マリエラ嬢の奇怪な結婚
祇光瞭咲
第1話 トマゾ修道士による前書き
【 日付無し 】
この患者について、本来私には箝口令が敷かれている。彼女の存在も、この病棟における顛末も、本来明るみに出してはならないものだ。しかし、こうなってしまった今では、もはやそのことを咎める者もいない。むしろ私は、この記録が誰かの目に留まることで、いつの日か事の真相が解き明かされることを願っている。
***
その日、私はルカレッリ医師の執務室に呼び出されていた。てっきりいつものように病棟の患者を順に見舞うものと思っていた私に、彼は言った。
「どうしても
私は咄嗟に浮かんだ怪訝な表情を隠し切れなかったのだろう。
「もちろんです。そのためにこうして来ているわけですから」
と言いつつ、私は不安げに眉を寄せた。
「改めてそうおっしゃるということは……祈りを求めて錯乱している患者でもいるのですか?」
「いえ、いえ。これはかなり特殊な事例で……そう、厳密に言えば、彼女は『患者』ではない。だからこそ、僕らのような病院関係者では都合が悪いんです」
「はぁ」
彼はいつも回りくどい話し方をする。その度に私はそれに苛立ちを覚えてしまう。よくないことだとわかってはいながらも、この時も私は足を揺り動かすことをやめられなかった。
なぜだかルカレッリは廊下を確認しに行った。それから窓の外を。不思議そうに見守る私に向かって眉を下げながら、彼は人差し指を唇に当てた。
「人がいないことを確認していたんですよ。盗み聞きされると困るんでね。これから話すことは極秘なのです――どうか、他言しないと約束してください」
「……わかりました」
これを書くことで私はこの約束を破ったが、当初は一応了承するつもりでいたと弁解しておく。
件の患者はマリエラ・カテリーナ・カザリーニという侯爵家の令嬢であった。さる名家のご子息と婚約している。この結婚はカザリーニ家にとって重要なものであり、誰もが婚姻が円満に成立することを望んでいた。
ところが、マリエラ嬢は突如奇妙なことを言い出し、婚約を取りやめてくれと訴え始めたのだという。
『わたくしはイエスさまにこの身を捧げるつもりです。わたくしの夫となる方は主イエス・キリストのみですわ』
――と。
話を聞き終えた私は、眉間に皺を寄せていた。
「それなら、彼女が連れて行かれるべきはここではなく、女子修道院ではありませんか?」
修道院には様々な理由で貴族の子息令嬢が身を寄せることがある。家督を継げない男子である場合などは健全なものだ。特に令嬢にいたっては、修道院の門をくぐる時点で、表沙汰にできない事情を抱えていることがある。
だが、マリエラ嬢は自ら進んで主に身を捧げんと望んでいるらしい。敬虔な娘ではないか。同じ道を歩む者として、彼女の志を尊重したいと思ってしまった。
しかし、やはりそんな綺麗な話ではないようで。ルカレッリ医師は苦笑を浮かべながら首を振った。
「お父上が承知しないんです。先に述べた通り、この結婚はカザリーニ家の悲願ですからね。マリエラ嬢には何としてでも嫁いでもらわなければ困るのでしょう」
「だからと言って、なぜ聖バシリオに?」
「カザリーニ侯爵は、ご息女が酷い妄想に憑りつかれているとお考えのようです。結婚を前に精神が衰弱し、先のような強迫観念に陥っていると」
私は令嬢に同情の念を抱かざるを得なかった。
「なるほど。女性が結婚の前後で心を病むという話はよく聞きますね。まだ若い娘さんだ。当然のことだと思えますが……」
「ええ、まあ。ですが、本来そういう場合は別のやり方を取るものです。例えば、時間を掛けて婚約者との仲を深めてから契りを結ぶとか、どこか空気のいい田舎へ行って療養させるとか。精神病院に掛かるのは、本当に最後の手段と言うべきでしょう」
「マリエラ嬢はそんなに、その……容体が悪いのですか?」
するとルカレッリは表情を引き締めた。普段飄々としている彼がこんなに険しい顔をするのは珍しく、私も釣られて姿勢を正す。口を開いた彼の声は低く神妙であった。
「カザリーニ侯爵は強硬手段をお望みなのです。ご息女があのような妄言を吐かなくなるならば、どんな手を使ってもいいと」
耳を疑った。
「まさか。精神の問題は無理矢理治療してどうなるものではありません!」
「いいえ」
ルカレッリは私の目を見据えて言った。冷め切った灰褐色の瞳で。
「治療は可能です、残念ながら。精神医学にはあなたがご存じでない強硬的な治療方法がいくらでもありますので」
私は息を呑んだ。
それは、今日まで私がここで見聞きしてきたことだけでも、十分に理解できてしまった。
可哀想にマリエラ嬢は、その『治療』が終わった後も『彼女自身』でいられるかどうか、非常に疑わしい。
緊張した私の胸中を察してか、ルカレッリ医師はパッと表情を和らげた。いつもの彼らしい朗らかな――時には人を馬鹿にしているようにも見える――笑顔を顔に貼り付ける。
「ソレを防ぐためにあなたをお呼びしたんですよ、フラ・トマゾ」
「……私にできることがありますか?」
「もちろん」
彼は内緒話をするように身を乗り出し、口に手を添えた。
「僕はすべてマリエラ嬢の演技だと疑っているんです」
「というと?」
「彼女には秘密の恋人がいるようなんです。さらに気の毒なことに、マリエラ嬢の婚約者はね、相当な醜男なんだそうですよ。性格も粗暴でね。誰だってそんな男に嫁ぎたくないでしょう? だから彼女は修道院に逃げ込んで、本当の想い人と密会を続ける魂胆なのだと考えています」
私は修道院をそんなところだと考えられることに憤りを覚えたが、そう思わせる実態があることも否定できなかった。もちろん、私の修道会ではありえないが。
「それで、あなたは私に彼女の嘘を暴けとおっしゃるのですね」
「ううーん、言い方は悪いですが。まあ、そうです」
私は不承不承ながら引き受けた。
彼女にとって何が最善なのかはわからないし、修道院をそんなことが許される場所だと思い込んでいるようなら、その考えも改めさせなければならない。まずは彼女の真意を聞いて、それからどう対処すべきか考えよう。
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