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総督スクラトフは無力化されたうえで牢に収容された。トップを失った軍部は解体され、連合政府で技術責任者を任じられていたヴァンテが、横滑りしてエルゼノアの最高権力を握ることとなった。軍部一強だったエルゼノアの政府体制は、ヴァンテと研究者たち、学者、政治家たちに委ねられる。
全てが終わってヴァンテは改めて、これまでのことをヘレンに詫びた。彼女が返したのはたった一言。
「それはアンタが一生かけて償っていくものでしょ」
ヴァンテは手段を択ばず、今後の世界をより良いものへと変えて行く決意を固めたという。
エルゼノアで最も使用される動力、エルドリウムの正体が『魂』であるという事実。これも全住民に知らされたうえで、今後の使用を制限する方針が示された。もちろん万能なエネルギーを封印する方針に異を唱える勢力も存在したが、ヴァンテの地道な訴えと、下層階から篤く支持されるキャンベルの助力、そして軍部の長い支配から解放されて喜ぶ住民たちによって、徐々に抑制されていった。
◆◆◆
ヘレンは、軽快な音を鳴らしながら、下層階へと降りる階段を降りていた。以前の戦いの際には長すぎる階段に愚痴を言ったものだが、ここ数年でもう慣れてしまった。
【塔】の仕組みや序列は様変わりした。
上層・下層の住み分けや重い課税はなくなり、すべての住人に等しい額での税と公共福祉が与えられるようになった。物価に対しても緩和政策がとられた。人口が密集していた下層階から上層階へ移り住む人々も増えている。
上層階の既存権益を守りたい人々は根強く反発しているようだが、この流れはもう止められないだろう、とヘレンは思う。なぜなら、人々を不当に制限していた軍部はもう存在しないからだ。ヴァンテも苦労しているようだが何とかやっている。
下層階は人が少し減ったものの、相変わらず賑わっている。長く下層階に住んでいた人々はなかなかこの地を離れようとしないようだ。ヘレンはヴァンテ達に協力するため上層階に居を構えているが、通っている内にこちらの良さも分かって来た気がする。
デッキから住民エリアに移り、ロストラへ向かう。ナイトワーカー、買い物帰りの親子、酔っ払い、チンピラ、軍人。人種ごった煮の中央通りを歩いて行くと、高層建築が集中する煌びやかな街並みが見える。本当に秩序のない街だ。
目的地が近付くにつれて、大音量の実況音声が天井に跳ね返り、聞こえてきた。
『4コーナーをカーブして直線コース……そして、クロエはさらに外に持ち出している! さぁウェイン! 外からはアレックス! ウェイン! アレックス! やって来ている! さらに、さらに外の方からはクロエ! クロエ!』
ヘレンがレース場の観客席の門を過ぎると、そこは熱狂する観客たちで埋め尽くされており、誰もが中央で行われている競技に釘付けになっていた。選手たちは円状に用意された土のレース場の上をバイクで滑走していた。
『さぁ、先頭は! クロエか‼ 懸命にアレックス!! アレックス、先頭はアレックス! 外からクロエ‼ 外からクロエ‼ アレックス‼ 三番手にウェイン‼ クロエ!! クロエだぁぁぁ‼』
先頭選手がゴールゲートを潜る直前、ピークに達した熱気が弾けるようにして歓声へと変わった。車券や予想本、タブレット等々を握りながら人々が喜んでいる。彼らの表情を見ていると、とても誇らしい。ヘレンは無意識に笑顔になった。
先頭選手はしばらく走ってゆっくり停止したあと、ヘルメットを外して観客席に向かって手を振った。金髪がさらりと靡いたあと、青い瞳が覗く。観客席が湧いて、クロエは嬉しそうに笑っていた。
勝利インタビュー諸々が終わった後、クロエとヘレンは照明の落とされたレース場に背を向け、ベンチに腰掛けていた。下層階は相変わらず薄暗く、
「まさか、電動二輪車のレースを始めるとはね。驚きよ」
「がはは! だろ~? オレもさ、ヴァンテに頼まれた時はどうすっかな~って困ったよ。で、エアレーサー共とふっるい歴史書を漁った結果、行き着いちゃったわけですよ」
クロエは肩をすくめてみせながら、意地悪く笑った。エルドリウムの制限に伴ってエアライナーレースは廃止となったのだが、『こんな状況だからこそ人々には娯楽が必要だ』とヴァンテに頼み込まれて、クロエは頭を抱えた。
結果として、エルドリウムの代わりとして電力の使用が再開されたこともあり、各所を奔走しながら、実現にこぎつけた。
「それは結構だけど、事故だけは気を付けなさいよ。もう身体の替えが効かないんだから」
「大丈夫、ちゃんと自動運転車のシステムを応用して接触超直前で退避したり、万が一事故ってもめっちゃ手厚く身体を保護するようになってるから。衝撃は実質無いようなモンまでいけるぜ。後は医療保険も充実してて……」
「分かった! わかったわよ!」
クロエが眼をきらきらさせて勢いよく喋り続けるので、ヘレンは苦笑いをしながら両手を向けて遮る。今でも残党対処といった荒事の手伝いを続けているようだが、こうしていると、本来のクロエはこちらなのだな、と思う。
換装身体もまた、エルドリウム制限によって製造が減っている。とはいえ、クロエやヘレンのような生身に戻れない人々も存在するため、まだ完全に停止されるまでは至っていないようだ。
「あ、そうそう。本題があるんだったぜ。覚えてた?」
「その為にわざわざ来たんじゃない」
思い出したように呟くと、クロエはごそごそと懐を漁り始める。ヘレンは呆れ気味に溜息を付いた。
「ヘレン、今日の勝利をお前に捧げるよ。いつもありがとな。……んで、結婚してくれ」
「は?」
世間話くらいのトーンで続けられた言葉に呆気にとられる。クロエが差し出した小ぶりな箱の中に、小さな宝石の付いた指輪が乗っていた。
指輪を凝視したまま固まってしまうヘレン。クロエはしばらくして、あれ? という風に目線が泳ぎ始める。
「何? どうした?」
「……どうした、じゃないわよ! バカ‼ そもそも私たち、まだ付き合ってないじゃない! あとプロポーズが雑すぎよ! もうちょっと雰囲気のある場所とか……そもそも跪くとかポーズくらいしてくれる? 忘れ物渡すのと同じぐらいの位置じゃない! まったく!」
あまりに突然のことで、ヘレンの頭の中は真っ白になり、しかも目につく点ばかりで、言いたいことが溢れて止まらなかった。クロエは最初、目を丸くしていたが、徐々にニヤニヤと笑い始める。
怒りと焦りに任せて口から出たままをぶつけ終わったあと、ヘレンは肩を上下していた。目線が指輪とクロエを行ったり来たりする。
「……夢みたい」
ぽつりと零れた一言で堰を切って、ヘレンの目から涙が溢れる。クロエは愛おしそうに笑うと、ヘレンを抱きしめた。
〈了〉
アイデンティティ・シンクロニシティ 伊藤沃雪 @yousetsu
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