったことになるというのは何度もあった。

 来ぬ人を待つネストルを可哀想だ気の毒だという人間は多いが、待っている間はこの上なく楽しいのだ。もしオリガが来たら何を話そう、どんな風にエスコートしようと考えられるのだから。そのぶん、帰る時は寂しくなるけれど。

 母親が亡くなっても、ネストルは待ち続けた。王になった弟は兄の奇行を心配して理由を尋ねたことがあったが、オリガとの約束だと知ると「あっそ。なら一度でもやめたらまた約束破るってことになるね。そのまま一生待ってなよ。どこかでオリガ嬢が聞いたら同情くらいはしてくれるんじゃない? 僕はしないけどね」 と手の平を返した。自分は当時約束一つ出来ぬ身だったのに、と兄に嫉妬したのだ。

 言われなくてもネストルはそうするつもりだった。

『最初で最後のお願いです。私との約束、例え口約束であっても、これから先、一生破らないで……』

 二度と約束を破らないことが、オリガに誠意を示す唯一の方法だと思っているのだ。自分がこうして待っている限り、オリガは嘘つきにはならない。……いや、オリガは嘘つきじゃない。嘘つきは自分だけだ。だから、いつかは、もしかしたら、きっと……。



 その日もネストルがオリガを待ち続けていると、向こうからあの頃のままのオリガがやってくるのが見えた。

「待たせてしまいました?」

「いいや、今来たところだよ」

「良かった。じゃあ入りましょう。観劇なんて初めて」


 二人で劇場に入る。白い光が辺り一帯を包んだと思ったら、何も見えなくなった。



 王は兄が劇場前で亡くなったと聞いて頭を抑えた。

 事故現場となった劇場には多額の金を払ってもみ消した。まったく最初から最後まで厄介な人だった。

 第一発見者は「最初は壁に寄りかかって眠っているのかと思いました。あんまり安らかで、幸せそうな顔だったから。あのお爺ちゃん、毎年日付が変わるまであそこにいて、泣きながら帰っていくって聞いてたけど、待ってる人に会えたんですかね……」 と言っていたらしいが、まあ、苦しまずに亡くなったのは幸いだろう。あんなやつでも血縁なのだから。

 王は生きている間は不自由ないようにしてやったのだからいいだろう、とネストルが存在していた痕跡を次々抹消していった。

 それがネストルの本当の最後だった。

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