第3話 急変

***


 そんな日々がいくらか過ぎた頃だった。

 マリエラ嬢の病室でちょっとした問題が起きたそうだ。


「声?」


 私がそのことを知らされたのは、それが起きた三日後のこと。

 ルカレッリ医師は気まずそうに視線を泳がせながら頷いた。


「こうなると思わなくて。隣室から苦情が出るほどでしたが……まあ、自然な行いですから。まだ若い娘さんですし」


 私は顔が熱くなるのを感じた。が、既に彼の失礼な憶測や言動を咎める段階は過ぎていた。


「ありえませんよ。妊娠してから臨月に至るまで、九ヵ月は掛かるはずです。元々恋人と、その、関係を持っていたと考えるのが自然でしょう」

「ありえないと言うならば、現状のすべてがありえないんですよ? たった二日であんな風に腹が膨れ上がるなんてことは」


 信じられないことだった。

 今や、マリエラ嬢の腹部は、臨月の妊婦のように大きく膨れ上がっている。それまでそんな兆候は一切見られなかったのにも拘わらず。

 マリエラ嬢はこの二日間、腹が膨れる痛みに転げ回っていた。

 件の「問題」とは、その直前の夜、彼女の病室から大きな嬌声が響いていたことだった。当然ながら、施錠された個室に外から入れる者はおらず、また侯爵令嬢の非常に個人的な行いであるため、このことが取り沙汰されることはなかったのだが。


「事情が変わりました。三日前というと、ちょうどマリエラ嬢の腹が膨れ始めた時期と一致します。何らかの関係があると見るべきでしょうね」


 ルカレッリは淡々と述べたが、私には理解できなかった。


「ますますもっておかしくなりますよ! たとえ、誰かがマリエラ嬢の部屋に侵入したり、または逢引が行われていたとします。それでも絶対にありえない――」

「考えられる原因が一つだけあります」

「なんです? まさか、呪いだとかおっしゃらないでしょうね」

「――想像妊娠です」


 そう答えたルカレッリの声は強張っていた。私は宥めるよう突き出された手を見下ろして訊き返した。


「想像……なんですって?」

「妊娠したいと強く願っている、または妊娠していたらどうしようと強く恐れる女性に起こる現象ですよ。頭で考えた強迫観念に体が応えてしまうのです。とはいえ、その多くは妊娠初期に見られる症状で留まるので、ここまで明らかに腹部が膨張することは極めて稀なんですが」

「たった二日間で?」

「そこは疑問が残りますね。しかし、今目の前で起きている事象に科学的に答えを出すなら、それしか考えられません」


 彼ははっきり言い切った。

 私はまだ納得できなかったが、かといって他の可能性も思いつかない。私より遥かに専門的な知識を有している医者が言うのだ。受け入れるしかなかった。


「……彼女は、今は」


 私にはそう訊ねるのが精一杯だった。


「陣痛で苦しんでいます」

「陣痛って……実在しないはずの痛みなのでしょう? 助けてあげられないのですか?」


 ルカレッリは溜息と共に首を振る。


「で、でも、彼女の思い込みだと諭すことができれば――」

「無理でしょうね。痛みにのたうち回っているので、話を聞く余裕も無いと思いますよ」


 私は途方に暮れた。

 本当に、途方もない話だ。聖バシリオへの慰問を始めて数多くの患者を見、脳と人体の脅威をいくつも目の当たりにしてきたつもりだったが、これは度を越えている。


「では、どうしたら……?」

「今、出産の手はずを整えています。すべて形式的な処置になるでしょうが、それで彼女も満足するでしょう。いえ、そう願うしかありません」


 私たちは沈痛な面持ちで見つめ合うことしかできなかった。

 静寂の先に、痛みに悶える令嬢の悲痛な叫びが聞こえるような気がした。



***


 信じられないことが起きた。これまでのことよりも、更に理解の及ばないことが。

 マリエラ嬢が赤子を出産したのである。


「そんな馬鹿な……!」


 出産に立ち会っていた看護婦が報告に駆け込んできた時、ルカレッリ医師は立ち上がってそう叫んだ。私は思わず十字を切った。


「信じられません……」

「まったくですよ! 彼女は絶対に妊娠していなかった。赤子はどこから来たというんだ?」


 激昂するルカレッリ。私も興奮していたが、それは歓びによるものだった。奇蹟が起きたと確信していたのだ。


「奇蹟ですよ! 彼女は選ばれた――だから、聖霊によって子を宿したのです」

「そんな馬鹿な話があるか! 僕は認めませんよ!」


 私は動揺する医者を尻目に、看護婦に向かって告げた。


「直ちに修道院長を呼んでまいります。詳細な記録を取っておいてください。あとで大司教に提出して、奇蹟の認定をしていただくことになりますから」


 ところが、そこで私は気が付いた。

 看護婦の顔が蒼白なことに。


「そ、れは……やめておいた方が、いいかもしれません……」


 彼女は震える声でそう言った。


「なぜです?」

「変なんです、赤ちゃんが……」

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