流れ星に願うことは

 明日の夜、日本各地で獅子座流星群が見られるだろう、というニュースがテレビで流れて、愛叶は感心したのか目を大きく開き、画面を注視した。何度か瞬きした後、白米を飲み下すために目を閉じた。飲み込んでから、お茶が入った赤いマグカップに口をつける。すると視線は再びテレビに向いた。私は彼女の様子をそっと伺いながら、いつもと同じ態度かどうか密かに観察していた。彼女はどこも変わりなく見えた。


 愛叶が口を開く。


「流れ星、見たことある?」


「ないよ。愛叶は?」


「一回だけある。すぐ消えちゃった」


 愛叶はそう言うと、いたずらっぽく笑って尋ねてきた。


「流れ星になんてお願いするか、決めてあんの?」


「あるよ」


「なになに?」


「鳥海っていう子ともう一度会って、謝れますようにって願う」


「鳥海って誰?」


「高校のとき俳句コンクールで全国大会優勝した話は前にしたよね。あのときライバルだった子。他校だったけど、高一のとき地区大会で知り合った。仲がよくて、切磋琢磨してた感じだった」


 私は過去に思いを巡らせて、ため息をついた。


「それで三年生のとき、決勝で鳥海の学校と戦って、私たちのチームが勝った。鳥海はすごく悔しかったみたいで、終わってから話をしたとき、苛立ち紛れに私の詠んだ句を貶してきた。私はカチンときて、優勝して傲慢になっていたのもあって、つい『でもあなたはそれに負けたんだよね。所詮負け惜しみじゃない?』なんて言っちゃったんだ。これで鳥海との仲は完全に壊れた。どうしてあんなことを言ったのか、未だに後悔しているんだ。だから、もし願いが叶うなら、あの子に会って謝りたい」


「鳥海って女子だったの?」


「そうだよ」


「えー、何、浮気?」


 愛叶は笑って、でも少し不安混じりの声で言ってきたので、私は慌てて否定した。


「そういう気は全くない。あの子は友だちでもありライバルだった。それだけ」


「ならいいんだけどさ」


 愛叶はそう言って、早めの夕食の最後の一口を頬張った。


「碧衣、全然食べてないじゃん。食欲ないの?」


 気づけば私のお茶碗の中には白米が半分以上残っているし、おかずの鮭のソテーは切り身の端が少し崩れているだけであった。味噌汁は手付かずで、お湯の中で味噌が真ん中に集まり、端の方は透明になっている。


「しゃべるのに夢中で、手が動かなかった」


 私はそう言い繕った。


 愛叶の方こそ、浮気してない?


 言葉が口をついて出そうになったが、そんな風に聞けるわけがない。  


 きっかけは、田所さんという女性だ。田所さんがうちの部署に入ってきたのは二ヶ月ほど前だった。彼女は男好きしそうな童顔で、いつも髪を耳の後ろで二つに結っている。滑舌があまりよくなくて、いつも舌足らずな話し方をする。


 愛叶は私と同じようにレズビアンであるが、田所さんは愛叶のタイプではない気がしたから、当初は全く警戒していなかった。


 それどころか彼女が入ってきた当初は、愛叶の方ではなく、むしろ私に興味があるのではないかと感じた。休み時間はしょっちゅうこちらに話しかけてきて、休みの日はいつと決まっているのか、とか、趣味は何か、とか、どこに住んでいるのか、とか詳しく聞きたがって困惑した。


 私と仲良くしたいのかなと思って失礼にならないよう丁寧に返答していた。休日会おうと言われたときはさすがに理由をつけて断った。愛叶に後ろめたいことはしたくなかったからだ。


 だが次第に彼女は愛叶の方と仲良くし始めた。どちらかというと愛叶が積極的に話しかけている気がする。友だちになったのか、たまに外で会っているようだ。単なる友だちならよいのだが、どうしても不安になる。田所さんが席を離れると、愛叶は目で追っている。


 彼女が心変わりしてしまったのではないかと思うと、あらゆる光が遮られてしまったかのように私は暗いところに追い込まれてしまう。答えを知ることが恐ろしくて、一番尋ねたいことが一番触れられないことになっている。 


 ベッドをともにすると、不安は一時的にだが収まった。愛叶は私のことが好きで、惚れていることを彼女の肌と熱から感じ取ることができる。言葉は間接的なコミュニケーションツールだが、身体は直に伝えあえる。嘘も欺瞞も距離もない。


 私の隣で満足そうに横たわって、片手で私の指を弄んでいる彼女に、意を決して尋ねた。


「愛叶、最近田所さんと仲いいよね」


「……まあ、話すことが多いかな」


「どんな話するの?」


「うーん」


「ねえ」


 私は指に絡んでいた彼女の手をそっと握り、真剣な気持ちで目を見て、苦しい声を絞り出した。


「心変わり、した?」


「とんでもない」


 彼女は起き上がって私に身体を向けた。


「心変わりなんてするわけがない。私は碧衣が好き。碧衣以外好きじゃない。信じて」


「田所さんとは何なの?」


 彼女の表情が暗くなった。うつむいて、何かを言いよどんでいる。


「今は言えない。あと少ししたら必ず打ち明ける。でも浮気とかそんなじゃない。絶対違う。私は碧衣を愛してる」 愛叶は泣きそうな声を出し、表情を更に暗くした。私は


「分かった」


 と言ってその話はやめた。


 次の朝、愛叶はいつも通りの顔をして帰って行った。今回のお泊まりが終わってしまって、向こう数日は職場でしか会えないだろう。昨夜はあんなに触れあっていたのに。いつも通り、一抹の寂しさを覚えた。


 送り出してから、さきほどまで愛叶と向かい合っていた食卓に腰を下ろした。午後からは仕事だから、少ししたら支度を始めなければならない。愛叶はそろそろメッセージをくれるはずだ。


 一人になるとどうしても考えてしまう。あの子は、浮気ではないと言ってた。彼女の表情には真実味があった。嘘をついているようには全く見えなかった。


 私たちはベッドの上では何があっても嘘をつかない約束をしている。この約束は二人の信頼関係の根幹をなしているので、彼女の発言は信じるべき言葉なのだ。もしあれが嘘だったら、いよいよ私を裏切っていることになる。


 疑うべきでないことを、どうして疑ってしまうのだろう。私は彼女を信じているし、彼女の言うことを理解したはずだ。それなのに、どうして心の中には苦い疑いが芽吹いてしまうのか。人間の心理は、本当にままならない。


 こんな揺れた心で愛叶に接するのは嫌だ。だが抑えようとすればするほど心の水面は乱れて波が立つ。別のことを考えようとそればかり試みて、意識を全く別の考え事に移動させようとしても、すぐに元いたところに引き戻されてしまうのだ。


 私は一人疲弊した。割引のお知らせとBGMと店員たちの接客の声で騒がしいドラッグストアの店内で、商品名を読み上げつつレジ打ちをしながら、自然な笑顔が作れているか自分で分からなかった。田所さんは午前からの出勤だった。帰るとき愛叶と言葉を交わしていた。私は見逃さなかった。 


――流星群、今流れてるよ――


 職場からの帰り道、愛叶からメッセージが入った。急ぎ足で電車を降りてから空を見上げると、確かに空に引っ掻き傷のような直線がいくつか走っていた。


 初めて見た流星は思っていたより遠くて、細くて、すぐに消えてしまうものだった。音のない世界を星のかけらが飛んでいる。いくつもの清らかな白い筋が明滅する。冷えた夜空に走る光はなんとも言えず美しかった。


 しばらく見惚れていたが、願いを掛けようと思い立った。


 長年思い続けたことは、確かに頭に浮かんだ。喧嘩をしたあの日から一度も会えていない鳥海。彼女のセンスを私は尊敬していた。私たちは互いにリスペクトをもっていたはずだった。壊れるべき関係ではなかった。ずっと胸に残っているつかえが取れたらどれほど気が楽になるだろつか。


 だが私が願ったのは、昔の自分の決心を裏切るものだった。


 今望むことは、ただ一つだけ。


――愛叶の心が私の元に戻ってきますように――


 ちょうど私の心の声に合わせたように、流星が現れ、消えた。 


 予想だにしなかったことが起きた。週の終わりに、田所さんが退職したのだ。本人の希望で、送迎会は行わないことになり、田所さんはいきなり姿を消す形となった。


 愛叶の家に行ったとき、ソファでくつろぎながら、その話をしてみた。


「田所さん、急にやめちゃったね」


 すると愛叶は意外な反応を見せた。


「やっといなくなった」


 と言って表情を崩し、唇を苦しそうに結んだかと思うと、目に涙をにじませたのだ。


「私が追い払ったんだよ」


 私は驚愕した。


「どういうこと?」


「あの人、碧衣に悪さしようとしてたんだ」


 思いがけない言葉に、私は息を飲んで愛叶の話に耳を傾けた。


「例の、碧衣が優勝したっていう高校の俳句大会で、あの人碧衣のチームに負けたらしくて、――そういう割には早い段階でだったみたいだけど――それが原因で大学の推薦入試に落ちたと思っているみたいだった。要はあの人碧衣のことを逆恨みしてたの。それで碧衣がいる今の職場を見つけ出して、近づいて、復讐しようとしたみたいなんだよね」


「……全然覚えてない。そんなことになってたなんて全然気づかなかった」


「私も意外だった。あの人、碧衣と仲良くしたがっていたように見えたから、牽制しなきゃと思って声を掛けたの。私たちの関係には気づいていなかったみたい。密かに悪いことしようとすると、誰かに言いたくなるものなのかね。あるとき白状したの。だから私がだいぶ説得して、終いにはかなり怒って、計画をやめさせて、追い払ったんだ」


「そうだったんだ」


 ぞっとする気持ちになった。愛叶が気づかなかったら、今頃どうなっていただろう。


「ありがとう。私、何も知らずに、一人で不安になって心変わりしたかなんて的外れなこと聞いたりしたね。ごめんね」


「いいんだよ。奴はいなくなったし、何の問題もない」


 私はすっかり安心して、脱力した。力が抜けた途端に愛叶への深い愛情と感謝がこみあがってきた。胸が熱い気持ちで満たされる。


 彼女に抱きついてキスをしたら、よしよしと頭をなでられた。軽いキスを何度か落とすと、唇は互いを求め合って、何度も吸い付きあった。


 愛叶の心はずっと私のところにあった。最初から、取り戻す必要なんてなかったのだ。徒労だなんて思わない。想像したどんな展開よりも幸福だった。 


 結局、鳥海に対する申し訳なさと後悔は消えることがない。たとえ流れ星に願っても、再開も仲直りも叶わないだろう。そんなことを胸の片隅で願い続けても仕方ない。今目の前にあること、愛してくれる人を大切にするしかない。私はこの先も後悔を胸に抱えながら生きていくのだろう。一方で、今の幸福は決して陰ることはない。


 迷うのはもちろん、後悔するのも懸命に生きているからなのだろう。


 歩いてきた道の途中に、たくさんの分かれ道と曲がり角があった。正解でも不正解でも、選んできたのが私の生だ。


 帰ることが叶わない道を何度も辿りながら、予想通りにいかないこの人生を生きていこうと決意した。

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