月下のギタリスト

 地方都市のとある主要駅は夜遅くまで賑わっている。おそらく一日に何千という人々が行き交うのだろう。毎日利用する割に滞在時間が短くて印象に残ることもない。特に意識もしないうちにいつのまにか通り過ぎていく。


 私にとっても、ここはそんな場所だったはずだ。


 それにもかかわらず、今は駅前を通るときの歩調が毎日乱れてしまう。夜はすっかり冷えるようになってきたから、なるべく早く家に帰りたいが、そんな思いよりも強い因子が働いている。最近はわざとペースを落としてゆっくり歩くか、早足で走り去るか、いずれかだ。


 なぜか。


 ギターの音のせいである。


 一ヶ月ほど前から、夜になると駅前のベンチにギタリストが現れて、穏やかに弦の歌を奏でているのだ。


 何かの曲を演奏しているというよりは、穏やかに単純なメロディをかき鳴らしているだけのように聞こえる。まるで駅前の夜の情景にBGMを添えるようだ。自己主張があまりない演奏なので、仕事から帰ってきて疲れている人々の心にほんの少し灯りをともすような役割をしている気がする。近くを通り過ぎる人々はちょっぴりだが芸術に触れることができて、大多数は心癒やされていることだろう。


 だがそれだけだったら、こんなに心乱されることはなかっただろう。


 私が気になるのは、あのギタリストが数年前に別れた恋人である気がしてならないからだ。


 遠くから見えた横顔が、俊之に見えた。本人なのではないかとずっと疑っている。


 俊之もギターを弾くことができた。十代の頃にロックバンドのメンバーになることを目指して練習していたらしい。短期間だがあるバンドにピンチヒッターとして呼ばれて、数回だけライブを行ったことがあると言っていた。だが怪我をしていた正規のメンバーが復帰した途端お払い箱になり、以後いくつか応募したが、入れなかったと悔しがっていた。その後彼は就活で忙しくなって、音楽の道は諦めたそうだ。


 就職してから私と出会い、数ヶ月交際したが、取るに足らないことで口論になり、喧嘩別れしてしまった。


 私は彼に未練があるわけではない。今思えば相性が悪かった。趣味も考え方も生活のリズムも、彼とはしっくりこなかった。


 あれから数年経って、三十歳近くなったが私はまだ独り身だ。相手も候補もいない。だが、だからといって、彼とやり直したいとは思わない。たとえ関係を復活してもまたすぐ破局するのは見えている。


 だから駅前でギターを奏でている彼が俊之だろうと他人だろうと、私の人生に変化など訪れないし、関係ないのだ。


 関係ない。それなのにどうしてこんなにも気になるのだろうか。もう終わった関係の人間なんてどうでもいいはずだ。それどころか、もし本当に彼だと思うのなら、どちらかというと近づくべきではない。別れた相手とは距離を置くべきだろう。


 電車の中でそこまで考えたのに、私は駅の北口を出ると、またギターの音色に耳を傾けるため、ゆっくり歩いて通り過ぎてしまった。


 二週間経っても状況は変わらなかった。ギター演奏は毎晩のように続いていた。


 あの演奏を聞くと自然と俊之のことを思い出してしまう。嫌な記憶と嫌いなところは見えなくなって、鮮やかだった日々と色あせかけたいくつかの思い出と好きだった頃の彼への愛情がよみがえってくる。


 最初は動揺した。職場と自宅を往復し、休日は寝溜めするだけの無味乾燥な日々に、突如複雑な情緒が入り込んできたのだ。心動かされることはどれほど久しぶりだったのだろう。慣れない心の動きに戸惑っていた。


 やがてそれは不安と憂鬱に変わった。あの頃はもう過去でしかなくて、記憶を上回る幸せがこの先待っているかどうか分からない。もしかしたら、人生で一番楽しかった頃になってしまうのかもしれない。一人きりで、どうやって生きていこうか。若さを失って老いていくのに、誰も周りにいなかったら心情的にも身体的にもきついのではないかなんて考えてしまう。


 また、俊之はきっと私のことなど嫌いで、こうして近くをすれ違っていることが分かったら、黙って場所を変えてしまうのではないか。バレていないからよいだけで、見つかったら気まずい思いをしなくてはならないのではないか、と不安になる。


 だがネガティブな気持ちさえも長続きしなかった。続いて訪れたのはときめきだった。


 彼のことなどもう好きではない。それは確かだ。だが彼かもしれない人の演奏を聴くと、もうあれは彼なのだと信じたくなる。そして彼が導き出す、音楽の形をした主張が、耳と胸に心地よい。彼の心身を濾過した世界が、メロディとなって私に伝わってくる。


 そんな風にして私は彼と繋がっているのだ。彼の見ている世界を、間接的に私も見ている。あの音色を聞くと胸が弾む。別れて長い間会っていないとはいえ、一度は好きだった、愛していた人だ。もう一度彼に近づけているのだとしたら、なんて素敵な偶然だろうか。もう二度と会えないと思っていたのに。やり直そうなんて思わない。ただ私はこのときめきに浸っていたい。それだけで十分だ。


 私は一人で心境を変えていった。彼は雨の日以外は毎晩欠かさずギターを抱えてベンチに現れる。昼間は仕事をして、夜の空いた時間に駅前に来ているのだろうか。自由で気ままな時間の使い方だ。そんな毎日が送れるのは、羨ましくもある。


 一週間ほどときめいていたが、これではまずいと思い始めた。もう忘れたはずの俊之のことでこんなに心乱されるのはよくない。このままでは断ち切った未練が復活してしまう。


 私は答え合わせをしようと決意した。ギタリストに話しかけて、俊之なのか別人なのか確かめなければならない。


 駅前を彩る彼のギター演奏を聴きながら、明日話しかけようと決めた。


 一瞥すると、ベンチの周りには彼以外誰もいない。以前昼間見たときはちらほらと座っている人がいたのに、今は彼だけが座って演奏していて、まるで彼のためのささやかな舞台であるかのようだ。人々は彼に話しかけることも、立ち止まって演奏を聴くこともなく、どこへ行くのか足早に通り過ぎてゆく。無数の人間たちが各勝手な方向に動いていく。皆、知らない人が大勢いる駅に長居はしたくないのだろう。私も普段は同じだ。無意識のうちに急いで過ぎてゆこうとする。彼はそんな場所で、何を思って毎晩ギターをかき鳴らしているのだろうか。


 夜の闇が地上を支配する中、明るい月が真上にあった。


 街の照明があらゆる方向から照らしているから、彼に注ぐ月光は見えなかった。だが彼には月の下の舞台が、とてもよく似合っていた。


 夜になって、ベッドに入ると、明日の決して愉快ではない計画のことばかりが思われた。


 本当に俊之だったらどうしようか。今更何を話すのだろう。彼はまだ怒っているのだろうか、もう冷静になっただろうか。万一やり直そうなんて言われたら、どうしようか。


 一体なんて声を掛けたらよいのだろう。俊之だと思ったからとは言わず、純粋にギター演奏に興味を持ったからと言うことにしなければ。ギターのことはよく分からないが、それでも興味をもったことが怪しまれないだろうか。


 相手が俊之だとして、あのときの喧嘩のことを謝った方がよいだろうか。関係を修復するのでなければその必要はないように思われるが、どうなるか分からない。私はやり直したいのだろうか。否だ。ではどうして、俊之かもしれないから話しかけようなんて思うのだろうか。自分の気持ちが分からない。


 やはりやめた方がよいだろうか。


 いや、それではいつまでも気になって仕方がない。同じことを繰り返してしまう。明日話しかける、それは決定事項だ。


 そもそも突然話しかけたりして、不審に思われないだろうか。野外で演奏しているくらいだから、興味をもたれることは嬉しいかもしれないが。あの種の路上の演奏者やパフォーマーにいきなり話しかける人はどれくらいいるのだろう。そもそもあれは路上ライブと言ってよいのだろうか。


 俊之は今どこにいるのだろう。


 考えが止まらなくて、落ち着かず、寝入ろうとすれば意識が戻ってきてしまって、まともに眠れなかった。


 次の晩、仕事終わりに、私はいよいよギタリストに近づいた。


 ギターは優しく穏やかに鳴っていた。ギタリストは目を閉じて自分の奏でるメロディに聴き惚れているようだった。


 足下には段ボールが敷いてあって、その上に「日本書紀」「ファウスト第二部」「三文オペラ」と表紙に書かれた文庫本が置かれていた。彼の腰の横には大きめの缶が置かれていて、そこには「Give me money」と黒のマジックペンで手書きされた紙が貼り付けてあった。


 近寄って、意を決して、声を出した。


「あの、すみません」 するとギタリストは目を開けた。数秒顔を観察した。俊之によく似ている。だが果たして本人だろうか? 暗くてよく見えない。


「リクエストありますか?」


「リクエスト?」


「知っている曲なら、弾きますよ」


 私は悟った。俊之ではなかった。


――声が、全然違っていた――


「俺、メッキースって名前で、活動しています。音源を有料で発売しています。他に動画投稿アプリに演奏しているところを載っけてます。もう、いっぱい載ってますよ。お見せしましょうか?」


 彼は白い息を吐きながら、前のめりにアピールしてくる。正直興味はなかったが、義理で見せてもらった。


「こんな感じで、スタジオで撮ってます。オリジナルソングもありますが、有名曲を弾いた映像もあります。ぜひチャンネル登録してください。お願いします」


「メッキースさんはどういう経歴なんですか?」


「半年前からメッキースの名前で活動しています。まだまだアマチュアです。基本ソロですが、グループにも所属しています。そっちはあまり動いていないんですがね。活動始める前は、四国の旅館で働いていました。半年前、こちらへ越してきたんです」


「活動、頑張って下さい」


 私は五百円硬貨を缶に入れた。


「ありがとうございます! リクエスト、本当にいいんですか?」


「あんまり時間がないので、今日はこの辺で失礼します」


「分かりました。またぜひお越し下さい。できる限りリクエストにも答えますので」


 私が遠ざかると、彼は少しして、再びギターを弾き始めた。思っていたより若い、純朴な青年だった。俊之ではなかった。完全に別人だった。


 このところの逡巡は一体何だったのか。あまりにも虚しい。一人で散々考えを巡らせて、馬鹿みたいだった。


 あーあ、やきもきして損した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

空回り、空踊り(短編集) 文野麗 @lei_fumi_zb8

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ