第七集「清らな月に君を慕う」
門が開いたのは、鼓声最後の一音が夕闇に消えかけたときだった。
琳瑯が座っていた基壇から立ち上がると、相禄は辺りに目を配りながら草むらを掻き分け、軽やかに階段を駆け上がってきた。
「やはり男か。で、取引って? 言っておくが手切金は、もうないぞ」
正面に立ったのは、目鼻立ちの通ったいい男だ。上背もある。明らかに小馬鹿にした笑みを浮かべて自分を見下ろす様には、凄味さえ感じた。
琳瑯は足と腹にぐっと力を入れ、掌を固く握る。
「今すぐ清燕を井戸に投げ入れて殺したと役所に申し出ろ。その前に――清燕に謝れ」
琳瑯は相禄を見据えたまま、井戸を指さす。
相禄の表情が、少し緩んだ。
最初は伏目がちに小さく、やがて天を仰いで大笑いし、
「やはり女は死んでるのか。だったら、おまえさえいなくなければ、全て解決だな」
目の前で高笑いしていた相禄が、突如こちらを向いた。
と思ったら突き飛ばされ、基壇に押し倒される。頭を強かに打った。周囲がぐるぐるする中、首に圧迫感。息ができない。
馬乗りになった相禄に絞められている――そう分かったときには、定まった視界が、次第に霞んでいく。琳瑯は、絞めつける両手にどうにか爪を立て、
「清燕が、一体、何をしたっていうんだ」
相禄は鼻先で嗤い、
「『俺と離れるくらいなら死ぬ』と言うから、その通りにしただけだ。手切金のおかげで、今や俺は本物の『受験生』だしな。俺の役に立ちたいといつも言っていたから、あの女も黄泉で喜んでいる」
耳を塞ぎたくなったし、喚きたくもなった。
聞きたくないし、聞かせたくない。
渾身の力を指先に籠めた。僅かに、首を絞める力が緩む。
「あんたは――ただの人でなしだ。たった一人の娘の純真を踏みにじるヤツが、人の国を動かせるとでも」
相禄がにやりと笑った。
一転、目に残忍な光を浮かべて琳瑯を見下ろし、
「言ってくれたな、自分の浅薄さを噛み締めながら、あの女の後を追え!」
両手に一気に力が加わった。
「ガッ」と喉が鳴り、喉の奥からこみ上げてくるもので息ができない。目の先に浮かぶ満月の、清らかな青い光が、夜闇に沈んでいく。
いや、この光は――。
「せ、いえ……」
急激に、全てが閉じていく。
頭上で男の悲鳴、遠くで人の声、何かを打ち破る音、それに紛れるように「あなたなんか――」、そんな声が耳元で聞こえた気がした。
◆
「お待たせ」
清鳳が席に着いてほどなく、次々と料理が運ばれてきた。琳瑯と清鳳は、件の小吃店にいた。
あの日、巡回の衛士が駆け付け、相禄は捕らえられた。相禄の笑い声が、風に乗って届いたらしい。そして引き上げられた清燕の遺骸は、ほどなく家族に引き渡された。
憎い相禄と戦って負傷した琳瑯に、清燕の父は礼をしたいと申し出た。何度も固辞したが、相手も引かない。ならばと琳瑯が頼んだのは働き口の紹介で、それが今身を置いている小さな仕立屋だった。夜、部屋に戻ると、気づいたら朝という忙しい毎日だったが、琳瑯は満足だった。
お互いの近況を報告しあいながら、和やかに卓上の料理を平らげていく。今は余らせるほど清鳳は注文しない。もう客扱いじゃないのだ。
「最近、ちょっと逞しくなったんじゃないか? そろそろ気になる娘でもできたか?」
食後のお茶を飲みながら、清鳳が訊いてきた。
「来たよ」と思いながら琳瑯は、いつもと同じ答えを返す。「……俺、そこまで軽くないですよ」
「まあ、そうだよなあ。かく言う僕にも忘れられない
言えない。
あなたの想い人は俺です、なんて。
相禄でさえ一目で分かったのに、何で分からないんだ!
そんなことまで言われたら、もう、言い出せないじゃないか。
店を出ると外は相変わらずの人ごみだった。おもむろに清鳳は琳瑯に向き直り、
「じゃあ、また来月な」
清燕の月命日という名目で清鳳は琳瑯に食事を振舞いながら、近況報告をさせる。だけど、すっかり気落ちした父親の補佐で忙しい日々であることを、琳瑯は知っている。忙しい合間を縫って仕立屋に様子を見に来ていることも。
『あなたなんか、連れて行かないわよ』そう言って、彼女は笑っていた。初めて会った時と、変わらない笑顔で。
――本当にお人よしだよな。兄妹揃って。
軽く手を挙げ、清鳳は往来の人ごみに紛れていく。晩夏の陽射しを受けて白く光るその後姿に、琳瑯は深々と頭を下げた。
(終わり)
清月思 天水しあ @si-a
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