第2話

 私たちが通う高校は、家からほど近い場所にある。風真と美羽は私よりも一つ年上で、私は今2年生。学年も苗字も違うのに毎朝一緒に登校している私たちは、周囲から好奇の目で見られることも多い。


 私は好奇心に満ちた目を向けられるたびに気まずい思いをしていたけれど、風真は気づいているのかいないのか、どこ吹く風で歩き続けている。美羽がいた頃はまだましだった。美羽と風真は同じ学年だし、中身をとっても容姿をとってもぴったりだったから、誰もおかしいとは思わなかっただろう。そして当然――交際していると噂されていた。


「ねえ、一緒に登校するのやめない?」


 私は一度風真にそう訴えたことがある。


「なんで?」

「なんでって……。え、風真気づいてないわけ?」


 きょとんとしながら考え込んでいる風真を見ていたら、反論する気も失せてしまったことを覚えている。


「こよりちゃん、風真に何を言ったって変わらないわよ」

 美羽がおっとりと笑いながらささやいた。

「こよりちゃんが変な男に騙されないか心配なんですって。ほら、このまえ桜通りで誘拐事件があったじゃない」

 それを聞いて、もっと呆れてしまう。

「誘拐って、たかが500メートルの距離なのに」

「それが風真って人よ」

 にっこりと笑って、美羽は私の頬を撫でた。


 優しくて、心配性で。美羽が私にとってのお母さんなら、風真はお父さん――いや、兄のような存在だった。けれど、美羽がいなくなってしまってから、私の価値観は変化した。


 風真のことを、もう兄とは思えなくなった。どうしたら振り向いてもらえるのかはわからない。


(こんなに頑張ってるのに)


 私はむっとしながら軽く巻いた毛先に触れる。美羽みたいに、何もしなくてもゆるやかな波を描く髪だったらよかったのに。







 その日は暑かった。


 授業中でも蝉の声がやかましく響きわたり、先生の声とチョークが黒板を打つ音が子守唄のように心地よい。


 冷房の風に、ノートの端がぺらぺらと浮き上がる。どうにか瞼を開けてシャーペンを動かし続けていたが、ついに私は睡魔に負ける。


「水瀬、五限終わったぞ」

 ばしん、と頭の上に衝撃を感じ、私は慌てて目を開けた。

「えっ、うそ!」

 どれくらい寝ていたのだろう。時計を見ると、ちょうど授業が終わった時間だった。眠気が嘘のように吹き飛び、目の前あるのはすでに消された板書と、ほとんど白紙のノートだけである。

「おまえなあ、授業開始5分で撃沈してたぞ」

「えっ」

 担任が苦笑いを浮かべて、私の頭にぶつかった教科書をひらひらと振った。

「次赤点取ったら、職員室で補習だぞ」

「う……」


 担任はそう言って教室を出て行った。

「職員室で補習はやばいでしょ」

 私の顔を覗き込み、親友の三枝志保さえぐさしほが笑い声を上げる。志保のきれいなストレートの髪から、ひんやりとしたシャンプーの匂いがただよった。

「志保、悪いけどノート見せて」

「いいよ。はいこれ」

 適度に色が使われたお手本のようなノートを差し出される。

「まじで助かる」


「水瀬」

 不意に上から声が降ってきて、私はちらりと目だけをあげた。

「なによ」

「また補習か」

 松浦啓まつうらけいが、にやにやとこちらを見下ろしていた。松浦は幼馴染で、ソフトテニス部のエースである。色素の薄い瞳と癖のある髪は爽やかな印象を与えているのに、常に浮かべているいたずらな笑みのせいで台無しだ。


 もっとも、志保には違うみたいだけれど。


 ちらりと志保を見上げると、彼女は白い頬をうっすらと紅潮させていた。志保から松浦が好きだと告白された時は本当に驚いた。志保は優等生で、松浦みたいな脳まで筋肉でできているような男に好意を持つなんてありえないと思っていた。


「補習じゃないし。まだ」

「なんだよそれ」

「ていうか邪魔しないでよ」


 松浦は志保のノートを覗き込み、うわーと間抜けた声を出した。


「これ三枝のノート? めちゃくちゃ綺麗じゃん」

「だって。よかったね志保」

 にやりと志保を見上げると、志保は案の定顔を真っ赤にしてうつむいていた。

「……あ、りがと」

「おう」

 松浦はなにも気づいていないのか、いつも通りである。

(この脳筋)

 私は心の中でため息をつきながら、ノートを写し続けた。


 ○


 「あっつい……」

 ネクタイを緩め、私は大きく息をつく。汗でひたいに張り付いた前髪がうざったい。

「いよいよ夕方になっても気温下がらなくなったか」

 志保も隣で顔をしかめ、下敷きをうちわ代わりにぱたぱたと動かしている。けれどそれも、ぬるい空気をかき混ぜているようなもので、ちっとも涼しくない。

「熱いのに大変だね」

 私は窓から腕を投げ出して、グラウンドで活動する運動部を眺めた。サッカーボールを力強く蹴る音。テニスボールがラケットにぶつかる音に重なって、陸上部のホイッスルが響く。


「吹部は? 今日は休みなの?」

 志保はうなずき、髪を何気ない仕草で耳にかけた。

「夏にサックスは大変だよー」

「金管だと熱くなるんだっけ」

「そう。外練はタオルないと終わる」

 会話をしている間も、志保の目は真下に向けられている。そこで練習しているのはソフトテニス部で、志保が注目しているのはもちろん松浦だ。ラケットを置いて、ユニフォームの襟で汗を拭っている。そして、大きな声で水がなくなったと嘆いている。

「志保、水持って行きなよ。チャンスだよ」

 私は志保の腕を掴んで引っ張るが、志保は顔を赤らめて動こうとはしない。

「無理だよ、あんまり話したことないし」

「だからこそ行きなって! 松浦のことだから素直に喜んでくれるでしょ」

「ダメだってば!」

 数秒の押し問答の末、ついに志保は私の手を振りほどくことに成功する。志保は乱れた袖を直しながら、顔を赤くしたまま食い気味に言った。


「そっちこそどうなのよ。日野先輩とは」

 日野先輩、とは風真のことだ。私は一瞬言葉に詰まる。ちなみに、風真が好きだということは、志保しか知らない。

「変わりない。まだ妹ポジ」

「そっかあ。でもさ、なんていうか」

 志保は視線を彷徨わせ、小さくつぶやいた。

「小さい頃からずっと一緒にいたんでしょ? いきなりそういう目で見られるかっていうと、なかなか難しいんじゃないかな」

 私は何も言わずに目を閉じた。小さい頃からずっと一緒。これがよくないのだろうか? だけど、それは美羽だって同じことだ。

(そんなこと考えたって)

 確証のないことにいちいち気を揉むのは時間の無駄だ。私は目を開け、窓枠に体重をあずけて大きく伸びをする。

「そろそろ帰ろっか」

「日野先輩待ってなくていいの?」

「あー」


 私はちらりと時計を見た。


 4時半。風真はまだ教室にいるはずだ。私は風真に、校門で待っているように言い聞かされている。いつもならそこで落ち合って一緒に帰るのだが、今日はなんだか気が進まなかった。

「いい。一緒に帰ろ」

「ほんとにいいの? 心配するんじゃない?」

 志保はそう言ったが、私はどうしても風真と帰りたくなかった。はっきりした理由も言えないのに、約束を破ろうとしている。それがとても子供っぽくて、私はため息をついた。美羽だったら、自分の気分で約束を破ったりしない。


「――ごめん。先帰ってて」

 志保は笑い、うなずいた。

「日野先輩は過保護だね」

「過保護、なのかな」

 志保は気にしないでと手を振る。

「こよりが心配なんだよ。ほら、あの――美羽先輩のことがあったじゃない?」

 言葉を濁して気まずそうな顔をする志保に、私はうなずいてみせた。

「心配してくれるのはありがたいんだけどさ」


 手を振って別れを告げると、私は教室を出た。

 風真も、昔はどちらかと言えばドライなタイプだった。私がなにをしていようと、どこにいようと大して心配もしなかったくせに、今では登下校でさえ同伴を固辞している。


 美羽の事故で、風真は怖くなったのだろう。


 孤独になりたくなくて、これ以上周りの人間が死ぬのが怖かったのだろう。


 私たちは五歳くらいからずっと一緒だ。志保が言うように、「近すぎる」のだろうか?

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踏切とラムネ瓶 七沢ななせ @hinako1223

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