第2話 マリエラ・カテリーナ・カザリーニ嬢
***
正直に白状しよう。
マリエラ・カテリーナ・カザリーニ嬢を一目見た時、私は女性というものが如何に美しく、官能的な存在であったかを思い出した。修道院の門を潜ってから今日まで、女性と接する機会は無いに等しかったし、唯一の接点である聖バシリオ精神病棟の患者たちは、あくまで患者として見ている。
しかし、彼女は違った。
質素な装いに身を包み、牢獄のような病室に居を移してもなお、彼女が持つ美しさを損なってはいなかった。
緩く肩に流した栗色の髪。熟れて弾けそうな赤い唇に対照的な白い肌。滑らかな肢体。布の上からでもわかってしまうその豊かな曲線に、手放そうと努めていた私の中の男性的な部分すら、存在を自覚してしまいそうになる。
だが同時に、私は彼女の目を見て悟っていた。
ルカレッリ医師が疑念を抱いたその理由――彼女の鳶色の瞳には、人を騙し騙されまいと警戒する油断の無さがありありと顕れていた。
「ごきげんよう、修道士さま」
マリエラ嬢は隅のベッドで壁に向かって頭を垂れていた。そこには彼女が持ち込んだ十字架が打ち付けられている。
「わたくしを説得しにいらしたのでしょう? 生憎と、わたくしはもう心を決めました――わたくしの生涯をイエスさまに捧げると」
そう言って彼女はベッドの上に脚を投げ出したまま、身を捻るようにこちらを振り返った。悪戯っぽい笑みを口元に浮かべて。
「だから無駄でしてよ。修道院の生活が如何に厳しくつらいものか説いても、わたくしには効きませんわ」
「私はそのために伺ったのではありません。私はただ、あなたの話に耳を傾けるために呼ばれました」
私は見惚れたことを悟られないよう首を振りながら、用意された丸椅子に歩み寄った。意外そうに見開かれた彼女の目には、好奇と警戒の両方が浮かんでいる。
「あら、わたくしの話を?」
「はい。どんなことでも、話してください」
私は腰を下ろし、じっくりと聴く姿勢を取った。マリエラ嬢は少し考える素振りを見せたが、結局私と向き合うようベッドの上で座り直した。
「お話できることが思いつきませんわ」
「では、あなたのご家族の話はどうです? ご両親の話、兄君の話……それから、歳の離れた妹君がおられるのでしたね」
「ええ、おりますわ。二人」
「妹君は可愛いですか? 私には兄しかいなかったもので、弟妹がいるというのが想像もつかないのです」
ところが、マリエラ嬢は私のことを穴が開くほど見つめた後、フッと皮肉染みた笑みを浮かべた。
「回りくどいことはおやめになって」
蠱惑的なその笑みに。
私は咄嗟に唾を呑んだ。
「あなたはわたくしに兄妹のことを思い出させて、家族愛を説こうとされるのね。それも無駄ですわ、修道士さま。わたくしの愛は主イエス・キリストに――主の愛を通して、すべての人々へと向けられているんですもの」
彼女は目を伏せて付け足した。
「確かに、おっしゃりたいこともわかります。カザリーニ家の未来がわたくしの結婚に懸かっている……でもね。わたくしがこの結婚に応じなくても、妹たちは死にませんわ。家族の誰も。けれど、屋敷の外では、日々死の恐怖と寄り添って生きている人々がいる」
彼女がそう言って私の目を見据えたとき、私は圧倒されていた。
「修道士さま。わたくしは恵まれないすべての人々のために祈りたいのです」
マリエラ・カザリーニは魅力的な容姿を持っているだけでなく、知性にも恵まれている。彼女は自分が欺かれることも、利用されることも決して許さない。私は彼女のその生存本能ともいうべき気迫に圧倒されていたのだった。
下手な小細工はきっと見抜かれる。私は単刀直入に訊ねることにした
「以前のあなたは敬虔な信徒ではなかったと聞きました。日々の礼拝すら疎かにされていたとか」
「ええ」
「それがなぜ、突然修道女を志そうと思ったのです?」
こうした指摘も予期していたのだろう。案の定、彼女は余裕を見せた。
「父から婚約のことを聞いて、わたくしの心は大きく掻き乱されました。なんとか落ち着きを取り戻したい。このこと――つまり自分の将来ときちんと向き合いたいと考えた時、わたくしには縋れる者が誰もいなかったのです」
家族にも打ち明けられない。使用人にも醜聞を立てる訳にはいかない。そうして思いつめた彼女の足は、自然と教会へと向かっていたと言う。
「わたくしは祈りました。それまでの態度を改め、今一度わたくしが進むべき道を示してほしいと請いました。すると、光輪を背負いし黒き人影がわたくしの前に現れ、『祈りの道へ進みなさい』という声が聞こえたのです」
彼女はほぅと溜息を吐く。鳶色の瞳は恍惚に浸っていた。
「あの時の歓び……あれほど素晴らしい気持ちは生まれて初めてでした。それでわたくしは確信したのです。わたくしは修道院に入らなくてはならない。そこにわたくしの使命があると」
私は暫し言葉を継げなかった。それくらい、彼女の演技は本物のように見えたのだ。
いや、本当に演技ではなかったのか。今となってはわからないが。
私は唇を湿らせ、意を決して訊ねた。
「あなたには秘めた恋人がいたそうですね?」
「おりましたわ」
「その方への想いはどうされたのです?」
マリエラ嬢は動じない。私の不躾な質問にすら、彼女は微笑んで答えた。
「そのためですわ。わたくしが思い悩み、教会で祈りを捧げたのは」
結局、彼女の前に現れた『光輪を背負いし黒き人影』は――「あれは聖霊だった」と彼女は言った――家も想い人も捨て、信仰に身を捧げるよう説いたのだという。その超常的な体験は、彼女の迷いのすべてを断ち切った。
そう語る彼女の顔は確かに晴れ晴れとしている。
「わたくしの左手をご覧になって。これは教会で天啓を受けたときに付いた痣です。まるで指輪のようでしょう――これこそ、わたくしがイエスさまの花嫁となるよう定められた印なのですわ」
マリエラ嬢の左手の薬指。
ほっそりした指の根元を取り巻くように、赤黒い痣が浮かび上がっていた。
***
私は彼女との面会の内容をルカレッリ医師に報告した。彼は失望とも驚嘆ともつかない表情を浮かべた。
それから数日の間、私は毎日彼女の病室に通い、私たちの信仰や使命について議論を交わした。
彼女は私からの意地悪な問いにすべて真っ向から打ち合った。多少の知識不足は見られるものの、付け焼刃とは到底思えないほど、修道女としての自分のあるべき姿について、しっかりとした考えを持っていた。
「あの天啓を受けてから、わたくし熱心に勉強いたしましたのよ」
私が彼女の造詣の深さを褒めると、マリエラ嬢はそう言って微笑んでいた。
ある日私は、ついに彼女に面と向かって、彼女が直面している危機について持ち掛けた。
「聡明なあなたのことですから、もうお気付きでしょう。お父上はあなたに強硬手段を取ることをお考えです。それが為された場合、あなたはご自身の信仰はおろか、あなたを形作る何もかもを失う可能性があるのですよ」
「ええ。そうでしょうね」
マリエラ嬢は薄く微笑んだ。
「不思議なことをおっしゃるのね、修道士さま。あなたは保身のために信仰を捨てろとおっしゃるの。歴代の偉大な聖人たちが迫害に屈することなく殉教してきたというのに」
「それは、その」
私が慎重に言葉を選んでいると、彼女は小さく声を上げて笑った。
「ああ、そうでした。修道士さまはまだわたくしの信仰が本物ではないと疑っておられるのでしたね。だから、わたくしには信仰のために身を捧げる覚悟がないとお思いなのでしょう」
「……おっしゃる通りです」
「であれば、心配はご無用ですわ。きっとわたくしのことは精霊が守ってくださる。そう、『あの方』はおっしゃいましたもの」
結局、この作戦も失敗してしまった。
「やれやれ……さっぱり尻尾を出しませんね。絶対に恋人と結ばれたいがための演技だと思っていたんですが」
日々の報告を聞き、ルカレッリ医師が溜息を吐く。
マリエラ嬢の父、カザリーニ侯爵からの催促は日増しに激しくなっているらしい。そのためにルカレッリは少々疲弊しながらも、強硬手段を取らずに済む方法を模索し続けていた。
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