第5話
中等症の隔離病棟の男と話している内に、
(この人はもともとS市に住んでいて、何らかの理由によりM市に移り、そしてまたS市に・・・)
戻って来たんだ、なぜ・・・。英子はちょっと首をひねった。
そんなことを考えながら、英子は国一郎の表情を窺っている。何となく興味がわいて来ていた。
以前住んでいた所がS市と同じなんだ、と彼女は気付いた。いや彼はそう告白したのではないが、彼女は確信してしまった。
「へえ・・・」
(この人は、私の住んでいるS市に住んでいたことがあるんだ。M市に移り住んでいた。そして、なぜかしら、またS市に戻って来た・・・今度はひとりで・・・)
来たから南に走っている鉄道の駅の数にすれば、M市とS市には小さな駅を容れると六つの駅があるだけだから、けっして何度か行き来していても少しも不思議ではない。まして、M市には大きなショッピングセンターが出来たのだから、当たり前のことである。
英子と国一郎との会話に少しの緊迫感が漂っていた。それは、彼女の気のせいなのかもしれない。
(この落ち着かない緊迫感は・・・)
何・・・?
彼女は、ごくり、と唾を飲み込んだ。
(どうして、またこのS市に戻って生活するようになったのだろう?)
この人は十五年前に起こった私の家族の事件を知っている。こんな漠然とした思いが、突然彼女の心の中に浮かんだのである。理由はない・・・。
(聞いて見よう・・・)
こんなことを、英子は思った。
ひょっとして・・・と、彼女は思い、それらしきことを国一郎に問い掛けるが・・・
(どうして、話しを逸らすのかしら・・・」
理解してくれない。いや、理解して欲しいとも思わないのだが、それに、肝心な所になると、彼は言葉を濁した。英子はそう感じたのである。だから、思い切って、
「住んでいたのは・・・S市のどの辺ですか?いえ、今もこのS市に私は住んでいるんです。ええ」
「もう、忘れました」
とだけ、言うと国一郎はまた黙ってしまった。
「じゃ、住んでいたんですね」
男がS市に住んでいたのははっきりした。
私はS市の・・・ここに住んでいると言おうとしたのだが、国一郎の反応が気になり躊躇してしまった。あの事件をまた思い出すのに、私自身がまだまだ少し恐怖を感じたのである。
英子の手は震えていた。
国一郎の不可解な行状や彼女の問い掛けに対する話しぶり・・・その様子を見て、彼女はもうこの男が父を殺したのだと確信し始めていた。
(本当に・・・?)
でも、やはり、こうだと確信は出来なかった。
(でも・・・)
「本当に、警察の人は父を殺した犯人を捜してくれているんだろうか・・・」
こんな疑問を英子は抱いた。この十五年間、不安のまま過ごして来た。時々その当時も変わりないのだが、事件の担当の刑事が訪ねて来ることがある。また、駅前でビラ配りをしたりもした。
(この人には、私がS市に住んでいるとは言っていない。思い切って突っ込んだことを聞いて見ようか・・・)
と思うのだが、うまく言葉が浮かんで来ない。
「それで・・・」
九鬼龍作は続けて話すように促した。この男は思いのすべてを話す気にはなっているようである。
やっとその男は・・・谷村国一郎は話し出した。国一郎は時々というより、ずっと千枚田の方ばかりを見つめていた。その傾斜の先っぽは天空まで続いているように見えた。
「何を考えているのですか?」
龍作は訊いた。
「えっ、ちょっと余計なことを考えていました。ああ、そうですね、私は感染症の隔離病棟でうつらうつらしていました。病棟での生活・・・確か三日目だったおもうのですが・・・突然・・・」
国一郎の眼が輝き始めていた。
「何が、突然・・・だったのですか?」
「はい、その情景は私の前に突然現れたのですよ。びっくりしましたよ。そりゃ、もう・・・」
国一郎は明らかに興奮していた。焦点の定まらない目ではあったが、その眼の奥底には輝きを放っていた。
「それで・・・続きを聞かせて下さい」
「ふっ、その情景は全くの暗闇ではなかったのです。そうですね、天空が濃い紫を帯びた闇が被っていて、そうそう私の心の中に染み込んで来ていました。ぐうっとね。聞こえるか聞こえないかのような音楽が流れ、空間を漂っていて、心地よかったのをはっきりと覚えています。はっきりしないのですが、何処かの川なのか、それとも湖なのかはっきりしないのですが、ゆっくりと流れの中に私は漂っていたのです。川面は魚の鱗のようなさざ波が一面に波打ち、何処へ行くともなしに、私は何か船のようなものに乗って流れています。そう・・・そして、周りの岸から紫の天空を覆う空からしだれ柳ように水面に垂れていたのです。白い玉ようなものが枝に咲いていました。後で考えたのですが、そこは何処だったのでしょうか?今思うのですが、死んだら、私の行き着く先の黄泉の国だったような気がしてならないのです。今も私の記憶の中に鮮明に残っています」
男は一気に話し終えた。非常に満足な面持ちしていて、
「ふぅぅ」
と、軽い吐息を吐いた。
「ほう、そうですか。いい夢・・・いや、良い情景を見られましたね」
龍作は笑みを浮かべ、男の顔を見つめた。こうして話したことで、男は非常に満足そうな表情をしていた。
谷村国一郎は柞原街道で知り合った男と別れ、ずっと気になり、見惚れていた千枚田をゆっくりと登っている。心筋梗塞の気配があり苦しかったが、時々座り込んだりして登って行く。どうやら本気で千枚田の天空の彼方に向かうようだ。
観光客ように気の柵で作った階段が在った。ゆっくりと一歩一歩登って行く姿は、目的を持った旅人のように力強かった。男は真っすぐ天空の彼方ばかり見ていたのだが、彼は気付かないのだが、周りの樹木の新緑と田畑の緑が心地よく、彼に安寧を与えていた。この先に・・・
「私の黄泉の情景が・・・」
あるに違いない。国一郎は確信していて、その気持ちは揺るぎないものだった。
やがて、陽が落ち始め、周りは暗くなった。
疲れたのか、国一郎は座り込んだ。
「ふぅぅ・・・」
国一郎はまた吐息を吐いた。何度目だろう?
「ちょっと疲れたかな?」
彼はそんな気がした。
いつの間にか、私は気を失っていましたが、どれだけかして眼が覚め、気付きました。
「これは・・・夢なのか」
彼の眼には橙色に輝く煌びやかな花が眼に映りました。いいえ、花というより、草花なのかもしれません。なぜかというと、その周りには確かに雑草ばかりが生えていて、そうなんです、その花だけが金色に光り輝いていた。
それは、ヤブカンゾウという草花で・・・いや、そうらしいのです。後で調べて分かったことです。
彼は余りの眩しさに眼をつぶり、その前にしゃがみ込み、じっと見つめました。
「あなたは・・・」
彼は名も分からない目の前の草花に語り掛けました。
「ここで、ずっと輝き続けていたのですか?こんな寂しい場所で・・・」
彼は問うた。
返事はなかった。さらに、
「どうして、こんなに寂しい場所にずっと輝き続けていることが出来るのですか?」
と、聞いた。
しばらくして、
「うふっ・・・」
という微笑みが、彼の耳元には聞こえたのです。
彼は驚き、
「可笑しいですか・・・」
「ええ、とても・・・」
「あなたこそ、どうしてこんなに寂しい場所にやって来たのですか?私に会いに来てくれたのですか?」
「いや違います。でも、あなたに会えてとっても嬉しいのです。私の今の気持ちが分かります?」
「そう言っていただけると、私も嬉しいです。ところで・・・あなたは?」
「私は感染症に罹り、その時に黄泉の国の情景を、この眼にしたのです」
「なるほど・・・」
「その日以来、その黄泉の国の情景が気になり、きっとこの世にもその情景が存在すると信じ、探し求めていたのです。私はやっとこの地を探し出し、一人でやって来ました。そこでお尋ねしたいのですが、ここには・・・いやこの先には黄泉の国の情景が存在し、ええ
私のですよ」
「ありますよ。あなたが探し求める黄泉の国の情景が、この先遥か彼方に存在します。どうか行って見て下さい」
「この先ですか?」
「ええ、ずっと先です。きっとあなたが・・・いいえ、あなた自身の黄泉の国の情景に出会いますから・・・」
谷村国一郎は急いで立ち上がり、遥か彼方に向かって歩き始めた。彼にはもう迷いはなかった。
(なぜか・・・)
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