第3話
「あなたさえ、嫌じゃなかったなら、話して下さい。はい、聞きたいんですよ、あなたの見たという黄泉の国の情景を・・・。そうすることで、あなたの鬱とした気持ちも和らぐに違いありませんから・・・」
「鬱とした・・・ですか。あなたには、そう見えますか・・・この私が」
谷村国一郎は頬を歪めた。
九鬼龍作はビビの首を二三回撫でた。ビビは龍作の膝の上で気持ち良さそうに首を伸ばし、大きな欠伸をして、目の前の男を見つめ、そして、
ニャー
と、一声鳴いた。
その姿を見て、男は笑みを薄っすら浮かべた。
龍作には、《鬱・・・》、その国一郎という男がそう見えてのである。
「そうかもしれませんね。鬱・・・ですか!それ程、そんな鬱な私が見た夢みたいな話を聞きたいですか?」
「ええ、あなたの気分を和らげるのではなく、今私自身が大変興味がそそられています」
「ええ、いいでしょう。お話ししましょう、私のつまらないお話を・・・だけど、あなたに気に入られたくてお話するのではありません。その情景は、私の鬱の中に現れた心安らぐ世界の様相だったのです」
「ええ、お聞きしましょう。もう一度言います、そのあなたの心安らぐ世界がどのようなものなのかを知りたいですね」
龍作は国一郎を睨み、眼を逸らさなかった。
しばらく静寂があった。それは、いつまでもつづくような雰囲気であった。だが、
「あれは・・・」
国一郎は話し始めた。彼は彼方に山々の方を見ていた。つられて、龍作もその方に眼をやった。
「神在居の千枚田。見ての通り、梼原の町は山ばかりなのは、見ての通り。平地ばかりだから、山の斜面に田を作るしかなかった。また、それが大変な作業だったようだよ。」
龍作は説明した。
また、しばらくは静寂があった。国一郎がまた口を開いた。
「何処までも・・・天の果てまでも続いて行っているように、私には見えます」
そして、彼は、
「そうなんです。何処までも続いているように、私には思えるのです。行って見たいですね・・・その果てまで・・・」
ぽつりと言った。
龍作は、そんな国一郎に苦笑した。
谷村国一郎が感染症に罹り、S市の中央病院に救急で運ばれたのが二日前の早朝だった。
二日前というには、十月七日である。だが、この場合、日日などは問題ではない。要は、国一郎が感染症に罹り、救急搬送されたという事実である。
谷村国一郎はM市の奥まった山沿いの町・・・というより、村に生まれた。縦に長い地形で、中ほどにS市があり、南に行くとR市、M市と続いている。
彼は一人っ子で会った。国一郎が二十歳までに両親は二人とも死んでいなかった。幸いなことに、彼が高校を卒業してから、二人とも病気であったが死んでしまった。だから、少なくとも高校だけは卒業出来た。
彼は二十四歳の時に結婚をしていて、男の子が一人いた。勝彦という。自分がこの親であるという運命のめぐり合わせに、彼は感謝していた。時間と人との出会いが狂っていれば、惨めな人生だったと思った。その頃、自分の境遇に感謝していた。
国一郎は人殺しであった。まぎれもない事実であり、否定出来ない。
(あれは・・・)
谷村国一郎は頭を強く振り、眼を強く瞑った。出来うるなら・・・そんな恐ろしいことはなかったのだと思いたかった、と強く首を振りたい。だが、人殺しという事実は逃れきれない事実なのである。
十五年前にS市で起こった事件の犯人であり、国一郎がその犯人である。
国一郎は今も逃げている。
「幸いにして・・・」
といいたいが、こんなことを考えると苦笑せずにはいられない。こんな時代なのだが、彼は捕まっていない。だが、絶えず恐怖があった。
もう一度言い、確信していただきたい。国一郎は人殺しであり、彼の子の勝彦は人殺しの子であり、もしその事実が世間に分かれば勝彦は人殺しの子と罵しられるの違いない。
「俺は仕方がない・・・」
その張本人なのだから、その罵りを素直に受けよう・・・と思う。だが、
「息子の勝彦は、違う」
のだ。
(あの子だけは何としても守ってやらなければならない。いや、この私の命に代えても守ってやる・・・)
と頑張っていた。
「だが・・・」
と、彼は思い、憤慨する。
(勝彦・・・)
は、四歳の時に肺炎に罹り、亡くなってしまった。その一年前女房は子供を捨て、何処かに行ってしまった。
(俺の父母は弱い人であった。生きるには余りにも純粋で、生きるには下手な人間であった。それでも、何とか高校まで通わせてくれた。感謝している。だが、俺は・・・)
彼は後悔をし、自分の無力さを悔やみ、恥じた。
国一郎が盗みに他人の家に忍び込み、金をとった行為は・・・彼にとっては仕方のないことであった。それしか選択肢はなかったのか・・・
「馬鹿な!」
後悔しても始まらない。時間は戻せなかった。
「だって、ああでもしなければ・・・俺は飢え死にするしかなかったのだ」
その頃の国一郎は確かに、
(怯えていた・・・あらゆることに・・・)
である。特に、彼の前に現れる人間たちに・・・。
国一郎は人として生きられない性格の人間のようであった。それは、彼の両親に似ていたようだ。
それは、何に起因するのか、彼自身にも分からなかった。遺伝・・・DNA・・・だが、何にしろ、それでも彼は考えるしかなかった。なぜなら、彼はこの訳の分からない世界で生き続けなければならない、と思っていた。
まず、国一郎は仕事に就かなければならなかった。その点を彼はよく理解していたのだが、どうもうまく行かなかった。
「なぜ・・・」
国一郎は声を上げた。
すべての業種から、国一郎は拒否され、企業という集団の場所から疎外され、一人で放り出された。
その内に彼は一人で彷徨うしかなかった。他人は言うかもしれない。
「そんな馬鹿な」
実際に街中をぼそぼそと一人で歩くしかなかった。虚しさが、彼の体を覆い、震えていた。
「くそっ!」
国一郎は何度もこの世の中を罵り、呪った。
その内に、国一郎は飢え始めた。腹が減って仕方がなかった。
あるスーパーマーケットで、遂に彼は空腹に我慢出来なくて、一個のパンを掠れた灰色の着古したジャンパーのポケットの中に入れた。
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