胡蝶とフェティシズム

石衣くもん

🦋

 昔、小学校低学年くらいの頃、弟と虫取をした。その時に、私が紋白蝶、弟が飛蝗をそれぞれ捕まえて、一つしかない虫籠に一緒に閉じ込めた。


 紋白蝶の羽は、白くて薄くて、よくこんな脆い素材で飛び回れるものだと、ずっと飽きずに虫籠を眺めていた。透明な箱の中にある、同じ昆虫という種族の、別の種類の二体。


 晩ごはんを食べに小一時間ほど目を離して、再び虫籠に戻った時、中にあったのは変わらぬ飛蝗と、変わり果てた紋白蝶だったもの。羽は殆どなく、本体が微かに動いているだけの、まさに虫の息であった。


「うわっ、僕のバッタが葉ちゃんのチョウチョたべちゃったの?」


 私があまりに熱心に眺めていたからか、弟も思い出したように虫籠に近付いてきてそう言った。


 私は少しだけ、弟の方を見た。

 弟は、嫌そうな、怖がっているような表情をしていた。


「ううん、まだみたい」


 この状況を作ったのは私たちなのに、弟は飛蝗が酷いことをしたという認識のようだった。私は、そんな弟に何か言いたくて、言葉が見つからなかった。


 今でも、その日のことを時折、思い出す。


「私のこと、もう嫌いになったってことですか?」


 そう、例えば別れ話真っ只中の今とか。


「嫌いになったわけでもないんだよねぇ、なんというか、これ以上は一緒にいられないというか」

「……葉子さんは酷いです、それならいっそ嫌いになったって言われた方がマシだわ」


 血色の良い頬に、怒りが滲む目から涙が溢れて伝って、私を詰る彼女の思いを訴えている気がする。出会った頃は血の気の失せた真っ白な肌に、虚ろな目をしていたのになぁ。なんて。


「私はさぁ、こう見えても心愛ちゃんに幸せになってほしいんだよね」

「人を不幸にしようとしてる張本人がよく言う……!」


 ああ。そんなに目をきつく擦っては駄目。

 そっと手を取ってやめさせたら、いよいよワンワン泣きながら抱き着いてきたので髪を撫でた。柔らかくて細い、薄茶色の髪。



 心愛ちゃんとの出会いは、夏の駅。彼女の着ていた真っ白いワンピースが、ホームに電車が近付くにつれ、激しくはためいていて、紋白蝶を思わせた。そんなことを思いながら、彼女が飛び立とうとするところを捕まえてしまったのだ。


「離して! もう嫌なの!」


 何があったかは聞かなかった。無理矢理一人暮らしの部屋へ連れて帰って、衣食住を与え、


「寂しい」


と泣かれれば、彼女が求めるままに抱き締めてあげた。


 彼女に恋人という意味での彼女にしてほしいとせがまれた時も二つ返事で受け入れて、素性を知らない蝶を飼って愛でて、元気になるのを待った。


 そして、充分元気になったのを見計らって、逃がしてあげようと別れを切り出したところ、この有り様だったわけである。


「ねえ、お願い葉子さん、悪いところは直すから」

「……心愛ちゃんに悪いところなんてないよ」


 これは紛れもない本心だ。彼女はもう、どこにだって飛んでいけるくらいに回復している。


「どうして……」


 立ち竦む彼女の髪を、最後にもうひと撫でして、その場を後にした。彼女は新しい花を探して飛んでいくだろう。



 羽を捥がれた紋白蝶を見た時、弟に伝えたい言葉を知らなかっただけで、自分の感情はハッキリとわかっていた。

 喜怒哀楽でいうところの、喜である。


 かわいそう。


 そう思った瞬間、幼心に喜びを覚えた。何故だかはわからない。でも、もうすぐ蝶が死んでしまう悲しみより、その姿を見ている喜びが勝っていた。

 そして、その感情は人に伝えるべきものではないことも理解していた。だから、今まで誰にも言わなかった。


 あんなに美しかった蝶が、羽を捥がれ、芋虫のように這いつくばって、それでもまだ生きている。


 なんて、かわいそうなの!


 駅のホームで見た心愛ちゃんは、かわいそうだった。這いつくばっていた姿を思い出してしまった。だから捕まえた。

 もっと傍で、かわいそうな姿を見ていたかったから。


 私がそんな暗い愉悦をひた隠しにして、彼女の傍にいるうちに、彼女は少しずつ元気になった。

 

 そして、心愛ちゃんは、かわいそうではなくなった。

 元気になってくれることは、喜ばしいことだと、本当に思っていた。けれど、出会った頃の興味は失ってしまった。


 この部屋に、蝶を脅かす飛蝗はいない。私は心愛ちゃんをかわいそうな姿にしたいわけじゃない。だけど、きっと一緒にい続けたら、その内、抗えなくなるかもしれない。


 例えば、柔らかい髪を撫でた時に、この髪を思いっきり引っ張れば目の前の安心した笑顔は歪むのかと思ったり、あの日と同じワンピースを着て笑う彼女を押し倒して、白い羽を引き裂けばどんな顔をするのかと考えたり。


 私は、かわいそうなものを見守りたい。慈しんで、可愛がって、大切にしてやりたい。自分の手で傷つけてかわいそうな姿にしたいわけではない。でも、彼女のことを愛おしく思えば思うほど、惨めで痛ましい、かわいそうな姿が見たいと思ってしまう。


 私が、あの部屋むしかごで飛蝗になってしまう。


 この可笑しな癖を知られたくないくらいには、心愛ちゃんのことを愛していたのだけれど、きっと信じてはもらえないだろう。

 

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