人生難有り

人生難有り

 ギュッ、チャリンッ。ギュッ、チャリンッ。グッ。ピピッピー。ガロガロ、ガシャンッ。

 駅構内の自動販売機から手に取ったのは、髭を雄々しくたくわえる”彼”が載る缶コーヒーだ。

 無表情で持ち出してみると、存外冷たいのに気づく。指先から体温が奪われる。プルタブに指をかけ飲み口を開けようとするが上手く爪がかからず苦戦してしまう。ようやくの思いで開けた口を唇に運び、なんとも形容し難い、ほのかに苦い匂いの液体を一息に流し込む。  


 「こんなに苦かったのか、ふっ物好きだね」


 ぽつりと呟いた後には、体内の体温は一気に下がるのを傍目で感じていく。

 ふと、横目に、駅のホームからのびている線路の先端がぼんやりではあるが映る。名の知らぬ連峰を抜ける、ずっと先。いまだに、紺色と茜色の境界線は溶け合うが、未だにどちらかの陣地を広げるかで喧嘩している。今が朝なのか、それとも夜なのかはとんと見当がつかないが、なんとなく「黄昏」という言葉が降りてくる。時間は不安定でありながら、どこか安心感を与えてくれる。

 さながら、布団にくるまった赤ん坊のように。 

 さながら、眠りにつきそうな微睡みのように。

 ただ、私は知っている。知識としてではなく、経験として。安心の背後から突如鈍器をふりかざしてくる奴のこと。

 『不安』を。

 不安は黒の天幕。私の思いを跳ね除けては、急速に、残酷に、冷徹に、そしてスキップよろしく軽やかに私を覆い包まれ場所を見失わせる。立っている場所から地面が無くなり宙ぶらりん。駅のホーム、黄色の線の内側に一人立つ私の全ては、宇宙に放り出されてしまった宇宙飛行士と同じになる。手の感覚がなくなる。

 「役目」を終えた私はどこへ行くのだろう。

 改札を抜ける時にあったはずの諦めは少しずつ少しずつ綻び、そして、後悔へと錆び付いていく。潤滑油の足りなくなった機械仕掛けの人形は捨てられるのを待つばかり。

 真っ白な髭を指で撫で、心を落ち着かせようとするのだけれど、それも虚しく過ぎ去る。身体が震え、次の瞬間には、湧き上がる衝動に勝てなくなり、果たして固く封じていた言葉がどろりどろりと黒の液体のように粘度を持ちながら口からゆっくりと出てきていた。


 「私の人生は、良いものだったのだろうか。本当に満足できるものだったのだろうか。これまでのことも、これからのこともわからない。わからない。答えが欲しい。私の結末の答えをどうか」


 おおよそ、独り言とは言えないそれは、誰にも抱かれることのない言葉。私は、死後の世界でようやく、感情があふれる。すがりつくように叫ぶ。声は、ただ哀しくこだまし、自分の内側に残響するのみだった。

 感情を保つ糸は、プツンと音を立てて切れる。

 枯れたと思っていたはずの涙が、ぼろぼろとこぼれ落ち、視界が溺れる。ああ、このまま本当に溺れて何もかも考えずに終わりたい。存在を消え去りたい。私が狂う前に。気持ちの暗礁に乗り上げるは一隻。

 間も無くして、ひょこっと、現れた。自動販売機の影から10歳前後の少女がこちらにツカツカやってくる。突然の少女の訪問に、私は身体を硬直させる。


「お嬢さん、、、君は」


 やっとの思いで出た言葉は短かった。少女は、優しい表情のまま首をゆっくりと二回縦に振るだけである。

 肩を優しくトントンと叩き、ゆっくりと口角を上げる。


 「大丈夫。おじいさんがたくさんの人を笑顔にしてきたこと、またそれを望んでいたこと私は見てたよ。天晴れだった」


 晴天を貫く、向日葵のような笑顔の少女。一息あけて、眉を八の字にし困り顔になる。


 「だから」


 少女の目は潤んでおり、雫が溢れた。


 「認めることを許してほしいの」


 その少女の姿は、初めて私のところにやって来た少女に似ていた。初めて会ったであろう少女の言葉は何故か心を満たしていく。

 私は誰かに認めてほしかった。誰かに役に立ったと言ってほしかった。だが、それ以上に大切なことに気づく。

 私は私の存在を認めたいことに。

 昔日。人々の表情が頭の中から溢れ出る。帽子が少し大きい7歳の少年。浅黒く焼けた部活帰りの高校生。仕事終わりのサラリーマン。老夫婦。みな、良い顔だった。

 存在が克明に浮き上がり、そして、雨は上がる。

 残涙でくしゃくしゃになった顔で笑顔をつくり言った。


「君の言葉を胸に刻みこもう。ようやく、私の人生を認められそうだ」


 脱力と共に自然と口に出た。

 茜色と薄橙色の世界がそこには広がっている。

 


 夜が明ける。

 


 しばらくすると、雲を突き抜ける光が私の身体全てに降りかかり、桜の歩幅で、淡く消えていく。光の泡と共に。


「有難う」


 一息溜めて言う。


「来世も笑顔が溢れる世界でありますように」


 彼は、最期に笑顔と一筋の雫ともに消えたのだった。


 そこには、長い長い歴史を刻んだであろう古びて電源の落ちた自動販売機「のみ」が静かに佇んでいる。


 「お勤めお疲れ様でした。どうか、どうか来世でも、ご達者で」


 自動販売機に手をそっと添えて、そう言うと少女は、駅のホームの階段をコツコツと降りていく。

 延々と続く、赤錆びた線路には、優しい朝日が差し込んでいるばかりだ。

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