第6話
谷村国一郎は看護師矢田英子の勤める総合病院に、再び救急搬送されて来た。今度は重症病棟に移されて行った。
「英子さん、中等症で担当だったあの患者さん、あの人よ」
と、先輩の看護師から聞かされた。
「ふぅ・・・ん」
矢田英子ははっきりしない返事をした。その時、彼女の脳裏には男の右腕にあった一センチほどの黒子が浮かんでいた。
(あの人・・・?あの男に違いない)
ふっ、と、彼女は何度も思うことがある。確かな確信はない。
数日の間、英子はぼんやりとした日を過ごした。
ずっと気にはなっていたけど・・・。
「一度、顔だけでも覗いてみるかな・・・」
英子はこんなことを思ったのだが、仕事が忙しいこともあって、なかなか行く気にもなれなくていたんです。
ある朝、
「よし、行って見るか」
英子はそう決心し、重症病棟に行って、国一郎の様子を遠くから観察した。相当酷いらしく、口にチューブが突っ込まれ、見た感じはまるっきり意識がないようだった。担当の看護師に、
「どうなの?」
と、聞こうと思ったのだが、英子はすぐに重症病棟から出た。
彼女はその姿が見るに忍びなかった。
(余りにも哀れに見えたからである。あの人は・・・)
間違いなく父を殺した男に違いない、と、彼女は、今はこう断定している?
(間違いない)
だが、それ以上の気持ちの進展は、国一郎が中等症病棟から退院してからは、ない。中等症隔離病棟に入り十日目に血液検査を行った。それまで綿棒での鼻の粘膜から採取していた検体からはいずれも陽性反応だった。そして、十一日目、
「今日は血液を採取して調べます」
もしそれでも要請陽性なら入院は伸びることになるかも知れない。中等症の患者の右腕をまくった。この時、彼女の献血用の注射針を持つ手がピタリと止まった。
(これは・・・)
彼女は唖然として、次の行動に進めなかった。この患者の腕には一円玉くらい黒い黒子があったのである。
あの日、学校の帰りにぶつかった男の腕にあった黒子は、今も鮮明に英子の眼の底に残っている。間違いなく、
「あの黒子・・・」
なのである。この人が父を殺した・・・おかしなもので、いざその状況が目の前に現れると、確信したことを否定し、そうなのか、と迷い、思い切った行動できないでいる自分がいた。その時、彼女は聞いて見た、
「大きな黒子ですね・・・」
と。彼女は男の反応を窺い、何ていうか、待った。
男の答えは呆気ないものだった。
「生まれつきですよ」
という返事だった。注射針を持つ手は震えていない。驚くほど、彼女は落ち着いていた。
「ふっ!」
と、小さな吐息を吐いた。血液検査の数値が良かったので、国一郎の退院は決まった。自分で歩けるだけの体力を回復していたので、その次の日、谷村国一郎は自分で歩いて退院した。
それから数か月経ち、国一郎は帰って来た。というより、救急搬送されて来たのである。
その間、国一郎が何処で何をしていたのか、英子には分からない。
ただはっきりしているのは、国一郎が重症患者として搬送されて来たということである。
矢田英子は一か月後、国一郎が死んだということを知った。彼女は国一郎から得た結論を一言も吐露できなかった。
(あの人は・・・)
父を殺した犯人だったのか?
「ああ・・・思い切って、訊き、問い詰めたかった」
やり切れない気持ちが彼女の全身を覆い、その日は、国一郎が死んだと知らされた日は何もする気もなく、仕事を休んだ。
その谷村国一郎であるが・・・が死ぬ数か月前、彼は高知県の柞原街道の千枚田に心を奪われている頃に戻す。
「それで・・・」
九鬼龍作は国一郎に問い掛けた。龍作の前には二日前と同じように、テーブルを挟んで、国一郎が座っていた。
「あなたが見たという黄泉の国の風景は・・・見つかったのか?」
一瞬、国一郎は返事に窮したが、
「はい、この眼ではっきりと見ました」
彼の眼は輝いているように見えた。ビビは彼の膝の上に乗った。
ニャニャ
と、二回鳴いた。
「そして、これから、どうなさるのですか?」
龍作は訊き返した。
「でも、本当にそんな所が、この日本にあるのかなあ・・・」
「ありますよ。ありましたよ。私は死んだら・・・そこに逝くことになりそうです」
(この男、本気で・・・)
黄泉の国があるものと信じている、いや虚ろな夢の中で見て来たというこの男をまじまじと見つめ、
(この男・・・まだ眠っているように見える・・・)
「ふふっ」
龍作は笑った。
谷村国一郎はいつの間にか眠ってしまっていたようだ。
「ここは・・・何処・・・?」
もう辺りは暗くなっていたが、空には夕闇が消えていて、
(紫がかった闇が天空を・・・)
覆っているように、彼には見えた。その紫がかった闇の彼方に、
「あれは・・・」
彼は、ふっと、そう思った。
「間違いない、あれは、私の探している黄泉の国に違いない」
そして、
(行こう。もう少しだ)
彼は立ち上がり、意気揚々と歩き始めた、いや、この山の傾斜を・・・そうゆっくりと登り始めた。
やがて、その情景が鮮明に、彼の目の前に浮かび上がって来た。
果てしのなく川面が広がっていた。水面は緩やかな波を打ち、岸辺に立つ彼を歓迎しているかのように、いや、彼は自分がここにやって来たのを歓迎されていると思った。
「ここだ!」
彼は岸辺に立ち、ゆっくりと川面に向かって歩み始めた。
この瞬間、彼は奇声を上げた。
「ああ・・・」
彼は川面に沈まないで、その川面に立っていた。
「やっぱり・・・」
彼の体は流れて行く、何処までも・・・そう思われた。多分・・・岸からいくつもの枝がしだれているが、その枝には白いものがいくつもくっ付いていた。
「これは、何だろう?」
と、手の取って見ると、その白いものはすぐに泡のように消えてしまつた。
「これは・・・そうだ。肉体のある世界にいた時の苦痛の種なのかもしれない。それが、今自分の手でつかみ、跡形もなく消えて行く。
「今までこんなにも苦しめていたものがあったんだ。しかも、こんなに簡単に霧散していくなんて・・・」
国一郎はそう感じ、思った。
そして、
(もう、その苦しめられた世界に帰らなくてもいいんだ)
国一郎は何度も繰り返し、そう思った。と同時に、言い知れぬ喜びが沸いて来た。
(この黄泉の国の情景を眺めながら、この先ずっと、ここにいられるんだ)
彼は目をつぶった。その動きに少し拒絶も後悔もなかった。
「これでいい、もういいんだ。ここで、ゆっくりすればいいんだ」
矢田英子は谷村国一郎のことを警察には届けなかった。
「もう、いい。訴えて、どうなる。十五年も前にことである。もう・・・いい」
と、彼女は呟いた。
「でも・・・」
ここで、彼女は呟きを止めてしまった。母郁美もパートで働いている。身体はけっして丈夫ではなかったが、無理をしない程度に日々を過ごしている。弟のまさるも後もう少しで卒業する。
「もう少し・・・」
の辛抱だった。父修の突然の死は哀しいことではあったが、時間が・・・心が傷付いたままでも癒してくれていた。
「もう少し・・・」
英子はまた呟いた。
「おわった・・・の」
《了》
九鬼龍作の冒険 憧れの黄泉の国の情景を求めて 青 劉一郎 (あい ころいちろう) @colog
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