第2話
矢田英子は二十四歳で、看護師である。三年前からS市の中央病院で働いていて、今は隔離病棟にいる患者の世話をしていた。
四年前から世界的な感染症のために、日本もてんやわんやになっていて、英子は中等症の病棟の担当になり、患者を世話している。
今日も新しい患者が搬送れて来た。四十五歳の男性で、心臓と肺に持病があった。特に心臓がひどく、不整脈があり心不全の兆候も見られた。そして肺炎も患っていた。軽症ではなく、中等症の患者である。
英子には十九歳の弟がいる。今、大学二年であり、英子が弟の学費、その他の費用を賄っている。母郁美は元気なのだが、余りからだが丈夫ではなかった。近くの総菜店で、パートで働いていたが、そんなに収入があるわけではない。だから、この矢田の家の生活は英子一人に掛かっていた。
英子は弟まさるだけは何としても守らなければならないと思っていた。そうね
(あの時から・・・)
あの人から、英子の苦しみが始まったと言っていい。
その事件は十五年前にあった。
弟がまさるが四歳の時に事件は起き、それがきっかけで父の修が死んだ。というより、誰かによって殺されたのである。
矢田英子が八歳の時に、父修は誰かによって殺されたのである。その犯人は十五年経った今でも捕まっていない。
その日は十月十一日は木曜日だった。いつもと変わりない十月の爽やかな風が吹く午後だった。彼女は学校からの帰りで、いつもの癖で空を見上げた。秋のすっきりとした青い空が眼に飛び込んで来て、
「眩しい」
と、左手で眼を覆った。
「こんにちは・・・」
と、彼女は声を掛けた。
もちろん、青い空が返事をすることはない。でも、彼女はニコリと笑みを浮かべ、
「今日も、いい日だったわね」
と、独り言をいい、満足した。
通りの雑貨店を曲がると、彼女の家は二十メートルくらい行くと、ある。幼稚園から帰って来た弟のまさるが待っているはずである。父の矢田修は硝子工場に勤務していて、三交代なのだが、今日は夜勤で、朝方家に帰ると、まさるを幼稚園に送り出してからひと寝入りする。午後の三時ころに起き、幼稚園へ行ったまさるを迎えに行く。そういう日課になっている。だけど・・・
矢田英子は急に走り出した。理由は分からない。何だか、奇妙な不安に襲われたからである。
(何だろう・・・?)
この時、英子は前から走って来る男の人に気付いた。そういう感情を抱いたのだが、と同時に何かしらの不安というか恐怖心が芽生えたのである。彼女はもう一度、
(何なのだろう?)
この気持ちは消すことは出来なかった。
英子はその気持ちに堪えられずに、走り続けた。
「まさる・・・」
不覚にも、彼女は泣いていた。
「なぜ・・・」
自分が泣いている理由が分からなかった。
その家には、四歳になる弟のまさるがいて、父修もいるはずである。
彼女の家はすぐそこだった。
夜勤明けの時には、
「お父さん、また寝ているのかな・・・」
そんな日も、たまにあったのを、彼女は覚えていた。彼女はそんなことを考えながら走っていた。
だが・・・玄関には誰もいなかった。
「お父さん・・・」
彼女は家の中に向かって、叫んだ。玄関は・・・なぜか開いていた。
(この胸騒ぎは・・・)
言葉に出来ない不安が、彼女の体に覆い被さって来た。
家の中から・・・返事はない。
彼女は続いて、弟まさるを思い出した。夜勤帰りの父はともかく弟のまさるはいないわけがない。彼女はそう思った。だから、
「まさる」
と、彼女は叫んだ。
この間、英子は玄関に立っていたのではない。
不可解な恐怖と冷たい空気が漂う中、彼女はゆっくりと中に入って行く。玄関から居間まで廊下が続いている。彼女とまさるがふざけ合い追いかけっこした廊下だった。今はそういう雰囲気ではない。廊下の突き当りの右側が風呂場である。左が居間、その奥にキッチンがある。
「お、お父さん・・・?」
英子は廊下から居間を覗き込んだ。
その後のことは、彼女ははっきりと覚えていない。途切れ途切れの情景がゆっくりと、彼女の脳裏を目まぐるしく動いている。それは、今も全く変わりない。
父修の胸にはナイフが刺さったままで、胸は真っ赤な血で覆われて・・・いや、べとべとに濡れていた。そして、まさるはそんな父の傍に座り込み、ガタガタと震えていた。余りの恐怖のために、泣くことも姉の英子を見ても叫び声を上げようとしない。
英子が警察に知らせた。
それから、どれだけかして警察がやって来た。それさえも、十五年経った今彼女の記憶に中から消えかけていた。
それから英子は母との極貧の生活に強いられた。
幼い弟まさるも可哀そうであった。多分、まさるは父と犯人とのやり取りのすべてを見ている筈である。だが、まさるは一言も話していない、ずっとである。その心の傷をもったまま十九歳になり、大学に通っている。
「時間は戻せない・・・」
のだ。英子はそう思うしかなかった。
まさるは時々一人になると、肩を丸めてじっと一点を見つめ、考え事をしている。
「どうしたの?」
と、声を掛けたいが、彼女は口をつぐんでしまい、そんな弟を見ているしかない。
その気持ちは、英子にも言えた。
英子は初めその状況に堪えられずに、死んでしまおうかと何度も思った。おそらく母も、
(同じ気持ちに違いない・・・)
と、思うと、なぜか涙がこぼれて来て仕方がなかった。だから、
(こんなことではいけない・・・)
と自分を鼓舞し、それでも歯を食い縛り働いている母郁美を見ていると、英子は、
(頑張らなくては・・・)
と思うのであった。
「でも、何をしたら・・・」
いいのか、彼女には判断し兼ねた。
そして、結局、彼女は看護師になる道を選択した。
その日のことを、つまり事件があった時のことを、彼女は朧気ではあるけれど、徐々にはっきりと思いだして来ていた。それでも、十五年経った今となって見れば、その記憶も所々消えてしまっていた。
何度も眼を背けたくなる情景が、日々彼女に襲い掛かって来た。昨日のことのように、彼女は蘇って来た。
「もう、いい」
と、彼女は叫んだ。それでも、夜寝ていても蘇り。彼女を苦しめた。というより、苦しめられたといった方がいいかも知れない。
ただ・・・
矢田英子の脳裏には、ある不可解な記憶が残っていた。
その日は、いつもと変わりない日であった。
季節は、夏は終わりかけていたが、まだ少し蒸し暑かった。それなのに、英子は秋がやってこようとするこの季節が大好きであった。
学校の帰り、いつものように彼女は時々スキップ帰りを急いでいた。というのは、少しお腹が空いていたのである。いつもは、こんなことはないのだが、なんか・・・変だな、という気分だった。
不安と恐怖のまま懸命に走る彼女は、前から走って来る男とぶつかった。身体の小さな彼女は尻持ちをつき、倒れてしまったのだが、慄くような眼で彼女を見つめる男と眼があい、
「すいません」
と、彼女は謝った。身体の大きな人だなという記憶がある。
ほんの二三秒、時間は止まっていた。
この瞬間の記憶は非常にあやふやだったが、彼女にははっきりと覚えていたことがあつた。
その男はTシャツを着ていた。明るい透き通った水色だった。それは、はっきりと覚えている。そして、右手に何かを掴んでいるように見えだが、それが何なのか、彼女には分からない。ただ、男の右の手首に大きな黒い黒子・・・ようなものを見たような記憶が残っている。今も考えることがあるのだが、血のようなものは付着していなかったように、彼女は思う、父の胸がどす黒い血に覆われていたのを思い出すと気が狂いそうになる。
この大好きなS市が薄暗くなり、汚く見えた。だけど、その汚く見えていた風景も、今はその汚さが薄くなって来ていた。
(少し眠い・・・)
今日の英子は夜勤明けだった。
「ふぅ・・・」
彼女は息をはいた。気持ちいい吐息だった。
英子はこの町が好きであったが、あの事件以後どうしても好きになれなかったのだ。理由はよく分かっている。でも、
「もう、時間は戻せない・・・」
のだ。
家が近付くにつれて、不安はさらに大きくなって来た。
「あっ!」
玄関は閉まっていて、家の中から明かりが漏れていた。
「ふぅ・・・」
英子は、今度は背筋を伸ばし、大きく息を吐いた。
(もう、あんなことは起こらない・・・)
起こるものか・・・。彼女は強く意識した。
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