パラノイア思考日記

 ここでは実験的に、自身の思考に悩む私の日常をお見せしようと思う。ある日の仕事終わりからの時間を想定して、以下の文章を書いてみた。儘ならない思考のサンプルと考えていただきたい。



 二度と聞きたくない曲が頭にこびりついて離れない午後五時過ぎ、私は不法占拠同然の脳内再生に苛まれながら、平静を装って路上を歩いている。


 誰かが作ったものだから嫌いというのは失礼だが、耳にするのはまっぴらごめんな曲が、どうして頭の中にはこう鮮明に頭に響くのだろう。こういうとき、曲を止めようとしたり、他のことを考えようとしたりなど、とにかく思考に介入しようとしても、かなりの確率で失敗する。音楽がますます居座ってボリュームが上がるというような逆効果になる可能性が高い。天邪鬼だ。そういう悪魔なのだ。戦っても勝てないが、戦わないと気が狂いそうになる。


 夕方の住宅街は人通りが少なくない。遊びから帰ってきた子どもたち、幼児を後ろに乗せて自転車をこぐ母親、犬を散歩させる年寄り、部活終わりの学生たち、耳にイヤホンを突っ込んだ若者、と、この調子で何人もの人間とすれ違う。


 そんな中、相変わらず脳内再生と戦っている私は気が狂いそうになるのを止めたくて、とっさに意味も脈絡もない単語を口走ってしまう。一言だとしても、人前で独り言を言うのはとても恥ずかしいものだ。おかしな人と思われかねない。


 気が狂いそうになるのを防ごうとして取る行動のせいで、かえって気が狂っているように見える悲しさ。それこそが狂気の小さな表れなのだろう。


 気が狂っているのはもう認めざるを得ないのだから、諦めて楽しく生きていくほかないのだ。


 そんな調子でバス停に向かっている途中で、個人書店を見かけた。自然と足が向く。「町の小さな書店」がどんどん減っていく昨今において、まだ生き延びているその書店には、今後も生き延びて欲しいと勝手に思っている。本が買えるならば、無理をしてでも買ってあげよう。


 と思っていると、店主が店の外へ出てきて、シャッターを下ろそうとし始めた。今日来られなかったら、次いつ来られるか分からないから、ダメ元で滑り込めないか試すことにした。


 店の前で、店主に話しかけた。


「すみません」


「何ですか」


「本があるかどうか知りたくて」


「何ですか」


「本があるかどうか」


「だから何ですか」


 聞こえないのかと思って、何度か同じ事を言ったが、返事が同じだ。どういうことだ。


 もしかしたら、「すみません」に対する返事ではなく書名を聞かれているのか、と思いついた。


「この間の芥川賞受賞作です」


 と言った。予想は当たったらしく、店主は少し考えて、答えた。


「あれねえ、まだ入ってこないんですよ。再来週には入ってくると思います」


「分かりました」


 私は遠ざかった。店主はシャッターを下ろした。


 ノミネート時点で大々的に売り出され、受賞発表後は更に売り出しに拍車が掛かっているはずの芥川賞受賞作がまだ入ってこないというのはどういうことだろう。さすがにあの本なら確実にあると踏んでいたのに、当てが外れた。だが再来週にはこの店で、なんとしても、買ってあげようと内心決意する。私はポイントによって某大型書店に囲い込まれているから基本的に他の書店では本を買わないのだが、あの店は例外だ。


 ふと、脳内再生が止まっていたことに気づく。気づくということは曲のことを思い出したということで、すなわち再生が再開するということだ。この手の陥穽は一度嵌まったが最後、中々逃れられない。だが対処のしようはある。


 やがてバスがやってくる。


 バスの座席で、イヤホンを耳に挿してスマートフォンの音楽アプリを起動した。記憶の中のメロディを打ち消すのに最も効果的なのは実際に耳から脳へ音楽を入れることだ。ブエノスアイレスの本物のタンゴが、私の脳内をきれいに塗り替えてくれる。精神に一時的な平穏が齎された。音楽とはなんと心を癒やしてくれるものだろうか。


 音楽にいつまでも癒やされていられたらどんなによかったか。気がつけば、ある嫌な記憶をまた思い出していた。うっかり関わってしまったとある人間のせいで、大きな被害に遭ったときの、あまり古くない記憶を。これまでにもう何度も繰り返した、一連の苦しい思考、終わらない怒り、恨みつらみ、あのとき言えなくて胸中ずっと蟠っている言葉が私を苦しめる。こうなってしまうと目の前のスマートフォンで何を見ても、周りで何が起こっても、注意が向かなくなってしまう。先程までの、好きでない音楽の脳内再生より質が悪い。


 どうしてこんな記憶を思い出しているのか。冷静に振り返ってみると、全く関係ないことが頭に浮かび、そこから連想ゲーム方式に言葉が連なって、この嫌な記憶に辿り着いたのだった。私はこの嫌なマジカルバナナをしょっちゅうやってしまう。それも無意識に。辿り着くのはたいがい最低の記憶だ。


 私のこの思考は、とにかく私を不快にさせたくてたまらないらしい。無関係のことをすぐに嫌な記憶や不安に接続してしまう。私の一番聞きたくない言葉を浴びせ、一番見たくないものを見せようと常に躍起になっている。そういうものである。だが今は囚われていることに気づいただけマシだ。対策が取れるからだ。


 インターネットで発見した、嫌な思考から気を逸らす方法を試す。ある手順を踏むと、頭の中を支配しているものを一旦遠ざけることができる。遠ざければ、すぐには戻ってこない。


 効果はまあまああった。苦しさの残りかすは感じられるが、冷静さが浮上してくる。ため息をついて、私はまともな世界へ戻ってきた。バスはいつのまにか停留所をみんな過ぎて、終点に着きそうだ。


 耳に音楽が聞こえ始めた。意識が苦しい記憶に囚われていたから、ずっとイヤホンから音楽が流れていたにもかかわらずこの瞬間まで聞こえなくなっていたことに気づいた。だがそれもよくあることである。


 バスを出て、イヤホンを装着したまま歩いて駅へ行き、改札を通ってホームへ向かう。見慣れた風景だ。相変わらず大勢の人が行き交っている。早足で斜め前から迫ってくる数十人の流れの中を、ぶつからないようにどうにかこうにかすり抜けながら、目的のホームに降りる階段へ辿り着く。


 ホームにて並んで電車を待っている時間は暇で、途端に音楽が楽しくなってくる。耳から流れてくるジャズ曲は、何百回と聞いてとっくに細かい部分まで覚えているくらいだが、楽しさは目減りしたりしない。聞く度に気分を昂ぶらせてくれる。思わずノって身体を動かしたくなるが、人の目があるのでそうもいかず、軽く足踏みをして、ごまかしながら気分を解消した。そうこうするうちに電車がやってくる。


 乗降中は椅子取りゲーム状態になり、席は早々に埋まってしまったので、立って乗ることになる。感染症が怖いのでつり革にはなるべく掴まりたくないが、危ういときには掴まれるように準備しておく。電車はすぐに動き出す。


 再び音楽に集中しようとしたところ、車内のどこかで鼻をすする音が聞こえた。十秒くらい経ったらもう一度聞こえ、以後ずっと繰り返している。誰だか知らないが、私は静かに激怒する。私の「二大許せない奴」は鼻をすすっている奴と曲の途中でお便りを読み上げ始めるラジオのDJである。


 DJはネタだとしても、鼻をすする音だけはどうしようもなく我慢ならない。あれだけは本当に無理。耐えられない。一気に頭にくる。悪気がないことも、それくらい許してやるべきだということも重々承知であるが、人間どうしても耐えがたいものはあるのだ。


 だがどうすることもできないので、私は小さく苦しみ続ける。全く誇張ではなく気が狂いそうになる。もう狂っているけどさ。あの音を聞くと、脳がいじくり回されるような感覚を覚える。どこの誰なんだか知らないが、お願いだからやめてほしい。


 もう音楽どころではなくなった私は心の中で罵詈雑言吐いてしまう。苛立ったまま十五分間電車に揺られて、ようやく目的の駅に着く。ここも終点である。結局最後まで鼻をすすっている奴と同じ列車だった。


 ようやく最低のノイズから解放された私だが、一難去ってまた一難、また嫌な記憶が巻き起こる。この駅に来るとなぜか毎回必ず思い出す、中学生のときの苦い思い出が今回も現れたのだ。中学時代にこの駅を使っていたわけでもないのに、いつからかパブロフの犬状態で、この駅のホームに降り立つすなわちこの記憶と対面する、という条件付けがされている。どうにかしてこの因果を断ち切りたいものだ。


 今度こそ音楽に集中しようと思う。乗った駅より更に広い構内を縦横無尽に人が行き交っていて、それに伴い雑音が大きい。音楽がよく聞こえなくなる。しかし思考回路を流れている曲にして、耳から聞こえるのと同時に頭で「歌っ」て、古い記憶と距離を取る。改札を抜けて、一番混雑しているところを通り過ぎる。


 辿り着いたのは駅前のデパートだ。このデパートの上層階にある書店が目的地である。デパートは買い物客をもてなすことに全ての力を注いでいて、来る分には居心地がよい場所である。一階の化粧品売り場はクリスマスの飾り付けがされている。それを見ると、今年のクリスマスは恋人に何を贈ろうかと楽しい且つ常人めいた考えが浮かぶ。あれこれと候補を挙げながら、エスカレーターを上る。


 長いエスカレーターに飽きながらも書店へ着く。入り口のアルコールで手を消毒して中に入る。途端に気分が落ち着く。たくさんの本の存在はそれだけで気分を高揚させてくれるし、帰るべき場所に帰ってきたという安心感をも与えてくれる。


 好きなだけ見て回れたらよいのだが、今日は予算にも時間にも制約がある。注文した本が届いたから取りに来ただけなのだ。だが少しだけ新刊をチェックすることにした。


 まずはドイツ文学の書棚を見て、新しい本が追加されていないか確認する。今日のところは、以前来たときと同じ本しか並んでいなかった。


 続いて日本現代作家の書棚の前へ移動する。こちらにはさすがに最近刊行された本が何冊もある。何人かの特にお気に入りの作家の新刊が出ていないか、目を走らせる。次に全体を眺める。何冊か欲しい本ができて、それぞれ手に取った。だが持ち合わせの金がないことを思い出し、泣く泣く書棚に戻す。今度買おう。それまで待っていてくれたらよいが。


 それでもどうしても今日買いたい本が一冊できたので、それを持ってレジへ向かう。


 レジで、注文した本が届いたと連絡をもらった旨を話すと、名前を聞かれた。フルネームで答える。すぐに店員が後ろの棚から本を探して取ってきてくれる。いつも通りの手順だ。二冊の会計をして、店の外へ出る。


 下りのエスカレーターに乗って、最近はこんな買い方ばかりだなと反省する。予算を気にせず書店で好きなだけ本を買える日が恋しい。


 デパートの外へ出る頃にはまた拗れて絡まった思考が戻ってくる。頭の中がまともだったのは書店に入る直前と、そこにいる間だけであった。私はどうしていつもこうなんだろう、と思う。本を買いに来て、買った。それ以上でも以下でもないのに、この膨大な、それでいて実りがない虚ろな苦しい思考は何なんだろう。


 やはり狂っているとしか言い様がない。


 だが嘆いても仕方がない。このおぞましい怪物めいた思考を、私は常に連れて生きていくしかないのだ。 

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