後編 カラスの運ぶもの
4
メヌーはそのドアをあけようと固いドアノブを必死に回すが、これがびくともしない。
その時、肩に何かを感じた、
振り向くと、険しい表情の青年が立っていた。
きゃっ。
「何をしているの?ぼくの部屋で」
「すみません。掃除しようとして」
メヌーはどのくらい本当のことを言えばよいのかわからない。
青年は首を少し傾げて、メヌーを見つめていた。
「きみはビサから来たメイドのソフィかい」
「は、はい」
「ぼくはピサの大学に行っているアルミロだ。ビサではメルビラ通りに住んでいる。知っているかい、有名な白鳥の噴水がある」
「はい。白鳥の噴水のことはよく知っています」
「ソフィ、きみはうそをついているね」
「えっ」
「通りには白鳥の噴水なんて、ない」
メヌーは言葉を失った。嘘がばれて、こんな気まずい思いをしたのは初めてだ。
「もしかして、チェリのお姉さん、メヌーさんじゃないかい」
「は、はい」
「やっぱり。目がよく似ている。ぼくはアルミロだよ」
「教えてください。チェリはどこにいるんですか。何があったのですか」
「知りたいのは、ぼくも同じだよ」
5
チェリが毎日のように故郷に手紙を書いていたのをアルミロは知っていた。
でも、それが届いていないとわかったのは最近のことだ。母がローマの父に何度手紙を出しても届かないので、調べてみたら、下働きの少年が、郵便局へもっていかず、切手代をくすねていたのだった。
アルミロはチェリがいなくなった日のことを語った。
「あの日、ぼく達は婚約するところだったんだよ」
えっ。
チェリは将来は教師になりたいから勉強を教えてほしいとアルミロに頼んだ。そのことから、ふたりは親しくなっていったのだった。彼は彼女が大好きだったから、肖像画を自分で描いたのだ。
アルミロが大学を出て弁護士になったら結婚して、チェリは学校に通うという約束をした。
両親もチェリを気に入り、アルミロが大学に戻る前日、急遽、内輪で婚約式をしようということになった。
その日、チェリはお祝いの花を摘みに行くと出かけて、そのまま帰って来なかった。
「いくら探して見つからなかったけど、不審なことがひとつある。
病院を当たっていた時のことだ。少し前に、ベルサー家のグロスが運ばれてきて大騒ぎだったと聞いた。
その後、彼はロンドンに去ってしまった。だから、ぼくは、彼がこの失踪に関係があるかもしれないと思っている」
グロスから話を聞きたいのだけれど、彼は島には帰っては来ない。
だから、アルミロはロンドンにも行ってみたのだけれど、グロスは強固なまでに会ってくれようとはしないのだった。
「私、ロンドンに行ってきます」
妹のことがわかるのなら、地の果てにだって行くつもりである。
「わかった。ぼくはここにいて、グロスをこの島に帰させるために、別のところから手を伸ばしてみる。必ず、彼をここに戻して、真実を聞き出そう」
*
ロンドンに着いた時、メヌーは高級洋服店というところに行き、三枚のドレスを購入した。
次に美容院というところに行って、髪を今風に結ってもらった。
グロスが毎日、午後にグリーン公園を散歩することをつきとめたので、メヌーは午後になると公園に出かけた。
ある日、彼らしい人物が歩いてきたので、
「ご機嫌よろしゅう」
とイタリア語で声をかけた。
彼は驚いて立ち止まった。
「お嬢さん、どうしてイタリア人だとわかるのですか」
「私達はイギリス人とは違いますわ。そうでしょ」
メヌーはそう微笑んで、立ち去った。
次に会った時には、「ソフィ」という名前を教えた。
三度目に会った時、彼からお茶に誘われた。
「どこのお方でしょうか」
「名乗るほどの者ではありませんが、ビサからやってまいりました」
ふたりはアフタヌーンティをともにするようになった。
その時、メヌーはグロスの片方の目が変形していることに気がついた。
グロスが自分を気にいって、誘惑しようとしていることは感じられた。さかんに家に来るように誘われたが、それは断り続けた。
「ロンドンはとても蒸し暑いですわね。私、我慢ができませんことよ」
ある日、メヌーはフリルのついた絹の扇子をひらひらさせた。
「本当に、今年の夏は特別に蒸します」
「私、来週から、コルシカ島に参りますのよ。あの美しいビーチで、日光浴をしようと思いますわ」
コルシカと聞いて、グロスの顔が固くなった。
「あら、コルシカがお嫌いですか」
「そんなことはないです。あそこには家もあります」
「あら、奇遇ですわね。祖父の屋敷は、まだあそこにありますのよ」
「ぼくには屋敷の始末などやっかいなことが残っておりましてね。一度は行かなければならないと思っています」
「私の好きなビーチはサレシア・ビーチ。白い砂浜、ターコイズブルーの海。あのす ばらしいビーチでお会いできるでしょうか。あちらでもっとお近づきになれたらうれしいのですが、お会いできなければそれも運命ですわ。どうぞ楽しい人生を」
*
メヌーはコルシカに帰ると、アルミロを前に泊めてくれたカロルの古民家に案内したが、それがなぜか見つからないのだった。
アルミロがポケットから四角に折りたたんだ紙を取り出して広げた。そこにはある地図が描かれ、右側のある部分に赤色で〇がつけられていた。
「警察に行って手にいれたのだけれど、ここはクロスが事故に遭った場所なんだ。何者かに襲われて、目を刺された場所なんだ」
「これを見てごらん」
書類の右上に、日にちが書かれていた。
「これはチェリがいなくなった日だ。ぼくが大学に帰る前の日で、婚約の日だったから、間違いない」
「妹がいなくなった理由と、グロスの目の怪我と、カロルの家と、何かつながりがあるのでしょうか」
「わからない。しかしグロスがこの島に戻ってきたら、全てがわかると思う」
「彼は帰ってくるでしょうか」
「きっと来る。きみに会いにくるということもあるけど、税金のことで税務署からの呼び出しがかかっている。何度も無視しているから、これ以上放置し続けると、大変なことになる」
アルミロはどんなにチェリが姉のことをよく話していたと教えてくれた。
メヌーはアルミロがどれほど妹を愛していたのかを感じた。こんな人を残していなくなったのだから、チェリがもうこの世にいるとは考えられない。
あの日、この森で、何かがあったのだろう。
そのことは、グロスが来ればわかるかもしれない。どうか彼が島に来ますように。
6
祈りが通じたのか、グロスは五日後に島にやって来た。それは島の税務署職員が召喚状を持って、ロンドンの家を訪ねていったせいもある。
グロスは税務署に出向き、多額の税金を支払うに命令された。それを無視するなら、土地と親の遺産を手放して、すぐに島を出ていけ。さもなくば投獄すると言われたのである。
グロスはむしゃくしゃしながらビーチにやってきたが、水着姿のメヌーを見ると心が騒いだ。
「ソフィさん、またお会いしましたね」
「あら、グロスさま、ごきげんよう」
白いパラソルの下でメヌーは微笑んだ。
「ここは気持ちがよろしいことよ。さあ、グロス様も着替えて、座ってくださいませ」
「そうしたいところですが、これから銀行を回らなければならないので、今日は失礼します」
「もしかして、お金の問題がおありですか。少々ならお役にたてるかもしれませんから、何でも言ってくださいませね」
翌日も、グロスはやって来た。
また税務署に交渉してみたが、なかなかうまくいかない。
「お抱えの弁護士はいませんの」
「いましたが、首にしました。やつらは税務署と組んで、いかにむしり取るかを考えているのです」
「私、若くて優秀な弁護士を知っていますわ」
「どなたですか」
「アルミロ・ビクトリオ氏よ」
「ビクトリオ侯爵家の方ではないですか。あの一家は、信望の厚い一家です。ソフィはどうしてご存知で」
「私達、親戚ですのよ」
「それはうれしい。ぜひ、その弁護士に引き合わせてください」
「わかりましたわ。ご懇意にしていただいているグロス様のことですもの、きっと快く引き受けてくれるに違いありませんわ。アルミロは弟みたいな存在なのですから」
数日後、グロスが弁護士と会う段取りが整った。メヌーが馬車グロスのホテルに迎えに行き、付き添って、行くことになった。
馬車が森に近づくと、
「どうしてここなんですか」
と彼が憤慨した。
「弁護士がここで待っていると言うのですもの。ほら、あそこ。アルミロが手を振っていますわ」
グロスがしぶしぶ馬車から下りると、馬が走り去ってしまった。
「どうして馬車がいなくなるんだ」
「グロスさま、何かに怯えていらっしゃるのですか」
その時、カアカアという声が聞こえて空が真っ黒になった。空がカラスの大群が、黒雲のように空を覆っている。
時々、一羽二羽のカラスが矢のように飛んできた。
「どうしたことだ」
助けてくれ。
グロスは跪き、目を両手で覆って、顔を地面につけた。
「大げさですよ。ただのカラスじゃないですか」
とアルミロが笑った。
「奴らはただのカラスじゃない。悪魔のカラスだ。やつらがこの目に突き刺したのだ」
「どうして。カラスがあなたを狙うのですか」
「あれはジェノヴァから来たカラスなんだ。ジェノブァのやつらは、おれ達一家を憎んでいる。だから、怨霊になって、おれ達を追ってくる」
あの日もそうだったとグロスは思った。
以前、家でメイドとして働いていたチェリという若い娘がいた。気にいってやさしくしてやったのに、不愛想だった。ちょっかいを出すと、怒ってやめてしまった。
それから一年半ほどたったある日、森の横の道を馬車で走っていると、あの子が見えた。前より美しくなり、はなやいでいた。おれは御者に馬車を止めさせ、森に入って行った。
ところが彼女はおれを見ると汚いものを見るような目をして逃げたから、おれは追いかけた。追いついて捕まえたら、もみ合いになった。向こうがひっかいたから、かっとなって一発殴った。すると彼女は倒れて木の切り株に頭をぶつけて血を流した。
すごい血だったから、死んだのかもしれない。
おれがこわくなって逃げようとしたら、カラスの大群が襲ってきて、一羽がおれの目に突入した。
目に暴れるカラスの嘴がはいったままのおれを、御者が病院に連れていった。あまりのグロテスクな姿に、病院中がざわめいた。
チェリのことは知らない。その夜、カラスが黒雲のようになって、北のほうへ飛んでいくのを見たと村人が言っていたそうだ。
「ここで、何があったのですか」
とアルミロが書類をかざした。
「そんなこと、知るか」
グロスがそう言った時、数えきれない数のカラスがけたたましい声で叫んだので、彼がちょっと顔を上げた。その時、カラスの大群が遅いかかり、嘘みたいに、彼を空に運んでいった。
メヌーもアルミロも驚きすぎて、一瞬以降が止まりただ茫然と立っているだけだった。
*
アルミロは、下働きの少年の部屋から、三百通の手紙の束を発見した。彼は金がほしくて郵便代をくすねていたのだが、一度チェリの手紙を読んでみたら興味が湧いて、次が読みたかったこともある。
そこには十六歳になったばかりの少女の恋心が素直に書かれていた。
アルミロとの出会い、少し近づいたと思ったうれしい日のこと。だめだと思った悲しい日のこと。ふたりで出かけた日の楽しさ。そして、婚約できた喜び、未来への希望。
少年によって封が切られていたが、手紙はようやく姉のところに届いたのだ。
メヌーは手紙の束を抱きしめた。
チェリ、よい人に愛されてよかったね。
さあ、帰ろう。お姉ちゃんと、故郷に帰ろう。
*
メヌーは手紙とともに、ポワチ村の家に帰ってきた。
家の横に、可憐な白百合がひとつ咲いていた。
白百合は妹が好きだった花だ。でも、ここに植えた覚えはないけれど、どこから種が飛んできたのだろうか。
冬が来て、春になり、夏がやってきた。
大学の休みでコルシカに帰る途中、アルミロがジェノヴァに寄るというので、メヌーは港まで迎えに行った。
その日、町では、広場に白骨死体が置かれていたというニュースで持ちきりだった。
若い男性の白骨で、服は身につけていなかったが、指に印章指輪をはめていたという。
指輪には、かつてジェノヴァの市民を虐殺したベルサー家の紋章が刻まれていたという。
おわりに
久我教授が話を終えて、網川がもってきた十万円のワインを味わった。
久我は数年前に大学を退職することになり、網川が後任に就いた。
その網川は最近世界的に名誉ある賞を取ったので、その報告をしにこの山の別荘までやって来たのだった。
「ぼくが先輩の論文をパクっているなんていう輩がいるんですよ」
「そんなことは、気にしなくてよろしい」
網川の顔に安堵の笑みが浮かんだ。
「ありがとうございます」
暗くなったので網川が帰ることになり、久我が玄関まで送ってきた。
「気にしなければならないことは」
「はい」
「カラスだよ。目を狙うからね」
えっ。
「この傘を借りていってもよろしいですか」
「カラスはアグレッシブだから、逆効果だな」
「では、どうすれば」
「目を抑え、頭を地面につけて、這いつくばることだな。カラスがいなくなるまで這いつくばれ」
冗談ですよね。網川は言おうとしたが、その表情が凍った。久我の目が、笑っていなかったからだ。
完
ジェノヴァのカラスが運ぶもの 九月ソナタ @sepstar
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