毒虫
二岡誠
本編
こういうことを言ってしまうと弁護士失格かもしれませんが、被告人が既に死亡している事件の弁護をするのは、いつだって気が重いです。
まして今回は包丁を持って小学校に侵入し、子供達を脅かした上で身勝手な焼身自殺をした男なのですから。
普段なら残された家族のため、と気合いをいれたりするのですが...ガソリンの威力はすさまじいもので、指紋も毛髪も燃え尽き、身元不明なんだからたまりません。
ただ、面白い...いや、面白いといっては不謹慎かもしれませんが、被告人の車からこんな遺書が発見されましてね。どうぞ。読んでみてくださいませんか。
私の身に起こった恐ろしいことは、今ではそれが当然のことになりはじめ、深い諦観とともにその記憶も薄れてきています。
ですが間違いなく...それは私の身に降りかかった災厄で、今、私はそのために命を絶とうとしています。
この後行うことを考えれば、きっと様々な方がこれをお読みになるでしょうから、曖昧なことを書くわけにはいきません。なので、当時の日記から、あの恐ろしい転機が訪れた日を抜粋して、ここに記そうと思います。
ある日気が付くと私は、男になっていた。それも、とびきり醜い男だった。
朝目が覚め、布団から立ち上がると、やけに身体が重いことに気づく。はっきりしない頭のまま、身体を見下ろす。すると、大きくでっぱった腹が目に入った。
驚いて自分の手をみる。指が短い。ずんぐりした指だ。手の甲にびっしりと毛が生えている。驚く。とても。そして、こういうとき、アニメや漫画ではよく手をみるけれど、本当だったんだ、なんて一瞬あたまによぎった。
そして、すさまじい恐怖を感じながら姿見の前に立つ。そこに写った姿をみて、私は自分の身体がどうなったかを知る。
その日から、私の人生は一変した。父親を装い、職場に電話をかけ、娘は事故に遭いしばらく出社できないと告げる。
こんな緊急事態にそんな律儀なことをしなくてもよいかもしれないが...いつか戻ったときに働き口がないようでは困る。丁重に申し伝えた。
友人と会う予定もキャンセルした。彼氏とももう会えない。ある意味においては、私という存在は綺麗さっぱり、この世から消滅してしまった。事実上の死である。
そして、私という存在がこの世から去ったと同時に、一人、おそろしく醜い赤ん坊が誕生した。
さて、一通りの対応がひと段落したので、頭を働かせる。私はこれからどうしたら良いのだろうか。
おそらく病院に行った方がよいのだろう。果たして何科に行けばよいのだろうか。
いや、ひとまず、DNA検査をするのが一番良いだろう。突然病院にいって「ある日気づいたら男になっていたんです。」なんていったら... 勧められるのはおそらく精神科以外にないだろう。
まずは、部屋に残っている頭髪と、私に生えているわずかな頭髪のDNAを調べ、生物学的に私と私が同じものであることを証明しなければならない。病院にいくのはそれからだ。
結果が出るまでは時間がかかるに違いない。このまま長時間過ごすわけにはいかないので電話で予約をとり、さっそく向かう。
電車に乗る。普段よりは遅い時間だが、まだ通勤する人がいるのだろう。電車は少しこんでいた。
だが、運よく席が空いたので座る。そしてしばらくしてから気づく。混んでいるのに、となりに誰も座らない。醜さも案外快適かもしれないな、と気休めに思ってみる。
到着し、可能な限り私の身体の一部を提供する。結果がでるまで一週間はかかるらしい。一週間...長い時間だ。おそらく、これから結果が出るまで酷い不安に襲われることはわかっているので、気が重くなった。
だが、誰にも相談できない。そう、この醜い赤ん坊は突然世界に放り出されたため、おそらくこの世界の誰よりも孤独なのだ。
帰り道、いつものカフェに寄る。普段はにこやかな店員さんに無愛想な接客をされる。そして、なんだか周りの女性客の視線が痛い。特別おしゃれなカフェではないし、男性客もいる店なので問題ないと思ったのだが。
そして案外、純朴そうな若い男性の店員さんは普段と変わらない素敵な接客をしてくれる。おしゃれでもない、いってしまえば、あまりカフェでアルバイトをしているようなタイプではない人だった。もしもとに戻れたら、絶対に話しかけよう、と思った。
家についた。玄関を開けて中に入ると、異臭に気づく。なにか、臭い。
それが自分の臭いだと気がつくのに時間はかからなかった。以前から人間ではあったので、体臭はあった。ローファーを履いて出かけた日の足の臭いがすさまじいこともあった。
だが、これは違う。人間の、生物の臭いに加えて、濡れたまま放置したような雑巾の臭いがする気がする。そして上半身からは異国のスパイスの臭いがする。
耐え切れず急いで風呂に入る。
家にこもっているうちに一週間が経った。外にもでず、誰にも会わなかったので、この一週間でもっとも苦痛だったのはやはり体臭だった。
洗っても洗っても、臭いが残っているような気がする。朝目覚めると枕が臭う気がする。ずっと家にこもっていたこともあり、段々家の中のものが黄ばんでみえてきた。限界が近かった。
ようやく検査結果が届いた。宛名だけが記載されている真っ白い封筒に入っていた。
DNA検査を必要とする人の大半の理由を想像すると、その封筒もなんだか意味を持ちはじめ、少しおかしかった。当人にとっては全く笑いごとではないのだろうけど。
結果は、他人だった。私は私ではなかった。では、この部屋に落ちていた髪の毛は一体誰のものだったんだろう。間違いなく、私のものだ。私は以前、女性だった。
SNSにも、私がかつての私であるという証拠が残っている。だが、それを一体誰がわかってくれるのだろう。
これを読んでいるあなたは、自分しか知らないことを話して証明すれば良い、と思うかもしれない。創作では定番の方法だ。無理もない。
私の姿が、せめて同年代の男性であったらそういう方法もあったかもしれない。しかし、私が変身してしまったのはあまりに醜い、中年の男性なのだ。
そんな男が突然、ある女性にしか知りえないことを話し、信じてくれといっても...はじまるのは物語ではなく事件で、ラブストーリーではなくホラーだろう。
そう、変身だ。私は毒虫になってしまった。戸籍もないので社会福祉も受けられない。年相応の経験もないままこの姿になってしまった。かつての友人も、恋人も、もう私に気づくことはない。
どんなに不幸を嘆いていても、腹は減る。生きるためにその日限りの仕事をし、生をつないだ。これまでにしたことがなかったので、力仕事はとても応える。代謝が落ちているこの身体だ。寝ても疲れはとれず、醜い容姿と、仕事ができないことから、どの現場にいってもさげすまれ、場所によっては暴力を受けた。
毒虫は家族にも見捨てられ、悲劇的な死を遂げた。だが、読者に読み続けられ、悼まれ続けた。なんて幸せなことだろうと思う。
もう私には、私のことを見捨てる家族もいない。そして悼んでくれる読者もいないだろう。何故かって、私はこんなにも、質量を持った、生暖かくて、悪臭のする、醜い化け物になり果ててしまったのだから。今私のいる世界には、かっこよくて、可愛くて、美しい主人公しかいない。
さて、いい加減、私が筆をとった理由についてお話しようと思います。
私は、この毒をまき散らそうと思います。この姿になってから、5年間、生き続けました。
時には精神科に通い、あの頃の私を忘れ、ありのままの自分を受け入れようとしました。ですが、そのたびに、社会に蔑まれ、疎まれ、私はもう世界にすっかり嫌気がさしてしまいました。
あなた方が悪いとは言いません。私もかつてはそちら側の人間だったのです。私たちが有性生殖をする生物である以上仕方のないことです。
ですが...大変申し訳ないのですが、共にこちら側へきていただきます。
これは、何の咎もないあなた方の美しさへの復讐であり、そして何より、私は、あなた方の想像もつかないほど、深淵な孤独と時をともにしすぎてしまったのです。
どこか一番幸福な場所を探そうと思います。
そこは公園かもしれないし、おしゃれなデートスポットかもしれない。遊園地かもしれないし、結婚式場かもしれないし、道端に咲いている、どこにでもある花のようなふとした、ありふれた、ささやかな瞬間かもしれません。
では、さようなら。
どうです?被告人は実に愉快なせん妄に取りつかれていたようだ。ここだけの話ですが、小学校に侵入した際には、やはり無理だ、ごめんなさい、と泣きながら逃走したようですよ。確かに、女みたいな男だ。一世一代の散り際すら情けないなんてね。おっと、これはオフレコでお願いしますよ。
ひょっとしたら、こいつは無罪を勝ち取れるかもしれません。まあ、喜んでくれる人なんて、誰ひとり、いませんがね。
毒虫 二岡誠 @NeverPlayTEKKEN
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