雪の姫

入江 涼子

第1話

  その昔に、雪華せつかという一人の娘がいた。


 雪華は肩に付くぐらいの長さの黒髪に、黒壇こくだんのような瞳が目を引く美しい娘だ。肌も白くきめ細やかでその美貌は年を取ると共に、鮮やかに艶やかになっていく。そんな彼女に求婚の文は後をたたない。今日も、雪華は数少ない肉親である母と一緒に返事を出すか相談していた。


「……雪華や、どなたにお返事を出すつもりじゃ?」


「わらわはどなたにも出しませぬ。もう、母上と一緒で良いと思うております」


「雪華、そんな事では駄目じゃ。ちゃんと相手は決めねばならぬぞえ」


 母は眉をしかめながら言った。雪華は仕方ないと、ため息を堪える。


「分かりました、お返事は書きます故。けど、わらわのお眼鏡にかなう方はおりますまいて」


「……姫や、何を言うのじゃ。かぐやの姫君ではあるまいし」


「では、お返事を書きます故。一人にさせてくだされ」


「仕方ないの、では。一刻いっとき程したら様子を見に来るぞえ」


 雪華が頷くと、母は部屋を出ていく。今度こそ、ため息を大きくついた。


 その後、雪華は文をできるだけ読みながら、返事を出す相手を決めた。三人に最後には絞る。まずは、三位中将の君、次に頭少将の君、最後に弾正尹宮といった順番だ。ちなみに、雪華の家は元は中納言家である。が、父が四年前に流行り病で儚くなり、現在は母と雪華に数少ない使用人達とで細々と暮らしていた。

 雪華が結婚しようにも、財力がある殿方でないとお先真っ暗と言えよう。自身や母達の生活が彼女の肩には伸し掛かっている。もう、雪華とて十七歳。今のご時世では行き遅れも良いところだ。

 必死に頭を働かせながら、殿方へのお返事をしたためていく。なるべく、やんわりとお断りの文を書いた。二通目までは何とかなったが。三通目になったら、頭が痛くなっていた。こんな事なら、代筆を女房に頼むのだったと後悔する。それでも何とか、書き上げた。


「姫様、お返事は書けましたか?」


「書けたぞえ、一通目は三位中将の君じゃ」


「ええ、二通目はどなた宛ですか?」


「頭少将の君で、三通目が弾正尹宮だじょういんのみや様じゃな」


「成程、分かりました。では、お届けしますね」


 雪華は頷くと、脇息に寄りかかる。かなり疲れた。目を閉じたのだった。


 夜になり、雪華は寝所にいた。もう休もうかとしていたが、ふと普段とは違う香りに気づいた。とても甘やかで少し鼻につんとくる刺激的なのが混じった芳しい香り。これは女人のものではない。ましてや、自身のでも。という事は乱入者がいるという事だ。

 雪華は急いで廊下に出る。今は冬なために外は雪が降り積もっていた。足やら手がかじかむし、霜焼けになるだろうが。それでも無理に貞操を奪われるよりはましだ。その一心で雪華は素早く、小袖姿できざはしを降りる。履き物も履かず、裸足で積もった雪を踏みしめた。


(何としても、身を隠さねば。どなたかは知らぬが)


 雪華は足跡があると居場所が分かるのではとも思うが。今は逃げるのが先だ。そう自身を奮い立たせて木の茂みに隠れた。


 しばらくは雪華も寒さや手足の冷えなどを堪えていたが。半刻はんときもすると、さすがにかちかちと歯が鳴る程には体が冷え切っている。腕を撫でさすりながらもあの乱入者が自身を諦めてくれるのをひたすらに待った。早く、中に入りたいが。たく、あんの男子おのこさえ、わらわの寝所に来なければ。そうしたら、今頃はゆっくりと寝られたのに。そう内心で毒づきながら、雪華は背筋を伸ばす。人がいないかを確かめるためだ。目を凝らすと数少ない家人達が自身を探して、歩き回っているのが見えた。

 もう大丈夫だろうか。そう思いながら、立ち上がる。けど、家人達の中に背の高い美男子が佇んでいた。雪華はそれを見て固まる。


(あ、あの公達は。確か、弾正尹宮!)


 雪華はなるべくであれば、避けたかった相手である事に戦慄した。そう、弾正尹宮は顔こそ良いが。名うての遊び人であり、自身が妻として扱ってもらえるかも怪しい。なら、まだ三位中将か頭少将辺りを狙っていたのに。絶望に目の前が真っ暗になる心地になった。


 が、雪華の姿は見えなかったらしい。弾正尹宮らしき美男子は家人に二言三言告げると、そのまま行ってしまう。胸を撫で下ろしながら、雪華は抜き足差し足忍び足で寝所に戻った。まあ、雪を踏む音は聞こえていたろうが。雪華が中に入ると、真っ先に女房の宰相の君が駆け寄って来る。


「まあまあ、姫様。そんな薄着でどちらにいらしたのですか?!」


「……宰相、わらわな。夜這いを仕掛けられるところじゃった」


「なっ、ほんに真ですか?」


「真じゃ、しかも。弾正尹宮様のようじゃな」


「弾正尹宮様ですか」


 宰相の君がぽつりと呟いた。何やら、様子がおかしい。雪華が首を傾げると宰相の君は申し訳なさそうに口を開いた。


「……申し訳ありませぬ、どうやら。北の方様にも内密で弾正尹宮様に丸め込まれた者がいたようです。その者が手引きしたみたいですね」


「そうかや、では。その者にはこの邸を出てもらわねば」 


「私もそのつもりです、姫様に怖い思いを味あわせるなど。言語道断です!」


 宰相の君はそう言って、雪華のすっかり冷たくなった手を取る。温めるためときゅっと自身ので包みこむ。


「……冷たくなってしまわれましたね、早く火桶に炭を入れねばなりませぬ」


「頼みぞえ」


「お任せください」


 宰相の君は雪華の手を引いて、中に入る。火桶に入れる炭をもらいに行った。


 翌朝になるまで、雪華は宰相の君と二人で夜を明かす。なかなかに寝付けない主人を心配して、宰相の君はずっと側にいた。いわゆる宿直とのいをしたのだった。


「姫様、安心なさいませよ。私がお側におります故」


「すまぬな、宰相」


「あんな事があっては眠れぬのも分かります、私にも似たような事がありました」


 宰相の君の言葉に雪華は驚く。それ以上は彼女も言わなかったが。成程なと思う。こうして、深々と雪が降り積もる中で二人は身を寄せ合うのだった。


 あれから、二月が過ぎた。雪華は弾正尹宮は嫌だと母に切々と語る。母も夜這いの一件を聞いていたらしい。割とすんなり聞き入れてもらえた。雪華は宰相とも相談して、三位中将と結婚する事を決める。

 現在は互いに文のやり取りをしていた。時折は中将自身も訪ねて来てくれる。今日は中将がこちらを訪れると先に、文で知らせて来てくれた。雪華は心待ちにしていた。

 文のやり取りをして、会ったりする中で三位中将がいかに穏やかで誠実な人柄なのかを雪華は知った。彼なら、信用できる。そう思わせるものを中将は持っていた。


「……やあ、雪華姫。元気そうだね」


「……中将様」


 雪華は衵扇で顔を隠しながらも中将を見やる。今は几帳越しで会っていた。


「もう、そろそろ実名で呼んでほしいんだが」


「分かりました、冬霧ふゆき様」


「では、私も雪華と呼ばせてもらうよ」


 三位中将もとい、冬霧は笑いながら几帳を横にずらす。雪華は後ろに退がりながら、距離を取る。まだ、殿方に近づかれるとあの夜を思い出してしまう。けど、冬霧はそっと彼女に近づき、側に座る。


「……ごめん、怖がらせるつもりはなかった。そんなに怯えなくても良い」


「……冬霧様、申し訳ありませぬ」


「謝罪は良いよ、ただ。男子にも慣れないと、あなたが困る事になる」


 冬霧はそう言って、雪華の髪に優しく触れた。ひんやりと滑らかな手触りがして冬霧は少しだけ、驚く。それでもゆっくりと撫でる。


「雪華、少しずつで構わないから。せめて私には慣れてくれないか?」


「分かりました、冬霧様を信じまする」


「ありがとう、無理強いはしないと約束するよ」


 冬霧はそう言って、雪華の髪を撫で続けた。夕闇に空は染まっていた。


 また、一月が過ぎた。雪華は冬霧とは一段と仲を深めている。もう、抱きしめられるくらいなら大丈夫になっていた。母も結婚の準備に余念がない。雪華も自身で露顕の儀ところあらわし用の衣装を縫っていた。もちろん、冬霧用のもだ。一人で仕上げるのは大変だが、やり甲斐はある。


「雪華や、そろそろ少しは休んだらどうじゃ」


「母上、ここを仕上げたら休みまする」


「ほんに、そなたは無理をし過ぎじゃ。たまには肩から力を抜きなされ」


 仕方なく、母に言われて雪華は縫い物の手を止めた。針山に針を刺してから、女房に途中の衣装を手渡す。そうすると母に向き直る。


「雪華、中将様と順調のようじゃな。母は安心しました」


「けど、まだ正式な夫婦ではありませぬ」


「それでもじゃ、中将様とは早めに婚儀をする。そのつもりでいなされ」


 雪華は驚きながらも頷く。母はにっこりと笑う。


「では、邪魔をしたの。ゆっくりと休むんじゃぞえ」


「分かりました」


 雪華が再び、頷くと。母はゆっくりと立ち上がる。居所へと戻って行くのだった。


 三月が経ち、とうとう雪華は冬霧と婚儀を挙げた。冬霧は雪華と初夜を済ませると、すぐに後朝の文を送ってくれる。もちろん、雪華からも返事を書いたが。無事に三日夜の餅の儀式や露顕しの儀も済んだ。

 こうして、二人は正式に夫婦になる。後に、雪華は冬霧との間にたくさんの子宝に恵まれた。夫婦仲も良かったという。

 そう古い歴史書には記してあるようだった。


 ――完――


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