エピローグ 俺の幼馴染み


 小学校高学年の時――足に怪我をした。

 右膝。

 痛みよりも何よりも、以前までと同じようにバスケが出来なくなるかもしれないってお医者さんに言われたのが――一番怖かった。

 怪我が治った後、そのお医者さんの言葉の通り、アタシの足は思うように動かなくなっていた。

 走ると違和感が生じ、強めに動かすと痛みが走った。

 最初の内は無理をしていたけど、その内身体的にも精神的にも我慢が出来なくなって――。

 怖くて怖くて、アタシは何日も学校を休んで、家の中に引き籠もっていた。

 動きたくなかったのは、現実を見たくなかったから。

 そんな時、修太郎はアタシの家に勝手にやって来て、勝手にアタシの部屋に入って来た。

 学校のプリントや連絡通知、あと給食のおやつなんかを届けに来た。

 アタシは、そんな修太郎をずっと無視して、ベッドの中で寝たふりをしていた。

 修太郎は、アタシの部屋の中に座り込んで、ずっと漫画を読んでいた。

 黙って、ずっと、無視してるアタシも気にしないで、ずっと。

 何してるんだろう、って思った。

 こんなアタシなんて、放っておいて、って思った。

 でも、修太郎は毎日アタシの家に来て、ずっと黙って、ただそこにいてくれた。


『……なんで、ずっと来るの』


 ある日、アタシは修太郎に言った。


『お前が学校休んでるからだろ』


 修太郎は言った。


『お前が戻ってくるまで、俺がプリントとおやつ届けないと。昔からそうだっただろ?』

『………』

『お前、勝手におやつ食べたら怒るじゃん』


 アタシは、ベッドの中で泣いちゃった。

 修太郎に、溜め込んでいた気持ちを吐き出した。

 膝の怪我、後遺症が残ってる。

 無理をすると痛くなる。

 思い通りのバスケができなくなるのが怖い。


『バスケクラブのみんな、お前を待ってるぞ』


 修太郎は言った。


『みんな、蜜香に帰ってきて欲しそうにしてた』


 修太郎が、クラブのみんなに聞いてくれたんだ。


『戻って、バスケやろうぜ。俺、楽しそうにバスケしてる蜜香を見るのが好きなんだ』


 大会で優勝したとき、修太郎が『かっこいい』って言ってくれたのが、嬉しかった。

 でも、修太郎は『上手に』じゃなくて『楽しそうに』って言ってくれた。


『もしも、やっぱり思い通りに動けなくて、バスケするのが辛くなったらさ、その時は一緒に釣り行こうぜ。カラオケとか、ボーリングでもいいけど。なんか、遊びに』


 修太郎は、言ってくれた。


『俺、お前が出てくるまでずっと来るからな』


 翌日、アタシは部屋を出て、学校にいった。

 クラブにも顔を出して、お医者さんと話し合いながら、頑張ってバスケを続けた。

 古傷は残ったけど、そこから怪我自体は良くなっていって、ちゃんと思い通りのバスケが続けられるようになった。

 何も絶望する必要なんて無かった。

 ……ううん、違う、修太郎が、その絶望の中からアタシを引っ張り上げてくれた。

 だから、前を向けた。


「………」


 電気の付いていない、暗い部屋の中。

 床の上で蹲ったアタシ。

 もう、何日お風呂に入っていないのかもわからない。

 髪のことも、服も下着のことも、考えていない。

 自分の体から発生しているスエた匂いに、不快を覚える事もない。

 修太郎は、いつも、いつでも、アタシに大切な思い出をくれた。

 アタシにとって、大切な幼馴染み。

 でも……アタシは、本当は、ずっと。

 そんな修太郎を、アタシのものにしていたくて、色んな汚いことをしてた。

 修太郎がアタシとの記憶を綺麗で楽しい、尊いものみたいに思ってくれてるその一方で――アタシは、修太郎をアタシに縛り付けたくて、悪い企みをいっぱいしてた。

 一時は、修太郎にそんな本当のアタシを告白しようとしたけど……できなかった。

 梨乃さんが現れた。

 梨乃さんが、修太郎を奪っていきそうだった。

 だから、そんな時に自分が不利になるような事を言えなかった。

 結局、アタシはいつも――自分本位だった。

 だから――これは、自業自得なんだ。

 数年ぶりに“あの子”の顔を見たとき、血の気が引いた。

 そしてあの子も、アタシのことを忘れていなかった。

 子供の頃に犯した、共犯。

 アタシが、あの子にさせた事――。

 それを、暴露された。

 もう、修太郎に顔を合わせられない。

 修太郎の目を見れない。

 アタシは――。


「蜜香」


 扉の外から、修太郎の声が聞こえた。




 ■□■□■□■□




 悠君に案内され、俺は蜜香の部屋の前に立った。

 もう数日――蜜香は、自室に引き籠もって出てきていない。


「起きてるか?」


 俺は、扉の向こうへと言う。


「もう、何日出てこないつもりだ? 悠君に聞いたぞ。まともに飯も食ってないんだろ? 死んじまうぞ」


 ……反応は、返ってこない。

 俺は嘆息を漏らす。


「なんだか、昔を思い出すよ。お前、膝に怪我したときも、こうやって引き籠もってたよな」


 扉の向こうで、何かが動いた気配がした。


「お前はもう忘れちゃってるかもしれないけど、俺、かなり心配してたんだぜ。いつも元気だったお前が、あんな風になっちまうなんてって。毎日プリントと給食のデザート届けてさ……あの時と一緒だな」


 俺は、扉に触れる。


「出てこいよ、蜜香。俺は、お前が出てくるのを待ってるんだぞ」

「……アタシね」


 声が聞こえた。

 扉一枚だけを挟んで、すぐ目の前に、あいつが立っているのがわかる。


「前にも言ったよね……アタシ、本当は初心でも純粋でもない、嫌らしい人間だって」

「ああ」

「アタシね……昔から、修太郎をアタシのものにしたくて、アタシだけのものにしたくて……色々な事をしてた」


 俺は、蜜香の言葉の数々を思い出す。

『結婚ごっこ』と称して、婚約を結んだ俺と密かに愛し合う関係を持ち掛けたこと。

 中学時代、自分を女として意識していないと言った俺に色仕掛けを仕掛け、その直後に俺を男として意識していないなどと公言して、挑発して自分を女として意識するよう仕向けたり。

 そして――。


「千雪さんから、聞いたでしょ?」

「………」


 あの夜、蜜香は俺と千雪さんの会話を盗み聞きしていたのだろう。

 おそらく、俺が梨乃の部屋に連れて行かれたのが気になってこっそり後を付け、そこで俺と千雪さんが話しているのに出くわしたんだ。

 そして、俺が真実を知ったことで、俺と一緒に居られず慌てて会場から逃げ出した……というところだ。


「子供の頃、いつも公園で一人で遊んでる女の子と、修太郎が仲良くしてるって気付いた。それだけじゃなくて、修太郎が他にも色んな女の子に密かに人気があるって知ってた」

「え、そうだったの?」


 それは初耳だ。


「……だから、アタシ、焦っちゃって……あの女の子の双子のお姉ちゃんに、相談した」

「………」

「その子も、妹が修太郎とのことで辛い思いをしてるって言って、アタシの案に乗ってくれた。修太郎とその子の関係を崩して、修太郎を孤立させて、アタシだけが修太郎の味方であるように振る舞った」

「………」

「アタシ、思ったんだ。修太郎が一人になっちゃえばいいって。そうしたら、アタシだけが傍に居られるって。アタシ、修太郎を手に入れるためなら、修太郎本人だって平気で傷付ける。汚い女なんだ」

「………蜜香」


 蜜香の告白。

 過去の罪。

 その懺悔を聞いて、俺は――。


「なんだ、その程度のこと」


 俺は、そう答えた。


「え? ひ、引いてない?」

「引かねぇよ。こうしてお前の口から聞いたけど、やっぱり変わらねぇよ、お前への想いは」


 俺は、正直な気持ちを蜜香に言う。

 確かに、過去に蜜香のしてきたことは、汚いことだったのかもしれない。

 でも俺は、そういうものなのだと思う。

 何より俺はここ最近、誰しもが恋のために嘘を吐き、人を騙し、真実を黙し、そして、諦められずなんとしてでもしがみつこうとしている――そんな姿を多く見てきた。

 俺に正体を隠して理想のタイプになろうとした梨乃。

 梨乃を手にするために、俺と蜜香をくっつけようとした霧晴さん。

 梨乃と婚約関係にありながら、蜜香と『結婚ごっこ』という関係を紡ごうとした俺。

 そして、数多の嘘と根回しで俺の隣に居続けた蜜香。

 誰もが本気だった。

 遊びなんかじゃなかった。

 俺は蜜香を責められないんじゃない。

 責めない、のだ。


「蜜香は一生懸命だった。その想いを、否定しない」


 俺は、扉の前で宣言した。


「つぅわけで、蜜香、扉開けるぞ」

「ちょ、ちょっと待って!」


 俺が言うと、目前の扉が少しだけ開いた。


「こ、こういう時って、アタシの方から出てくるのを待つもんじゃないの?」

「知らん。どこの天岩戸だ。俺は今すぐ、蜜香の顔が見たくなった」

「あ、アタシ、何日もお風呂入ってないし、服も替えてないし……」

「マジで? くんかくんか」

「きゃー! へんたいー!」


 俺は扉の縁に手を掛けて、思い切り引っ張った。

 その勢いで、ドアノブを掴んでいた蜜香の体も引っ張られ――。

 蜜香は部屋から飛び出し、俺に抱きついてきた。


「ごめん……修太郎」

「気にしてないって言っただろ」

「本当に……アタシでいいの? 受け止めてくれるの?」

「ああ」

「いいの? アタシ、重いよ? 結構、重い女だよ?」

「ああ、マジでそう思う」

 でも、大丈夫だ。




「だって俺達、以心伝心だろ」




 俺の視界の中で、蜜香が瞳を潤ませた。

 涙が頬を伝って、落ちる。

 これから、色々と忙しくなる気配はある。

 数多の感情、数多の恋心、数多の執着心、その渦中に俺はいる。

 その全てが、まだまだ闇鍋のように煮立っている最中。

 それでも今、俺の想いは蜜香だけだ。

 蜜香にだけ、向いている。


「じゃ、今夜は風呂に入って、清潔な服に替えて、ゆっくり休んで、明日は普通に学校に行こうぜ」

「うん」


 俺は蜜香に別れの挨拶をする。


「あ、隣の部屋に今、悠がいるんだっけ」


 そこで、蜜香は自分の部屋の横――悠君の部屋の方を見る。


「ああ……そういや、やべぇな、今のやり取り聞かれてたかな」

「ううん、大丈夫だよ。このマンション、防音効果高いし」

「そりゃよかった。弟君としても、姉ちゃんと彼氏のやり取りなんざ聞きたくないだろうし」


 そこで、蜜香はクスッと笑う。


「どうした?」

「ううん、修太郎って、それずっと言ってるけど……どこまでマジなの? 流石に、悠がかわいそうかなって」

「ん? 何が?」

「ううん、何でも無い。面白いし、そのままにしとく」


 蜜香はそう言って、自室に入る。


「じゃあね、修太郎……流石に、この格好で玄関まで見送りに行くのは、その……恥ずかしいから」

「ああ、大丈夫。じゃ、また明日」

「うん、また明日」


 蜜香は微笑んで、扉をしめる。

 俺も背を向け、蜜香の家の玄関に向かう。

 ……しかし、その前に――。


「………」


 俺は静かに立ち止まり、隣の部屋のドアノブに手を掛け。

 間を挟まず、一気に開閉した。

 大きな画面のパソコンに、熱帯魚の泳ぐ水槽がLEDの明かりに照らされている。

 そんな、サイバーな雰囲気の漂う部屋の中――悠君が、壁際で聞き耳を立てていた。


「何してるんだ」


 悠君は、驚くべきことに聴診器を装着していた。

 イヤーピースを両耳に差し込み、手にしたチェストピースを壁に当てている。

 完全に盗聴犯の姿である。

 俺は、呆れ顔を悠君に向ける。


「このマンションの壁は防音効果が高く、簡単に会話が聞こえませんからね、こうして盗み聞きしていたんです」


 悠君は、悪びれもせずにそう言って、耳から聴診器を外した。


「しかし、まさかここでボクの部屋に突入してくるとは、本当に……修太郎兄は、ボクの想定通りに動かない。ボクを楽しませてくれる」

「帰る前に、君に聞いておきたいことがあってね。いや、聞いておきたいことと言うか、まぁ、ほぼ確実だと思うが」


 俺は、扉を閉めて、壁に背を預け、悠君に問う。




「蜜香に『結婚ごっこ』っていうアイデアを授けたのは、君だろ?」




「その通り」


 悠君は、背の低いパイプベッドの上に腰を下ろす。


「蜜香姉に相談されたんですよ。最近、修太郎兄に婚約者ができた。自分に出来ることなんて何も無いとはわかっているけど、心がそう納得は出来ないって。まぁ、相談を受けるのは別に始めてじゃないですが」


 悠君は、ベッドに腰掛けたまま足を組む。

 俺は、部屋の扉を閉める。


「昔から、蜜香姉は執着心の強い女の子でしたからね」

「それで、君が蜜香に『結婚ごっこ』なんてどう? って提案をしたと」

「蜜香姉、まさかあそこまですんなりボクのアイデアに乗るとは思いませんでした。自分で言っておいてなんですが、ビックリしましたよ」

「まぁ、蜜香はそういう女の子なんだよ」

「でも、懐かしかったんじゃないですか?」


 悠君は、その顔に――細身の眼鏡の奥の目を曲げ、妖艶な微笑みを浮かべながら言う。




「もともと、『結婚ごっこ』は、ボクと修太郎兄が始めたことじゃないですか」




「………ああ」


 その通りだ。


「厳密には、『恋人ごっこ』だったけどな」

「ふふふ……修太郎兄が、まだボクを蜜香姉の『妹』だって認識してくれてた頃ですね」


 そう。

 悠君は、蜜香の弟じゃない――本当は、妹だ。

 蜜香が俺に対し、密かに恋心を抱いてくれていた頃。

 俺も同じように、蜜香に対して秘めた想いを抱えていた。

 それを、悠君に相談したことが、全ての始まりだった。

 当時、中学生だった俺に、同じく一歳年下の中学生だった悠君は、提案してきたのだ。

 自分を蜜香の代わりにして、色々と練習しようと。

『恋人ごっこ』を提案したのだ。


「もう、その頃の記憶は忘れちゃいましたか?」

「忘れるわけないだろ」

「ですよね、ボクも忘れてません」


 悠君は、自分の唇に指先を添える。


「ボクにとって、修太郎兄がファーストキスの相手なんですから」

「………」


 それは、俺もだ。

 俺にとって、悠君がファーストキスの相手だった。

 梨乃にも言われたが、俺がキスに対してやたら慣れていたのはそのためだ。

 俺は、中学時代、悠君との『恋人ごっこ』を通して……キスをしまくっていた。

 しかし結局、この関係は俺の罪悪感もあり、長続きはしなかった。

 俺が悠君を蜜香の弟だと言い、妹であることを知らないような素振りを見せるのも、悠君をもう女として意識しないようにするためだ。


「でも、よくあんな提案をしたよな、俺に……」

「ボクって、昔からずっと、所有欲とか独占欲のようなものが薄くて、特に欲しいものがあるわけでもない人間なんです。だから、修太郎兄のことを大好きな蜜香姉が、ずっと不思議でした」


 そんな蜜香を見ている内に、悠君自身も、俺の事が気になり始めた――ということらしい。

 だから、蜜香の妹である悠君に相談しに来た俺に、『恋人ごっこ』を提案したのだ。


「興味があったんです。そうやって『恋人ごっこ』をしている内に、ボクの方に気が向いちゃうんじゃないかって思ったんですけどね。ほら、よくあるじゃないですか。好きな人の友達に恋愛相談をしている内に、その人の方が好きになっちゃうってパターン」


 悠君は、クスクスと笑う。


「でも、修太郎兄、本当にずっと蜜香姉一筋なんですもん。本当に、修太郎兄はボクの想定通りに動かない」

「………」

「なんだか、話してたらあの頃のことを思い出してきました」


 悠君は、妖艶に笑う。

 手にした聴診器の耳に掛ける部分を、唇に咥え。

 小ぶりな胸に手を添え、下から持ち上げるように見せ付ける。


「どうですか、修太郎兄、久しぶりに――」


 恋愛感情は強感情。

 善悪を超越した強い感情で、人を狂わせる。

 そんな千雪さんの言葉が思い出される。

 俺もまた、そんな強感情を持つ人間の一人だった。

 この闇鍋のような恋愛模様を構成する、人間の一人。


「蜜香姉には内緒で、ボクともしてみませんか? 『結婚ごっこ』」

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ある日、幼馴染みが言った。「ごっこでいいから、結婚しよう?」と。 機村械人 @kimura_kaito

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