「波止場」(ローバの充日 第47話より)

@88chama

 波止場

 波止場の思い出を書きたいと思ったがどうしようか。書くとなるとローバの産地が何処であるかが分かってしまうので迷っている。別に大した問題ではないのだけれど、カクヨムでは個人情報は知らせずにすむものなので、これまで覆面状態で気楽に書ける利点を利用してきた。だからといって、「当方いたって器量よしで頭脳明晰。育ちも良く、実家には金の茶釜有り」などとウソ八百を書き連ねているローバではない。


 ただ産地が知れると、それによって不都合なことが出てきやしないかと思ったりもする。漠然と新潟県産で一括りされていたのが、顔の見える生産者さんのようになると、単純なローバは産地のPR大使よろしく気張ってしまいそうで恐い。


などと四の五の言ってると、それほどのものかアホらしいと冷笑されそうなので、すんなり波止場の思い出を話させていただくことにする。


 

 新潟港からカーフェリーで2時間半、ジェットホイルで1時間程で佐渡両津港に到着する。この船の着く所を子供の頃は波止場とか船場と呼んでいた。船の到着や出航の時には佐渡おけさが流れるのだが、帰省の度に聞くこの曲は嬉しい気持ちを盛り上げてくれたし、またその帰りに聞けば別れの寂しさを募らせた。


 今ではもう見られない風景だが、出航する乗船客と岸壁で見送る人達とを繋ぐ沢山の紙テープは、転居や転勤、進学等々、其々の船出を彩るものであった。船が岸壁を離れて行くにつれ、色とりどりのテープはまるでカーテンが風に吹かれているかのように舞い、手元のテープの芯はクルクルと回って長さはどんどん短くなり、最後には千切れたり手から離れたテープが波に漂って静かに沈んでいく。

この風景を高校生の私はよく寄り道をして眺めていた。別れという感傷的なシーンに、何が悲しいのか分からないけれど涙ぐんだりしていた私を、母はいつも「よう涙が出るもんだ、ホントにいい馬鹿だっちゃ」と笑った。



 県庁職員だった長兄が、下宿先の小学生の少年を連れて帰省した時のこと。お盆休みが終わり帰る兄達を船場で見送ったが、新潟に着くとそのまますぐ佐渡行きの船に乗った彼を、迎えに出て欲しいと連絡がありまた船場まで行った。そして夏休みの終わりまで我が家で過ごした彼を、また見送りに行くという、そんな楽しい思い出があった。


 大好きだった高校の女性教師の転勤を涙で見送ったり、大学時代には佐渡見物に来た下宿のご家族やクラスの友人達を、出迎えたり見送ったりした波止場だが、結婚して東京に住むようになると、殆ど見送られるばかりになった。学生時代、長期の休みが終わって帰る時には島影が消えるまで、そして結婚後はあと何回親に見送ってもらえるのだろうかと、感傷的になってデッキで涙ぐみながら、波止場で見送ってくれた家族を思った。



 もう50年以上も前になるが、今でもその光景を鮮明に覚えていることがある。佐渡汽船の建物の中で人を待っていた時、中年の男性が走ってやってくるのが見えた。何だか慌てているようだなと思いながらいると、私の目の前を全速力で走って行き、大きなガラスを突き破って飛び込んでしまった。余りの慌て様に壁面が全面ガラス張りであることに気付かなかったようで、頭や体から血が流れ救急車で運ばれて行った。船に乗る人への急用でもあったのだろうか。テレビ番組などの〇Xゲームで、思いっきり扉を突き破ってダイブする場面を見ると、いつもその光景が思い出される。


 その男性と同じように、私の2人の姉達もまるで短距離競走のような走りで、船に乗り込んだことがあった。仙台の大学病院に長姉の看病に行っていた母から、いよいよ長姉が危篤状態になったとの知らせがあり、出航時間に何とか間に合いたいと必死だった姉達は、取るものもとりあえず家から船場へと走ったのだそうだ。洋服を着替える時間もなく、何とかこの船に乗って新潟から仙台行きの列車に乗らねば、と必死の思いだった。


 何とか船に乗り込み新潟の波止場に着くと、そこには義兄が手配してくれていた新潟支社の迎えの人が待っていた。彼のきちんとした服装を見て、姉達はその時に初めて自分達の酷い身なりに気が付いた。洋服は普段着のままで足元を見れば、大急ぎでその辺にあった歯のすり減ったゲタをつっかけて履いていた。長姉の容体の心配とこのみすぼらしい姿に、悲しさと惨めな気持ちで泣き叫びたくなったそうだ。




 古い曲だが二葉百合子の「岸壁の母」をご存じだろうか。戦争が終わり引揚船が着く岸壁(桟橋)で、帰らぬ息子を待ち続けている母親を歌った悲しい曲。この歌のように私の母も同じことをやっていたそうだ。長兄は僅かな間だが軍隊にいたことがあって、もう少し戦争が長引いたら飛行機に乗るところだった。終戦になっていち早く家に帰りたいところだったが、その気持ちとは裏腹にどうしても帰る気になれなくて、1年間も佐渡を思いながら新潟で悶々と過ごしていたそうだ。新潟の波止場で海の向こうを眺めていた時、佐渡の波止場では船から降りてくる人に、息子のことを知らないかと懸命に尋ねている母親がいたのかと思うと切ない。 


 その母が亡くなる前、次男一家と住んでいた佐渡の家から、両親と同居する為にと長男夫婦が立てた新潟の家に越すことになった。長年の付き合いの近所の人達はとても残念がって、佐渡が恋しくてたまらなくなったら、いつでも帰って来てと見送ってくれた。そうやって見送られたのに何年も経たぬうちに、母は病気で亡くなり佐渡に帰ることになった。


 つい数日前に島外の病院で亡くなった次姉が、船に乗って佐渡に帰って来たのだが、45年ほど前には遺体は船には乗せられなかったようで、母は火葬を済ませてからの帰郷だった。波止場では骨箱を抱いて船を降りた私達兄弟姉妹を、近所の人達が大勢で迎えてくれ、まるで野辺送りのように長い行列で家まで一緒に歩いてくれた。この情景には何度も胸が熱くなって、いつまでも忘れられない思い出となった。




 多くの人を見送ったり出迎えたりの停車場や波止場だが、そこには其々の人達の思い出や物語があることだろう。私はもう20年ほど佐渡の波止場に立ったことがないが、目を閉じると色々なことが浮かび「佐渡おけさ」まで聞こえてくるようだ。おけさの合いの手は「ありゃありゃありゃさ」だ。思えば誠に呑気に暮らしているうちに、ありゃありゃありゃりゃ!? 75年も生きてこられたローバである。 

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