第4話

それから十五年が経った。 


英子は谷村国一郎という四十五歳の男性患者の担当になった。

 一瞬、

 「何処かで会った・・・」

 という思いが彼女の考えに浮かぶが、確かな確証はない。あやふやな感覚だった。だから、そういう考えを彼女はすぐに打ち消した。

 これまで何人もの患者に接していた。この人、何処かで会ったような・・・気がする・・・。何度もあった。今度もそれなのかもしれない。

 それから二日が過ぎていった。普通と変わらない日々だった。英子は一人でくよくよ考えるタイプの女ではなかった。よく笑い、友人も男女を問わずいた。彼女は循環器科を担当していたのだが、その医師にも評判が良かった。彼女は時々、

 「ふぅ」

 と吐息を吐いた。この時、彼女の全身を覆っていた緊迫感が消えた。知らず知らずの内に、得体の知れない何かが彼女に襲い掛かって来ていたようだ。

 (あれかな?あんなことがなければ良かったのに・・・)

 仕方がないのか・・・と彼女は諦めるしかなかつた。

 だが、この男への興味はまだ残っていた。だから、英子はこの患者の話すことに抵抗心を現さずに常に聞き役に徹することにした。看護師という職業柄、彼女はそのようなことに慣れていたのだ。

だが、厄介なことに国一郎の口は重かった。始めは無口な国一郎に手を焼くが、徐々に国一郎の方から話し出すようになったのは隔離病棟に入って、四日目だった。

 何を聞いても答えてくれない時間が過ぎて行った。彼女自身もやもやとした気分になり、やり切れなかったこともある。

 きっかけはなかったのだが、その内に、国一郎の方からこころの壁が解けて、あれこれと話し始めるようになった。今流行している感染症の苦しさに堪えられなかったのかも知れなかった。

 あれこれ話す内に、英子が時々友だちと遊びに行くM市にある駅前の噴水の話が話題に上った。M市はそれ程大きな市ではないが、大きなショッピングセンターがあるので、彼女は友達とよく足を運んだ。S市とM市の間には田んぼが広がり、これといって魅力のない景色が広がっていた。

 「M市に住んでいたんですか?ええ、M市、私よく知っています。何度が友だちと遊びに行きました。大きなショッピングセンターがありますね」

 英子は今もS市に母と弟のまさるとで住んでいる。まさるは今大学に通っている。 

 「えっ、ああ・・・」

 国一郎は急に口ごもった。

 「どうかしました?」

 英子は怪訝な眼で、この患者を睨んだ。

「ふふっ」

 彼女は苦笑するしかなかった。

 「どうして、あんな所に大きなショッピングセンターが出来たのか、よく分かりません。遥か西に見える彼方の山々に陽が隠れる時、町全体が黄金色に覆われるんです。きれいですね。全く眩しいばかりの風景ですよ。それだけですよ、M市の魅力は・・・。確かに北から南にかけて国道が走っていて、誰もがその先にある神社に向かうのです。その道は確かに便利で、全国から多くの人を呼び集められるでしょうけどね・・・」

 ただ、それだけの町の様子だった。M市には人を魅了する観光資源があるわけではない。ただずっと南の方に行けば複雑な地形の海岸の様子が見られるが、それもそれ程頻繁に行く気にはなれない。ただ急に騒がしくなった町であり、懐かしい光景ではなかった、

 この患者がもとはS市に住んでいたと認めたわけではなかったが、あえて聞いた、

 「どうしてまたS市に住むようになったんですか?」

 と、彼女は訊いた。

 この無口な患者はまた黙ってしまった。完全な防御態勢に入ってしまったように、彼女には見えた。

 看護師はこの隔離病棟から出て行くとき、

 「谷村さん、体調がおかしかったら知らせて下さいね。隣の部屋にいますから」

 この隔離病棟は四階にあり、窓からはM市から連なる山々が北の彼方に見える。見慣れた風景ではあったが、こうしてみると、何処か他所の町の風景を見ているような気がしてしまう。だが、今も嫌な思いのまま、このS市に住んでいるのである。このS市に住むしかない、と彼女は諦めている。彼女自身その理由も分かっている。あの生々しい事件が解決していないし、今も彼女を苦しめているからである。彼女は頭を強く振った。

 「この町も、何もない町なんですけどね、いや私はこの町がやはり嫌いなんです」

 と、この患者は漏らしたことがあった。

 その通りである。七万人余りの人が住むS市であるが、警察署もS駅の東口を七百メートルばかり行った場所にある。英子は何度もそこに行き、事件当時のことを聞かれた。その度に苦々しい苦痛を味わっていた。

 「ええ、そうですね」

 と、国一郎は笑った。

 彼女も笑みを浮かべた。

 「ふふっ」

 英子は声を出した。

国一郎は笑顔を浮かべた。

 (この人・・・笑うんだ)

 この男の人の担当となってまだ四日目であったが、初めて笑うのを見た。

これがきっかけになり、彼女はこの患者に親近感を抱くようになった。

やがて、国一郎は自分の家族の境遇を話し出した。別に不思議なことではなかった。病院に入院している人は心身とも不安定になっていて、看護師がより親身になってくれるのを感じると、いろいろと話し出すものである。

 「家族は・・・?」

 英子は訊いた。この人・・・答えてくれるかな・・・と興味を持って、男の顔を覗き込んだ。

 「今は、一人です」

 「今は?」

 英子は聞き返した。一瞬、患者は怯えた表情をして、英子から眼を逸らした。

 隔離病棟の中に沈黙が漂った。患者と看護師の二人だけである。なぜか、重苦しい雰囲気だった。患者にストレスが溜まらないように、病室は細長く、広さは二十畳ほどでトイレもあり、洗面所も備え付けられていた。

この患者はいつも何かを警戒しているような素振りが・・・違うかも恐怖心がある・・・彼女にはそう窺えたのである。

 英子は国一郎の言葉を待った。

 「妻はいなくなりました」

 国一郎と漏らした後、苦笑した。英子は、

「なぜ・・・」

と、聞かなかった。しばらくすると、続けて話し出した。

 「四歳になる男の子がいたんですが、肺炎になり亡くなりました。ええ、意外とあっさりとです。呆気なかったです」

国一郎は眼を閉じた。

彼女はこの患者の顔を覗き込んだ。

 (この人・・・こうして話すことで、何処かに安堵感を感じている・・・)

 ように見えた。

 「哀しかったですか?」

 彼女は訊いた。

 少し間を置いて、

 「ええ」

 と、頷いた。

 この後、国一郎がどんな生活をよぎなくされたのか・・・想像するのは難しい。しかし、今もともかく、男の子を失った時の悲しみは平常心でいられるわけがない。きっと、

 (この世の終わり・・・)

 と思い、まして、

 (妻も・・・)

 逃げてしまったから、自暴自棄になっても可笑しくない。

 (この人は・・・どのようにして、その時期を克服したのか・・・)

 彼女にはそれ以上考える力はなかった。

 「だが、この人は・・・」

 ここまで生き延びた。

 人は死なない限り、死ぬ度胸がない限り、生き続けなければならない。英子はそう思っている。

 「私の様に・・・」

 待機のナースステイションに戻ると、椅子に座り込んだ。

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