赤い蕾と青の花

燿羅

赤い蕾と青の花

        赤い蕾と青の花

 

 

 「お願い——。お願いだから私にを引かせないで。」

 

 願っても叶わない、叶うわけが無い願いがある事をこの時少女は、初めて知った。決して交わる事の無かった二輪の花。不興ふきょうの渦に飲み込まれ交わってしまった二輪の花。

 これから語られる一つの物語はお互いに名も知らぬ少女二人の間で起きた惨劇、たった五分間の間に起きた出来事である。

 とあるビルの六階。十八歳の少女が持つには相応わしくない冷たくて大きなその

 少女は物音一つ立てずに移動し部屋にあるベランダの窓を開け、うつ伏せになり道具を右肩と両腕で支えた。そして道具の上部に付いている、スコープを静かに覗き込む。息を止め、ただ一点を見る——。

 目標が現れるのを餌に餓えたけものの様に、ただ静かにその時を少女は待っていた。

 左肩に身に付けていたトランシーバーから無線が入る。

 「1833前哨狙撃兵ぜんしょうそげきへいこちら偵察部、目標、アンズタワーの中庭にて、目標を視認おくれ。」

 少女はトランシーバーからの無線の内容と自分の目を疑った。

 「て……。偵察部ていさつぶ、目標を視認しにんおくれ。」

 「別令べつれいあるまで待機おくれ。」

 「了解。」

 今まで人を殺める事をよし思わぬまま、その少女は何人もその手で、その道具で殺めて来た。

 国の為。

 国民の為。

 仲間の為。

 そして自分の為に。

 だが、本当は誰一人として殺したくは無いのだ。それは一人を殺そうが二人、三人殺そうが変わらない。慣れたりなんてしない。少女は狙撃手スナイパーとしての腕は優秀だったが、狙撃手スナイパーにとって致命的な事が一つあった。そう——。

 

 十八歳の少女には心があったのだ。

 

 しかし今——。そんな心を踏みにじるかの様に、まだ若い少女の前に現れたのは、その彼女よりも更に幼いもう一人の少女の姿だった。

 人形の様に小柄な体で、遠目から見れば、薔薇ばらの茎よりも細く見える貧弱な手足。その今にも枯れ朽ちてしまいそうな右手で、純白とムスカリの花柄が刺繍ししゅうされてあるワンピースの裾をただ、強く、強く、精一杯強く——。

 小さな拳を震わせ握っていた。顔は酷く歪み無数の涙が、瞳から流れ落ちあごの先で渋滞している。この理不尽な世界に産み落とされて十年も経っていないであろう少女。幼い——。

 

 あまりにも幼すぎる——。

 

 そんな少女が何故、一人の狙撃手スナイパーから狙われ、大勢の武装をした大人達に包囲されているのか——。それは、少女の酷く歪んでいる泣き顔を見ると同時に自然に視界に入って来た、ムスカリのワンピースに似つかわしく無い

 そこにあっては決してならない異物。

 その異物は少女の小さな胸から背中、肩にかけて気色悪きしょくわるく絡みついている。そして——。その異物から伸びて来ている。分厚くミミズの様な触手は少女の左腕へと絡みついている。

 その触手の先端部分が、左手の人差し指に指輪の様にはめられていた。少女と少女の距離は五百メートル程離れてはいたが、彼女が覗く八倍スコープにはそれらが鮮明に確認出来た。

 彼女の背後から、聞き慣れた声がした。

 「あやめ、準備は出来ているか。」

 「…………。」

 「…………。」

 「     」

 「おい。」

 「——はい。大佐。どんな任務も入隊時から準備出来ています……。」

 「よし。CPからの命令は。」

 「——いえ。まだありません指命です。」

 「お前、動揺しているな。」

 「      」

 「いいか、私情しじょうを捨てろと前にも言ったはずだ。忘れたか。」

 「いえ——。忘れてなどいません。」

 

 「よし。今回の任務をもう一度頭に入れておけ、1807頃、アンズタワーの一階にてテロリストによる襲撃しゅうげきがあった。奴らは目的が明確に分かっていない、恐らく、自分達の存在を世に公表する為であろう。奴らは人質を三十六人取りその内の男性二人を銃殺した、その後、1830動きがあり残り三十三人の人質を中庭付近の一ヶ所に集めた。そして一人、残されたのが1845に確認出来た、体上部にベスト型爆弾を装着した推定七歳の子供だ。爆弾の形状はスタングレネードとは違うが栓抜きタイプになっており、栓を抜けば五秒もしないうち爆発を起こし、タワー一階が吹き飛ぶだろう。そうしたら、子供と共に三十三人の犠牲者が出る。その栓は今、子供の左手人差し指にかかっている。いいか、これ以上国民に被害を加えるな。怪しい動きがあれば子供でも射殺しろ。」

 「大佐。特殊爆弾処理班とくしゅばくだんしょりはんはどうなっていますか。」

 「すでに着いている。が、容易よういに近ずく事は出来ない。CPからの命令を待機中だ。」

 「……。あの女の子はおどされているのでしょうか。」

 「恐らくな。詳しくはまだ分からん。」

 その時、再び無線が入って来た。

 嗚呼ああ五月蝿うるさい。

 「前哨狙撃兵こちらCPおくれ。」

 巡回しているヘリの音、周りの様々な雑音。

 「CP、前哨狙撃兵、おくれ。」

 トランシーバーからの音でさえ耳障り。

 「目標、爆弾装備子供、頭部。」

 「      」けれど、その言葉を聞いた途端、静かになった気がした。

 「繰り返す。目標、爆弾装備子供、頭部。おくれ。」

 「も……。目標はまだ幼き子供——少女です!頭部を撃ち抜く事など出来ません!射撃の可否かひを問う!」静寂を破った彼女の肉声は怒りとかなしみが混じり合い叫ぶ様に発せられた。

 「前哨狙撃兵、これは命令だ。必ず頭部を狙え。」

 「脚部ではいけませんか。」

 「いな、脚部では着弾したと同時に栓を抜かれる恐れあり。頭部ならその心配無し。」

 そう最後に言い残し無線は途絶えられた。

 「残酷だが従うしか無い。分かったか。」

 「大佐……。私——。分かりません。」

 「何故、この先の時代を築く未来の申し子を消さなくてはいけないのですか。何故、あのか弱い少女なのですか。なぜ、救ってあげられ無いのですか!わ、私——。私……。分かりません——。」

 彼女の声は次第に強くなり、徐々に花が枯れていくように小さくか細くなっていった。

 そこにいる、スナイパーライフルという道具を使いこなす彼女も、目の前にいる子と同じく、少女なのだ。

 「やはりお前は分かっていない、餓鬼ガキのままだ。」

 「大佐——。私、今、一つ分かった事があります。」

 「なんだ。」

 「私この仕事向いていません。」

 「多くの命を奪って来たその腕を持ちながら、自分はこの職に向いていないと言うのか。」

 「——。」

 それは、一瞬の事。彼女は大きな手で胸ぐら掴まれ、両足が浮きそうになる。鬼の形相けいそうで睨みつけている燃えるような瞳と、何があろうとも揺らぐ事のない決意の瞳が、そこで重なり合う。

 「貴様——。いい加減しろ。貴様は黙って目の前の目標をに集中して任務成功させればいいんだ。一人のガキの命と、三十三人の命を天秤てんびんにかければ答えは一つしかないだろ。それか、なんだ、俺にその顔が変わるぐらい殴られここで死にたいか。決めろ、決めさせてやる。」

 それは、当然の様に分かり切っていた事。曲げられぬ運命。

 運命うんめいという漢字は、『はこいのち』と書く。彼女は今まで数え切れないほど運んできのだ。

 命を——。

 あの世に——。

 もう、どの命を取っても、あの世に運びたく無い。殺したく無い。傷付けたくは無い。

 これを最後にして——。

 「決めました。」消して彼女は涙を流さない。

 「私は……。」何故なら。

 「少女を撃ちます。」あの少女の涙を止めてあげたいと思うから。自分が泣いていては、いけないと。

 「やっとか。」

 「ただし大佐、お願いがあります。私からの最初でのお願いです。」

 「最後だと。」

 「はい。あの子を射撃し、弾が頭部に着弾したと同時に私を軍から引かせてください。」

 「軍を辞めてどうする。お前には何も残らんぞ。」

 「やらなければいけない事が残っております。少女のご家族様に一生の謝罪と、賠償金ばいしょうきんを払うが為にこの身体が壊れようとも働き続けます。後、今まで命を奪ってしまった方々の遺族様に謝罪をしに参ります。私がやらなければいけ無いのです。」

 「それと——。もう誰一人として殺したく無いのです。」

 「そうか。分かった。ただし、任務を成功させたらだ。自分で言った事だ、守れ。」

 「——。了解。」

 それから彼女の中ではまた、静寂が続いた。トランシーバーからの音だけが残る。

 「1837、こちら偵察部、前哨狙撃兵、射撃命令を下す。五秒前、おくれ。」

 彼女のボルトアクションライフルを扱う手は繊細かつ滑らかで無駄がない。まず、マガジンに7.62㎜の弾丸を込めライフルに装填する。安全装置をFの文字に合わし、下にさがっているボルトハンドルを上にあげ、後ろに引いて前に押し戻し、最後にボルトハンドルを下げる。コッキングの鈍い鉄の音が鳴り響く。

 バットストックを右肩に押し当て、左手でフォアエンドを支え右手をトリガーに当てる。

 「了解。弾込め良し、安全装置良し、標準良し。」無意識に発した言葉。

 彼女は撃ちたく無いと、殺したく無いと、心の底から思っていながら一切の遅れを取る事も無く、一人の少女を殺す準備を着々と進めていた。そんな自分に、憤りと哀しみと情けなさを感じていた。彼女は疑問に思う——。

 何故、救けを乞わ無いのか、何故、一言『助けて!』と叫んでくれ無いのか。その一言さえあれば、周りの判断も違ったかもしれ無いのに。

 彼女は願う——

 今からでも遅くはない。

 「五秒前。五」

 彼女は願う——。

 どんなに小さな声でも良いから言って欲しい。

 「四」

 少女は願う——。

 『助けて。死にたく無い。』と。

 「三」

 少女は願う——。

 「お願い——。お願いだから私にを引かせないで。」栓とトリガー、同じ物でも、お互いにその重みは違う。

 「二」

 少女は願う——。

 

 撃ちたくない。撃ちたくない。撃ちたくない。撃ちたくない。撃ちたくない。撃ちたくない。撃ちたくない。撃ちたくない。撃ちたくない。撃ちたくない。撃ちたくない。撃ちたくない。撃ちたくない。撃ちたくない。撃ちたくない。撃ちたくない。撃ちたくない。撃ちたくない。撃ちたくない。撃ちたくない。撃ちたくない。撃ちたくない。撃ちたくない。撃ちたくない。撃ちたくない。撃ちたくない。撃ちたくない。撃ちたくない。撃ちたくない。撃ちたくない。撃ちたくない。撃ちたくない。撃ちたくない。撃ちたくない。撃ちたくない。いやだ。厭だ。厭だ。厭だ。厭だ。厭だ。厭だ。厭だ。厭だ。厭だ。厭だ。厭だ。厭だ。厭だ。厭だ。厭だ。厭だ。厭だ。厭だ。厭だ。厭だ。厭だ。厭だ。厭だ。厭だ。厭だ。厭だ。厭だ。厭だ。厭だ。厭だ。厭だ。厭だ。厭だ。厭だ。厭だ。厭だ。厭だ。厭だ。厭だ。厭だ。厭だ。厭だ。厭だ。厭だ。厭だ。厭だ。厭だ。厭だ。厭だ

 同じ言葉が頭の中を輪廻する。

 「一」

 少女は願う——。

 何か、神の手違いで軌跡きせきが起こるように。

 人は沈んでいる時ほど【神】という存在もしないモノに頼ってしまう。

 「て。」

 少女は心の中でどれほど叫んだのだろう。喉が枯れ、燃え尽き喀血する程泣き叫んだのだろう。だが、実際に聴こえて来たのは、ビル室内で酷くとどろく、銃声の音のみ——。

 引き金を引いた、右手の甲に水滴が一つ二つと落ちる。自分の意志とは反抗的に、瞳から無数の雫が頬を伝い顎の先で渋滞し、甲に落ちていた。

 「1838、着弾。今。」

 少女の左手人差し指から栓は抜け落ち、腕が下がり、膝が地に着く。少女の表情は冷たく、徐々に固まっていく。そのまま覆い被さる様に顔から倒れて行く。この時初めて少女の肉声が鼓膜に届き、強く響いた——。

 

 「お母さん!——。」と。

 

 

 お母さんへ——。

 お母さん。元気にしていますか。私は毎日元気に過ごしています、心配はいりませんよ。こうして居られるのも貴女とお父さんのお陰です。ここ最近ですが、季節の流れを早く感じます。

 あっちの世界でも今は身を包む様な、暖かな春なのでしょうか。お母さんはよくこの季節になると、カーディガンを羽織っていたのを鮮明に覚えています。あの当時の私でも、色っぽくみやびな女性だと思いました。後もう一度で良いからその姿を、あの可憐な立ち振る舞いが見たいです。

 我儘わがまま言ってごめんなさい。大丈夫、私もう子供じゃないんです。お母さんがこの世を去ってから、今日で十年という月日が流れました。十年も経てば私も立派なレディです。貴女に負けない位、強くて綺麗な女性になります。

 あ、お母さん。勿論、忘れたりなんてしてませんよね。今日が私の十八歳の誕生日とゆう事。ちゃんと覚えていますか。天国でも私の事祝ってて下さいね。

 それではまた今度、御盆休みに来ますね。お父さんにもそう伝えて置いて下さい。二人とも大好きですよ。

                                              

四月十六日  翠より——。

 

 届けたい、伝えたい、届けたかった、伝えたかった、大切な人への想い。その想いを毎年この日に手紙で伝える——。

 少女は読み上げた手紙を二つ折りにし、封の中に静かに収め蓋を閉じた。

 その手紙を香炉こうろの隣に置き、お墓の前で腰を落とし、御線香に火を付けて両手を合わせる。草木の笑い声が聴こえて来そうなほど澄んだ空気と青い空。腰を上げると春風が心地よく通り過ぎ、頬や耳をくすぐる。

 その空間が良く似合う一人の女性。

 絹糸きぬいとの様に細く真っ直ぐな黒鉄の長髪に、何処か懐かしさと温かみを感じる全体的にくすみを帯びているベージュのカーディガンを羽織り、あの日と変わらない、ムスカリの花びらが一つ一つ丁寧に刺繍された純白のワンピースが良く似合う女性。

 そのお墓の前に立っている彼女は、十年前あの事件の渦中かちゅうにいた、か弱き少女——。何も出来なかったあの時の少女だった。

 私、どうしてあの時、ただ震えてる事しか出来なかったの。どうして、泣き出す事も、声を荒げて叫び出す事もせず、ただじっとして震えて殺されるのを待っていたの。あの時の私は、子供ながらも分かっていました。

 

 私——。殺されるのだと。

 

 人は本当の死を目の当たりにした時、こうも簡単に何も出来なくなってしまうものなのかと思いました。。走って逃げ出す事も、一言「助けて!」と声を発する事もままならないのです。まるで自分の体じゃないみたいに動かない、いや、動かせなかったのです。

 私はあの日の事を全て鮮明に覚えている訳ではありません、所々の途切れがあります。でも、忘れてはいけない所は忘れていません。忘れていないと言うより、写真でも撮った様に綺麗に脳裏に焼き付いて離れないのです。昨日の事の様に毎日、思い出します。

 丁度、十年前の今日、四月十六日——。その日は私の八歳の誕生日でした。特別な……。それは素晴らしい日になるはずでした。

 

 

 「お母さん!おはよう!」

 「あら、おはようすい。今日は随分と早起きね、どうしたの?」

 お母さんはいつも笑顔で朝は『おはよう翠』と挨拶をしてくれていました。。見慣れてしまって、それが習慣になって、当たり前になる。一度でも途切れてしまえば、違和感を感じてしまうものです。十年目の今も私は違和感の中で生きています。

 

 「今日はね!早く学校に行くの!だって今日は、私の——。」

 「お誕生日でしょ?」

  私が言い出すよりも先にお母さんが言ってくれた。お母さんは温かく微笑んでいたと思います。この時から私の気持ちは高揚こうようしていました。

 「そう!だからお友達皆に祝って貰うの!」

 「だから早起きさんなのね、今日で何歳になるのかしら。」

 聞かなくても分かっていたと思います、しかし私の口から、私の声で聞きたかったのでしょう。

 「はっさい!」左手を大きく広げ五の数字を作り、右手で人差し指、中指、薬指で三の数字を作る。その小さな数字をお母さんに自慢気に向ける。

 「もう八歳になるのね、翠。偉いわ。」

 「私、偉い?」

 「ええ、偉いわ。立派よ。まだまだお子様だけどね。」

 貴女の前ではいつだってお子様でいたい。まだまだ甘えていたかったのです。

 「もぉ、お子様じゃ無いもん!あ、後、ワンピースは!?」

 「勿論、出来てるわ。プレゼントがワンピースでいいの?」

 「うん!これがいいの!今日の夜はね!お母さんが作ってくれたこのワンピースを着てご飯に行くの!お父さんどんな顔するかな?」

 お母さんは洋裁ようさいを趣味とし、よく洋服を作っていました。自分で着る用のカーディガンなどは自分で編み、作る様にしていました。なので私は誕生日の日にお母さんに手作りの洋服が欲しいとお願いしたのです。

 そのワンピースは純白に染まったフリル生地のワンピースで、肩や胸、腰にかけて裾の方まで、繊細に、鮮明に、ムスカリの小さくて可愛らしい、なのに哀しげなあおい花びらが刺繍されていたものでした。とても愛らしく綺麗なワンピースでした。

 「お父さん、きっと驚いた顔して、鼻の下を伸ばしてるわ。」

 「可愛いって言ってくれる?」

 「勿論よ。」

 私は照れ臭くなり急いで学校に行く支度をしたのを覚えています。それに合わせて、お母さんも私のお弁当を急いで作ってくれました。

 「今日の夜はお父さんが奮発ふんぱつして豪華なディナーを食べに行くんだから学校が早く終わったら直ぐに帰って来るのよ。」

 「すっごく楽しみ!でも、食べれるかな?」

 「大丈夫。心配要らないわ。それにしっかり食べなくちゃいけないから、お弁当の中は少なくしておいたわ。」

 「えぇ!お腹空いちゃうよ……。」

 お母さんはくすりと笑い——。

 「翠、空腹は最高の調味料よ。お腹が空いている時に食べる美味しいご飯は、さらに美味しく感じるの。」

 「ほんと?」

 「本当よ。お母さんが嘘ついた事があった?」お母さんはこの日まで私に嘘をついた事がありませんでした。

 「分かった!え、じゃあ、帰って来てからのおやつもなし?」

 「そうね、今日はお預けね。我慢出来る?」

 「はぁい。」本当は一日の中でとても楽しみにしていた学校帰りのおやつ。

 私の家では、ほぼ毎日の様におやつが用意されていました。ふわふわなドーナツや、瓶に入っているプリン、メロンの形を模様した容器に詰まっているアイスクリームに、少し大人の味がするチョコレートなど、日によって異なるおやつが用意されていたのです。今思えばかなりの贅沢で裕福な家庭だったと思います。

 「お利口さんね。ほら、早く行かなくちゃいけないんでしょう?」

 「あ!もう行く!」

 「気おつけて行くのよ、走ったらだめだからね。」

 「分かってるよ!行ってきます!」

 ランドセルを勢いよく背負い、お弁当が入った袋を右手に持ち靴を履いて玄関を飛び出しました。後ろを振り返ると「行ってらっしゃい。」と手を振るお母さんの姿。走らないと言いながらも無意識に足を早く動かして、学校へと向かいました。

 

 あの日は薄い雲に覆われた曇空でした。眩しい太陽が顔を覗かせる訳でも、身を濡らす腹立たしい雨でもありませんでした。ただ、春の気候にしては少し肌寒く感じるそんな一日の朝でした。

 学校までの通学路は桜並木を通ります。桜という花は面白く、私は天候によって色んな顔になる花だと思っています。女性で言うならばお化粧でしょうか。お日様からの子守唄が聴こえて来そうな暖かな日は、ほんのりと色っぽく、桜色の薄いピンクのファンデーションや淡紅色たんこうしょくのリップを少し濃いめにあしらい、だいだい色のアイシャドウを馴染ませている全体的に明るいお化粧をしています。

 女性や桜の花びらを散らし、おめかしの邪魔ばかりをする憂鬱の雨の日は、透明感のある薄地でリップと目元のアイシャドウは同じ色で揃えた、天色あまいろで今にも凍え切ってしまいそうな寂しい薄化粧をしています。

 雲が空全体に広がっている曇天どんてんは、自分を美しく飾り立てる事に興味を無くした様に何も手を加えず地肌を休ませている様に思えました。でも私は、そんな曇の日の桜が一番好きです。女性も桜もいわゆる『すっぴん』が一番自分らしく綺麗な姿だと思うからです。

 「おはよう!桜さん!今日も綺麗ね!」なんて独り言を言いながら並木の中を走っていたのでしょう。

 

 学校に着いてからは、仲の良いお友達から沢山の祝福とプレゼントを頂きました。国民的アニメキャラクターのタブレットやストラップ、黄色くて赤いお服を着たクマさんのぬいぐるみ、とても使いやすそうな鉛筆と消しゴムなど——。

 私はとても嬉しくなり、大きな声で一人一人に「ありがとう!」と感謝の言葉を叫びました。もしかしたら嬉しさのあまり泣いていたのかも知れません。あまりにも大きな声を出していたものだから、教室に入ってきた担任の先生、藤本先生に怒られてしまった記憶があります。その時は少し気持ちも沈んでしまいましたが、嬉しくて楽しい。この気持ちに勝るものではありませんでした。

 その後は、授業も時間通り進みお昼のお弁当の時間になり、お友達皆で勉強机を動かして向かい合わせにしたり、隣合わせにしたりして、お喋りをしながらお弁当を食べていました。この時間も幸せに包まれていてとても心地のいい四十五分間でした。特にこの日はお弁当の中身も少なく、皆より先に食べ終わってしまいましたが、その分いつもよりも沢山お喋り出来ていたと思います。そして四十五分という長いお昼休みも一瞬にして終わりを迎え、次の五時間目の授業が始まろうとしていました。急いで片ずけをして、教科書やノートの準備をし授業を受けました。

 

 五時間目、六時間目と授業を受けて下校する時には十六時を回っていました。私はお友達からの遊びのお誘いを全て断り「また今度遊ぼうね!」と、それがいつになるかなんて分からない約束をして、足早に学校を去って行きました。

 この時の私は高揚した気持ちが溢れ出ていて、お歌なんかを唄いながらスキップをして家に帰った事だと思います。

 帰りの学校から家への道も行きと同じ桜並木を通って帰ります。夕暮れ時の桜はまたより一段と美しく、大人っぽくてとても力強い魅力的なオレンジメイクをしている様に見えました。でも、この時の私は桜よりも、ムスカリのワンピースの事で頭が一杯でした。早くあの綺麗で愛らしい素敵なワンピースを着たい。私のワンピース姿をお母さんに見せたい。お父さんに見てもらいたい。私だけのドレスにも見えるワンピース。それを着て家族三人でいつもより贅沢なディナーへ。

 頭の中でそんな素敵な想像ばかりしているうちに、いつの間にか家の前まで帰ってきていました。

 「ただいま!」玄関の扉を勢いよく開けて、直ぐにお母さんの元へと向かいました。

 「おかえりなさい。翠。」お母さんはもう出掛ける準備をしている最中でした。

 「私楽しみ過ぎて早く帰ってきたの!」

 「確かに。いつもより早いわね、お友達の皆はからはどうだったのかしら?」

 「いっぱい!いっぱい!お祝いしてもらったんだ!」

 「よかったわね。」お母さんは微笑んでくれていました。

 「プレゼントも沢山貰ったの!」両手には貰ったプレゼントが入った袋を持ってお母さんに自慢気に見せました。

 「あら、そんなにも。これは頂いたお友達にお誕生日の時お返しをちゃんとしないとね。皆にきちんとお礼を言えたかしら?」

 「私ちゃんとありがとう!って大きな声で言えたよ!ちょっと怒られちゃったけど……。」

 お母さんはくすりと笑い、私の頭を撫でながら「それだけ大きな声で伝えられたのね。偉いわ。」と、私を褒めてくれました。この時のお母さんの優しい手の感触がまだ頭に残っている様な気がします。私は褒められるとどうしても照れてしまい話をらしてしまう癖がこの時からありました。

 「は、早く私ワンピース着たい!」

 「急かさないで、分かったわ。じゃあ、翠の部屋のクローゼットの中にハンガーに掛けてしまってあるら持って来てくれる?」

 「私の部屋にもうあるの!?」

 「ええ。」

 「やった!直ぐに持って来るね!」私は二階にある自室に大急ぎで向かう為に階段を走って駆け上がり、そのままの勢いで部屋に入ってクローゼットの扉を開けました。ずっと楽しみにしていたお母さん手作りのワンピースが、醜いしわ一つとしてない完璧な状態でそこにはありました。私はそれを、木の巣から落ちてしまった鳥のひなを優しくすくい上げるかの様にそっと持ち上げ、丁寧に丁寧に一階のお母さんの居る部屋まで持って行きました。

 「お母さん!持って来た……よ。」私がワンピースを持って来た時お母さんは全ての支度を終えた所でした。その姿は普段よりも更に麗しく、可憐な容姿のお母さんがいました。私は素直にその姿に見惚れてしまいました。

 髪をローポジションできっちり結ばれたシニヨンになっており、服装は、首を暖かく包むハイネック状で、肩から少し切れ目が入っている半袖のフレアロングの常闇とこやみ色に染まっているワンピース・ドレス。

 何処か温かみを感じる深い色合いを出しているココアブラウンのショートニットカーディガンを袖を通さずに肩にかけていて、使い込まれたダークブラウンの革の腕時計をし、首元には翡翠ひすいのネックレスを光らせていました。そして後から気付いたのですがお母さんはこの日化粧をしていませんでした。それでも息を飲むほど美しかった事を覚えています。

 そうやって見惚れている私にお母さんは「そんなにじろじろ見てどうしたの?お母さん何か変?」と聞いて来ました。私は直ぐに我に帰り、こう答えました。

 「いや、違うの……!お母さん、あまりにも綺麗だったから、見入っちゃって!」そう答えるとお母さんはまた微かに微笑みながらこう続けました。

 「翠も今からお母さんなんかよりも、もっと綺麗になるわよ。今日の主役は貴女なんだから。」

 「え、私、お母さんより綺麗になんかなれないよ!」

 「大丈夫。翠は元々が綺麗な顔をしているんだから、そこに少しおめかしをするだけで、お母さん何て直ぐに超えるぐらい綺麗になるわ。」

 「ほんと?」

 「本当よ、さぁ翠も着替えて、今日だけは少しお化粧しましょう。お母さんが手伝ってあげるから。」

 「お化粧するの!?私ずっとしてみたかったの!」私はお母さんがする化粧が好きでした、ほとんどと言っていいほど化粧らしい事はしていませんでしたが、優しい乙女色のリップをあしらい、目元には何もせず、肌は軽く下地をしただけの素っぴんに近いお化粧でした。この時から私は『女性の一番の化粧は笑顔』何だと思いました。お母さんは正しくその言葉に似合う女性でした。

 「じゃあ早速、準備しましょう。」

 その後、私は学校の制服を急いで脱ぎ捨て、ムスカリのワンピースをまず頭から被る様に着て、両袖に腕を通した後に背中のファスナーをお母さんに閉めてもらいました。ゆっくりと上に上げられるファスナーの感覚はとても心地よく、ゾクゾクとした気持ちになったのを覚えています。着替えを終えた私は次に、お母さんが使っている化粧台の前に座り、三面鏡さんめんきょうと向かい合わせの状態になり、横にはお母さんが同じ様に椅子に腰を落としていました。鏡の方を見て私は自分が少しお母さんに似てきていると感じていました。お母さんは、病的なまでに汚れの知らない白い肌、日本人特有の限りなく黒に近いダークブラウンの瞳、鼻筋は高く違和感が無く、唇はれたあんずのようのにあかい、整った容姿をしていました。私はそんなお母さんを生き写したかの様に似ていました。所々やはり違いはありましたが、白肌と瞳は本当に瓜二つでした。私はこれを誇らしく思っています。

 鏡を見ながらそう考えていると、お母さんも私と同様に鏡を見ていました。しばらくしてからお母さんの口が開きました。

 「翠はお母さんに似たのね。」

 「え——。私も今ね!同じ事考えてた!」

 「あら、考えてる事まで似たのね。」

 お母さんはくすくすと笑いながら、腰辺りまである私の髪をクシで丁寧に流していました。そう言われて私は、少しでもお母さんに近づけた気がしました。

 「翠、貴女あなたの髪、本当に綺麗ね。お母さんなんかよりもずっと長くて艶があって綺麗だわ。」

 「本当?髪の毛は毎日お母さんが洗ってくれてるんだもん、綺麗に決まってるよ!」

 「そうかしら?これは髪質の問題で、翠が洗っても艶やかで綺麗な髪になるわ。貴女の髪は特別よ。」

 「私も自分で髪の毛洗える様になるかな……。」

 「大丈夫。ちゃんと出来るわ。今日で八歳なんだから帰ったら一人で洗ってみましょう。今日でお母さん卒業ね。」

 「ええ!?今日からなの……でも、分かった!やってみる!」

 確かに、今思えばこの頃の私は髪が自慢でした。当時深く考えてはいなかったのですが、腰の付け根辺りまで伸びた、揺るぎなく只真っ直ぐな汚れを知らない黒鉄の髪。友達や先生、ご近所さんのおばあちゃん達、会う人みんなに「翠ちゃん、綺麗な髪だね。」と褒められていました。褒められるのが、嬉しくて、誇らしくて、やがて大切な自慢の髪になっていたのです。特別な物を使わなくても、お母さんが毎日のお風呂で、丁寧に丁寧に、シャンプーからトリートメント、ドライヤーを欠かさずにしてくれていたお陰で美しい髪を授かり保つ事ができたのです。只一つ特別な物はお母さんの愛情だったのでしょう。この日を最後にして、私はその愛情の大きさを知る事になるとはまだ知らずに。

 

 「ねえ、お母さん。じゃあ私はお父さんと何処が似てるの?」

 「うーん、そうね……。」お母さんは少し考えた後、すぐに答え出しました。

 「元気いっぱいな所ね。」と薄く笑みを浮かべ言いました。

 「元気いっぱいな所?お父さん、ちょっと疲れてる様に見えるけど……。」その頃のお父さんは私には少し疲れている様に見えていました。毎日の仕事。休みの日は週に一日あるかないかのハードスケジュールでした。その一週間に一度の貴重な休日も私の我儘や、お母さんとの時間、家族の時間に費やしてくれていました。それもあって当時の私はお父さんが疲労しているように感じました。

 「そうね——。確かに疲れているかもしれないわね。」

 「やっぱりそうなの?」

 「でもね、お父さんは本当に元気いっぱいなのよ。元気でなければ、毎日のお仕事や、翠やお母さんとお出掛けしたり出来ていないでしょう?」続けて話すお母さんの姿を鏡越しで見つめていました。

 「お父さんは凄く変わった考えをしていてね、『僕が働くからお金の心配いらない。だから君はこの家と翠を守るんだ。僕はこれぐらいの事しか出来ないからね。約束してくれるか?』って、今時男の人だけ働きに出ている方が珍しいのに、絶対お母さんには働きに出て欲しくないみたい。」お母さんの顔は少し困った様な笑みを浮かべ、私の顔を一度目に入れると、一つ息をつけました。

 「だからね、翠。お母さんはそんな不器用なお父さんとの約束をしっかり守らないといけないの。そうじゃないとお父さんが拗ねちゃうから。」

 ねたお父さんの姿を想像したのでしょう、遂に耐えかねてふふっと笑い出してしまいました。お母さんにつられて私もなんだか可笑しくなって同じ様に声を漏らしながら笑顔をお母さんに向けていました。

 「お父さんって拗ねたりするの?」

 「お父さんでも、拗ねたり、いじけたりするものよ。あ、翠、ここでのお話はお母さんと翠だけの秘密よ。」お母さんはイジワルそうに笑いながら頭を手の平で包み撫でてくれました。

 「うん!わかった!秘密ね!」

 お母さんはお父さんに隠し事や秘密を作る様な人では無いとゆうのは知っていました。私と二人だけで外食に行ったり、遊園地やカラオケなどショッピングに行ったりしても、それを一つも包み隠さずにお父さんに話していました。お父さんがそうしろと言った訳ではありませんでした。全てお母さんの意志で楽しそうに話していたのを私は鮮明に覚えています。信頼し合った夫婦——。信頼し合ったと言うより、愛し合っているのだと——。幼いながらもそんなキザな事を考えていました。

 「さあ、後はリップだけね。」

 色んな事を話している内に魔法の様なおめかしの時間も残り僅になりました。私はほんの少しだけ寂しさを感じました。ずっとこのまま——。なんて。

 「私、リップ初めて!ずっと付けてみたいって思ってたんだ!」

 「どの色がいい?」

 そう言ってお母さんは、四種類のリップを目の前に並べてくれました。乙女おとめ色、

 ゆるし色、あかね色、朱鷺とき色の四色。決して多くは無いですが、どれも淡く優しい色でお母さんと私好みの色ばかりでした。

 「これがいい……。」

 「あら、これがいいのね。」私が指を指したリップをお母さんが手に取り、蓋を取って下にあるダイヤルを回しました。私が選んだ乙女色のリップが少しずつ顔を出し始めます。出てくる度に私はなんだか心臓がドキドキして気持ちが高揚して行くのが分かりました。それは、とても美しいリップでした。色としては薄すぎていないピンク、ほんの少し赤味のある可憐で優しい色をしていました。

 「綺麗……。」そう思わず口から溢れ出していました。

 「そう?」

 「とっても綺麗!私この色大好き!」

 「翠は本当にお母さんに似てるわ。私もこの色がとても気に入っていて一番よく使うリップなのよ。」

 そのリップは確かに少し短くなっていました。本当にお母さんのお気に入りの一本だったのでしょう。違うリップに変えようとも考えましたが、私は甘えてそのままにしておきました。

 「じゃあ、つけるわね。」そう言って、リップわ持った右手を私の口元まで運び、軽く、そして優しく下唇に当て、撫でる様にしてラインをゆっくりと引きました。上唇も同様に丁寧にラインを描く様につけてくれました。リップが唇から離れ、お母さんが鏡の前から一歩後ろに下がった時、その鏡には今まで目にした事がない自分の容姿がありました。お母さん手作りのムスカリの花が刺繍されているワンピース、長くそして美しく整えられた黒鉄の髪、お母さんと同じくして殆ど化粧をしていなく、唇に軽くリップをあしらっただけの素顔。たったこれだけのおめかしで、自分でも少しばかりですが、可愛いらしいと思ってしまう程の変化でした。

 「はい。素敵なお姫様の出来上がりね。」

 「か、可愛い……?」

 「ええ。とってもよ。」

 私は、酷く赤面した事だと思います。気持ちが高揚し、嬉しくて、楽しくて、お母さんの愛情に包まれ、そしてちょぴり恥ずかしい。幸せでした。

 この時はまだ。

 

                     四月十六日  午後十七時十分

 

 全ての支度を終えた私とお母さんは、家から最寄り駅に向かう為にそれぞれの荷物を持ち、家を後にしました。私は小さな肩がけバッグに手鏡、ハンカチ、ポケットティッシュを入れていました。お母さんは手作りの革製の手持ちカバンに色々な物を入れて来ていました。幼かった私には何が入っていたのかはよく分かっていませんでしたが、恐らく、私と同様の用品とお財布や、メイクポーチなどが入っていたのだと思います。

 家を出て、十分もしない距離に駅がありました。そこまでお母さんと手を繋ぎ徒歩で向かいました。駅までの道中にも凛とそびえ並ぶ桜並木の中を通って行きます。辺りはもう薄暗く、見える桜の花びらも少しばかり物悲しそうに見えます。しかし、お母さんと手を繋ぎ一緒に見る桜は、夕暮れ過ぎの太陽が眠りに着く時でも、やはり美しく見えました。

 「ねえ、お母さん?お父さんは?」

 「お父さんは先にホテルのレストランに着いているわ。」

 「ホテルのレストラン……?今から向かう所?」

 「ええ、そうよ。オシャレでお城みたいな内装って聞いてるわ、楽しみね。」

 「お城……。うん!楽しみ!」最初は緊張していたのですが、お母さんと桜を見ながらお話して、歩いている内にその緊張も次第に溶けて行きました。そしてあっという間に最寄り駅に到着しました。最寄り駅から目的の駅までは三駅、約十二、三分かかる程でした。駅に到着すれば最終目的地である【アンズタワーホテル】までは、徒歩二分ともかかりませんでした。そのホテルはお母さんいわく、レストラン部分の一階から十階まで全体ガラス張りになっている様で夜は街の夜景が凄く綺麗に見えるのだとか、しかし私は、花より団子、景色よりも食事の方が楽しみで仕方ありませんでした。それを察したお母さんは、

 「美味しいご飯本当に楽しみね。」

 「うん!今日はありがとう!」

 「まだ早いわよ。」そう言って、くすくす笑いながらも左手で口元を抑える姿はとても上品に私の目には映りました。

 

 

                   四月十六日  午後十七時三十二分

 

 アンズタワーホテルに到着した私とお母さんはまず、お父さんと合流する事にしました。お母さんと事前に連絡を取っていたらしく、お父さんはホテル内一階にあるカフェテリアでお茶をしているとの事だったので、早速そのカフェテリアを目指し足を早めました。

 カフェテリアに到着し、中に入ると背の高い顔立ちのいい店員さんがこちらの方を向き「二名様ですか?」と声をかけて来ました。お母さんはすかさず「先に夫が来ていまして、中に背が高く、スーツを着た男性が居ませんか?確か今日は翠色のネクタイをしていたと思うのですが。」

 それを聞いて、店員さんは「ああ、お連れ様で。いらしてますよ。」そう言ってお父さんが座っているテーブル席まで案内してくれました。案内先のテーブル席に一人、林檎印りんごじるしのノートパソコンを開き、コーヒーを嗜む男性がいました。ブラックブルーのスーツを上下に、中には純白のシャツ、翠色のネクタイをした男性。私とお母さんは直ぐに近くに寄り、呼びかけました。

 「お父さん!」

 「貴方、お待たせしたわ。」

 お父さんは、瞬時に私達の存在に気づいた様子で、慌ててパソコンを閉じて立ち上がりました。その様子は今か今かと私達の到着を心待ちにしている様でした。

 「いやいや、僕も今来た所だったんだよ。」

 「相変わらず、嘘が下手ね。翠もそう思うでしょ?」

 「お父さんのカップの中空っぽだよ?」私とお母さんは目を合わせて二人でくすくすと笑いお父さんに目を向けました。

 「二人共、鋭いな……。」お父さんは困った顔をして頭を掻きました。

 「女の勘は鋭いのよ。さ、行きましょう。」

 「そうだな、行こうか。翠お腹はちゃんと空かせて来たか?」そう言いカフェテリアを後にし、同じく一階にあるレストランを目指し家族三人、手を繋ぎ歩幅を合わせて向かい出しました。

 「うん!もうぺこぺこなんだよ!帰って来てからのおやつも我慢したんだからね!」

 「お、偉い偉い。」そう言うとお父さんは頭を撫でてくれました。お母さんとはまた違う、とても大きくて硬い手の平で、それでいて優しく左右にゆっくりと撫でてくれました。そこでお母さんがわざとらしく、こほんと咳払いを一つ付きお父さんに何かアイコンタクトを送りました。お父さんも直ぐにそれに気づいた様子で、

 「それにしても翠、今日のそのワンピースよく似合ってる。メイクも少しして来たのかな?」お父さんがお母さんに促されていたとも知らずに私は、今日の変化に気づいて貰えた事が嬉しくなり、繋いでいた手を離し、大きく前へ一歩踏み出したと同時にくるりと一回転をして、ワンピースの両裾を摘み絵本や物語のお姫様顔負けのお辞儀を、お母さん、お父さんの前で披露しました。

 「お姫様みたい……?」

 「どのお姫様よりも綺麗で可愛らしいわ。」

 「ああ、間違いない。」

 私は、この日の事を一生、絶対に忘れない事だろうと心からそう思い、忘れたくないと願いました。

 

                     四月十六日  十七時四十六分

 

 レストランに着いた私達は、早速中の方に入りスタッフを待ちました。この日は私達とは別に沢山の人達が食事やお祝い事をしている様子で、既に店内は黄色い声で賑わっていました。そうして待っていると、ものの数秒で客席の方から、黒のスーツ姿に身を包んだウェイトレスさんが早足でこちらの方まで歩み寄り、声を掛けてくれました。

 「申し訳御座いません。お客様方、大変お待たせいたしました。」と信じられない程美しいお辞儀をして続けて口をあけました。

 「お客様方、ご予約の方はされておりますでしょうか?」この質問に対してお父さんが答えました。

 「はい。十七時四十五分に三人で予約の電話をさせて頂いた渡瀬わたせです。」

 ウェイトレスさんは、直ぐに大きな予約帳らしき物を広げて確認をしていました。

 「渡瀬様ですね。お待ちしておりました。お席の方ご用意させて頂いております。こちらまで。」無駄な動きが無く、立ち振る舞いや素振り、どこを取って見ても全部がかっこよく見えました。私はお母さんに小さな声で話しかけました。

 「ねぇねぇ、お母さん、あの店員さんすっごくかっこいいね。」

 「そうね。凛としていて、接客も素晴らしいわ。」

 「やっぱり何だか緊張しちゃうね。」

 「緊張しているのは翠だけじゃないみたい。」 

 「え?お母さんも?」

 「違うわ。ほら——。」そう言い、前を見たお母さんに釣られた私は、同じ様に前を見てみると、産まれたばかりのキリンの様に小刻みに肩を震わせている、大きくも、なんだか小さくも見える、お父さんの背中がまなこに映りました。

 そんな姿のお父さんを見かねたお母さんは、お父さんの肩の位置まで近づいていき、耳元で囁く様に——。

 「たける君。とてもかっこよかったわ。」

 「馬鹿。よせ。」

 「お父さん、震えてるし、なんだか顔赤いよ?」実際の所私はお母さんが、お父さんに何を言ったかは分かってはいませんでいたが、照れているお父さんをからかう様にそう言いました。その様子を見ていたウェイトレスさんも、微笑みかけながら、「こちらです。」と、テーブル席の案内を終えました。

 席に着いてからは、驚く事ばかりで、私の頭の中は疑問符ぎもんふで溢れかえっていました。まず、案内された席に座るとき、ウェイトレスさんが椅子を引いてくれた事、見たことも無い空っぽのお皿がぽつんと一つだけ置かれていた事、右と左に沢山のフォークとナイフ、スプーンが用意されていた事、注文に欠かせないメニュー表やベルが無い事など、今までとは違う事があまりにも多く少しばかり困惑していました。それはお父さんも同じ様子で、苦笑いを浮かべて「慣れてないんだ。」と言い鼻をかいていました。

 

                                                              四月十六日  十八時

                                                  

 時刻は十八時丁度になろうとしていました。そこでようやく、一つ目の料理が運ばれて来ました。その時初めて私達が今から口にする物がフランス料理だという事がお母さんから知らされました。

 今、正しく目の前に置かれた料理がアミューズと呼ばれる、お突き出し一品の物で、そこから順番に、オードブル《前菜》、スープ、ポワソン《魚料理》、ヴィアンド《肉料理》、デセール、食後のお飲み物まで続います。

 生まれて初めてのフランス料理。目の前で輝く素敵な料理が一体何で、どの様な食材で、どうゆう風に調理されているのか、皆目見当も付きませんでしたが、見た目と香りが驚くほど素晴らしく、早速マナーも何も分からないままフォークと、ナイフを両手に持ち食事を始めようとしたその時、お母さんから「翠、少し待って。」と、止められてしまいました。

 「先にお父さんからの誕生日プレゼント……。気にならない?」

 

                       四月十六日  十八時四分

 

 「え……。気になる!」その言葉を聞いた瞬間、さっきまで楽しみにしていた料理の事など、どうでも良くなっていました。

 「そうでしょう?じゃあ早速プレゼントを……。」そう言いながらお父さんが下から取り出したのは、とても綺麗に梱包された洋服や靴下、スニーカーなどでした。全て私好みの可愛らしいワンピースなど、嬉しさのあまり大きな声を出してしまいそうになるほどでした。

 「翠、おめでとう。気に入ってくれたかな?」

 「うん!とっても嬉しいし、気に入ったよ!」

 「なら良かった。後、お父さんからもう一つお知らせがあるんだ。」

 「なぁに?」

 「今、お母さんのお腹の中に赤ちゃんがいるんだよ。」

 「翠、お誕生日おめでとう。貴女、お姉ちゃんになるのよ。」

 「お姉ちゃん?」お母さんが何を言っているのか、私は瞬時に理解する事が出来ませんでした。

 「そう。貴女に姉妹が出来たのよ。妹が出来たの。」

 「え、嘘。」信じられませんでした。

 「嘘じゃないんだよ、翠。だから、赤ちゃん用の服や靴も買っておいたんだ。」

 「私、お姉ちゃんになるの?」

 「そうよ。翠はいつか言っていたわよね、兄弟が欲しいって。」そう——。いつかお母さんと話していた会話の中で、私はお母さんに妹か弟が欲しいと、一緒に遊んだり同じ時間を共有出来る兄弟が欲しいと、伝えていました。無い物ねだりとは承知の上で、半分は本気で、半分は冗談のつもりでお願いし事でした。それが今、この瞬間に叶うとは思いもせずに——。

 「お母さん……。ありがとう……。」ここで私は自分上手く話せていない事に気が付きました。溢れ出てくる目からの涙に溺れそうになりながらも、感謝を伝えて仕方のない唇は止まる事を知りませんでした。

 「ありがとう……。ありがとう……。」何度も、何度も、そう言い続けました。

 「よし!サプライズプレゼントは成功だな。せっかくなんだから、美味しいご飯が冷めてしまう前に食べよう!」

 「そうね。ほら翠、もう泣かないの。」お母さんは自分のバッグからハンカチを取り出し、私の頬を濡らす涙の水滴を優しく拭き取ってくれました。

 「もう泣かない。お母さん、お父さん、私今一番幸せだよ!」嘘偽りなく、心からそう思っていました。

 

                      四月十六日  十八時十分頃

 

 レストラン内には、沢山の人達が私達と同様にテーブルを囲い食事を楽しんでいました。当時の私でも軽く視認しただけで、約二十人程は居た様に思います。

 それなのに店内は静かで、雰囲気にあったピアノの音楽がよく聴こえて来ていました。ゆったりとした時間がこれからただただ流れていくはずでした。

 

 突然、それは本当に突然の事でした。耳の鼓膜こまくつんざく程の女性の叫び声が聞こえて来たのです。それは決して喜劇的きげきてきでも歌劇的かげきてきでも無い、過激的かげきてき悲劇的ひげきてきな悲鳴の様に聞こえました。その声の正体知ろうと、悲鳴のした方に体を向けた瞬間、ほんの一瞬だけレストラン内全ての照明が落ち、店内は暗闇に呑まれました。お父さんは直ぐに、私達の心配をしてくれていました。

 「二人とも大丈夫か?別でサプライズでもあるのかも……しれない……。」

 そう、最後まで言い切るより先に店内の照明が全て元の様に輝きを取り戻しました。少し光が眩しく、下を向いてから顔を上げると、お父さんとお母さんの真後ろに全身を黒一色に染め上げた、初めて見る服装をした男か女かも分からない人間が二人立っていました。おまけは両手にはテレビや映画でしか見た事の無い重機を持ちその先端の突起を二人の背中に突き付けていました。程なくして、私自身も同様に姿形も同じ人間にその重機を背中に突き付けられている事に気が付きました。酷く冷たい、人の温かみなど微塵も感じられない動物を殺める為の道具。そう、この時私達は動物同様の存在になったのです。

 「え?」思わず腑抜けた声が漏れていました。背中に今まで体感した事無い違和感を感じたまま両親とその後ろの黒い影を見つめていました。私にはその影が酷く恐ろしい物に見えました。生物の本能的に自分の身体より大きく、更に黒という色は威圧的で底知れぬ恐怖感がありました。人の形を模していながら、人ならざる物、宇宙人や妖怪が現れた様でした。その黒い影は私達のテーブル卓だけではなく、レストラン内全てのテーブル卓に付いていました。私達同様に食事をしていた人達、レストランの店員さん、全ての人に黒い影は付き重機を突き受けていました。途端に店内がざわざわと騒がしくなりました。

 「おいおい、何だこれは。」「なんか始まったぞ。」「びっくりしちゃったわ。」「サプライズ演出にしてはかなり凝ってるな。」「子供が驚いちゃったじゃないの!」「お母さん、何だか怖いよ。」「こんなの予定には無かったはず……。」いたる所から困惑とも、憤りとも、苦笑とも取れる数多の声が聴こえてき、中には私と差ほど歳の変わらないであろう子供の泣き声も聴こえて来ました。一言で言えばその場はカオスそのものになり変わっていました。お父さんは、「サプライズにしてはかなり物騒だな。」と困惑した様子でしたが、お母さんだけは顔を青く染めていました。

 「違う、サプライズや演出なんかじゃ無いわ……こんなのおかし……」とその瞬間、鼓膜に体に振動が伝わる程の破裂音が入ってきました。お母さんの声はその不快な音により一瞬にして掻き消され、次に鼓膜に届いたのは何処からも分からない悲鳴の数々でした。直ぐに破裂音のする方に視線を向けると、そこには目を疑う様な信じられない光景が映し出されていました。黒い影と表裏一体ひょうりいったいの重機の先からは僅かばかりの煙が立っており、そのすぐ下に目をやると見覚えのある服装を身にまとった人がうつ伏せで倒れています。一体何がどうなっているのか全く分からないまま頭の整理をする間もなく、ただその人を見ていると瞬く間に辺りが紅い液体で浸食しんしょくされていきました。ふと全身を見た時自然に視界に入って来た頭部。それはもう頭部の原型を留めておらず、開けた穴からはミミズの様な物体がずるずると顔を出していて、かつては頭部だった『何か』に成り下がっていました。酷くはなを突く鉄混じりの悪臭。床に転がっている動かない肉塊にくかいみみを塞ぎたくなる様な悲劇的な讃歌さんか。腹の底から煮え繰り返り上昇する酸のあじ。背中には極端に冷えた重機と同じ鉄の感触かんしょく。五感全てでその場の異常性を嫌でも感じさせられた。頭の中が真っ白になった。直ぐにでもお母さんの側に行きたかったが脚が、身体が動かせなかった。

 破裂音がしてから少し間が空いてからスピーカー音から男の声がした。

 「皆さん、お静かに。」それはとても柔らかい声でした。

 「皆さんがあまりにもお喋りでしたので、今そこに居たウェイトレスさんには死んで頂きました。」辺りは頭上に悪魔でも通ったかの様に静寂に包まれ、その場にいる全員が声のなる方へ視線を向けました。

 「皆さんお利口にしておいて下さいね。次また勝手に口を開いたり、動く様な事があればそこに転がっているウェイトレスさんと同じ様に頭をこの銃で撃たせて頂きます。」とても丁寧で柔らかい声からは想像もできない様な残虐な言葉の数々。ドラマや映画の中でしか起こりえない様な非現実的な光景。夢?夢の中にしてもかなりタチの悪い惨劇さんげき。夢なら覚めて、眠っているなら無理矢理にでも起こして。そう強く願うが、しかしこれは、紛れもなくこれは現実そのものでした。

 私はただじっとしてお母さんとお父さんを見ている事しか出来ませんでした。お母さんは消えそうな程の微かな声で「大丈夫だよ、心配ないから。」と言ってくれました。そんなお母さんの肩をよく見ると小刻みに揺れてる事に気が付き、そこで初めてお母さんも同じ境遇に立たされているのだと認識しました。お父さんは静かに周りの様子を見ていました。冷静に、誰よりも冷静に、この地獄と化した状況を、打開策や最善策を見出そうと虎視眈々こしたんたんと考察している様でした。同じ方向からまた声がしてきて、「手荒な真似をして申し訳ない、私達は名乗るほどの者でも無いのですが、今回この様な事をしたのには深い理由がありまして。そこにたまたま皆さんが居合わせただけの話なんです。しばらくの間大人しくお利口にしてて貰えますでしょうか?」レストラン内BGMの音だけが鳴り響いていた。

 「ありがとうございます。では、そこのウェイトレスさん。このアンズタワーの支配人さんに二百五十億の現金と飛行機の手配をお願い出来ますか?飛行機は旅客機でも小さなジェット機でも構いませんので。その際にどうせ警察にも連絡するのでしょう、それは別に構いませんがちゃんと支配人さんに今の事伝えて下さいね?もし伝えなければ……。」また耳を劈く破裂音と共に、悲鳴とうめき声が交差した。その矛先に目線を送るとウェイトレスさんが片膝かたひざを突きの右腕で左肩を抑えていました。左肩からは赤い液体が吹きこぼれていて左腕を静かにつたいぽたぽたと床を汚していました。「うう、あぁ、」とこぼれ出るあえぎ。彼自身何が起こったのか理解できていない様子でした。

 「ちゃんと伝えてくれますね?連絡を取れるように左肩にしておきました。でも、おかしな真似をしたら次は頭、いきますよ。」

 「わかりました、直ぐに支配人に連絡して伝えます。」ウェイトレスさんはそう言い残して、まさしく産まれたての子鹿の様な足取りでバックヤードの中へと消えていきました。

 この黒い影は重機を正しく殺しの道具として躊躇ちゅうちょ無く使用する。無抵抗な人でも何のためらいも無い、そこに気色の悪い虫がいたので叩き潰して殺した、踏み潰して殺した、握り潰して殺した、殺虫剤を惜しげも無く吹きかけて殺した、そういった感覚で人間も殺めている。目的が分からなく、何言っているのかも理解出来ない、行動に至っては酷く恐ろしくわかりたくも無い事ばかりでした。それから程なくして支配人らしき紳士服を身にまとい、ダークブラウンの杖を付き、ハット帽を被ったお爺さんが一人でやって来ました。そっとハット帽を取り軽く会釈をし、それから静かに口を開き始めました。

 「皆様。大変恐ろしい想いをさせてしまい誠に申し訳なく思っております。」支配人はまず私達そう言うとに深々と頭を下げました。その後ゆっくりと頭を上げ、黒い影に視界を向けました。

 「あなた方の要件は確かに中井君から聞きましたよ。二百五十億の現金と飛行機の手配でしたね、間違いはありませんか?」

 「はい。その通りです。」

 「心得ました。それではご用意致します。それでは私からこれ言ってお願いと言いますか、約束して欲しいことがございます。」

 「ほう、人質の分際で私達に約束とは。いいでしょう、聞き入れます。」

 「それは大変失礼を。ありがとう。要件は今このレストラン内にいる全てのお客様及びスタッフ全員を解放してやってはくれんか。」これを聞いていた黒い影の一つが「そんな事出来る訳ねぇだろ!」と怒り混じりの声を発しながら木の枝の様にか細い支配人の体を重機で殴打し、倒れ込み際に膝で腹部を強打した。倒れ込む支配人に左肩を撃たれているウェイトレスが駆け寄ろうとした時だった。

 「やめなさい。誰が勝手に手を出していいと言った?」さっきまでの柔らかい声とは全く異なる聞いた事のない低音でそう放った。「も、申し訳ございません。勝手な真似をお許しください。」支配人はかたかたと杖を地面に突き刺し今にも折れてしまいそうな木の枝の様な体をよろよろと起こしていました。

 「来てはなりません!動いては行けませんよ。中井君、私は大丈夫です。」

 「支配人さん、うちの部下が申し訳ない。しかしですよ?先程の要件を受け入れる訳には行きません。この方々は人質なんですから。」 

 「それならば、私一人だけ人質に取りなさい。」

 「話が通じませんね。それでは意味がありませんでしょう?せっかくこれだけ多くの方を人質に取りましたのに、そんな簡単に解放しては勿体ないではありませんか。」

 「では、どうすれば。」 

 「提示した要件を素早く用意して頂ければ。」

 「やはり、それしかありませんか。」

 「あー、それかいい提案を思いつきました、聞きますか?」

 「なんでしょう……。お聞かせ願います。」

 「貴方以外の誰か一人に、ここに居る全員分の人質を肩代わり、つまり背負って頂きましょうか。一人だけを残しその他の人達を解放しましょう。」

 「そんな、さっきとは言っている事がまるで逆ではないか。」

 「私だって鬼や悪魔なんかじゃありません。どうですか?いい考えでしょう?」

 「その肝心な一人って言うのは、どなたになるんですか。何故私ではないのか。」

 「そうですね、まず貴方にはこれからの取引においては欠かせない人ですからね、ずっと拘束しているのも、その今にも朽ちそうな老体には堪えるでしょう。なので、貴方以外の人間、そうですねなるべく若い方がいい。」

 「でしたら、うちのウェイトレスで若い物を一人選びなさい。お客様には手を出さないでくれ。」

 「おやおや。何を勘違いしているんですか、それは貴方達の身内でしょう?勿論、この人質の中から選ばせて頂きます、選ぶのは私ですよ?」

 「そんな、それだけは辞めてはもらえんか。」

 突然、その男が小ぶりの黒い鉄の塊を支配人に向けトリガーと思われるボタンに指をかけた。

 「貴方も男なら聞き分けたまえ。あまりにしつこいと撃ちます。」

 「悪魔め……。」

 「それはどうも。」

 少し間が空いてから、黒い影は私達全体を見渡しました。動物を観察するかの様に、物を物色する様に、隈なく見ているのが肌で感じました。

 「若い男は選択肢から外す、なんせ体力と力がある抵抗され続けると面倒になる。若い女もダメだ、キーキーとうるさいからな殺したくなる。老人は論外。となると子供か。」この会話を聞いていたお母さんは大きく肩を跳ねらせ、私に目線を落としました。声にならない声を出し、口をパクパクさせていました。

 「そうだな。なるべく大人しい子供がいい、うるさくて元気な子供は避けろ、そもそも此処に子供なんて数はしれている、五分以内に連れてこい。争う親は振り払え、最悪の場合親は殺してもいい。」

 そうして、黒い影は一斉に散らばり私達のいるフロアまで侵食し始めました。各場所からの悲鳴ひめいなげき。叫び。願い。様々な不協和音ふきょうわおんがフロア一体を染め上げて行きました。気づけば私達家族のテーブルにも既に黒い影は侵入しており、私の腕を掴もうと暗い手が直ぐそこまで伸びて来ていました。魂でも抜き取られた様に体は動かなくなっており、どうしようもなくただその迫って来る手を見ていたその時「俺達の娘に触るな。」と毎日の様に聞いた声、その声はいつも聞いている優しい声よりも強く声色でした。目線を声の聞こえる方に向けると、黒い影の腕をこれでもかと言う位の力で強く握っているお父さんの姿が眼に映し出されました。しかし黒い影はお父さんの腕を跳ね除け、御構い無しに強引に私の長い黒鉄の髪を文字通り鷲掴わしづかみにして、強く手繰たぐり寄せる様に引っ張りました。

 「おい!やめろ!」「お願いします、私達のだけはどうか……」お母さんの声も聞こえてきたが、いつもと全く違うかなり弱った震え混じりの声色だった。その悲痛の訴えも花びらの様に散り、無残にも届く様子は無く、目の前の現実はただ淡々と過ぎていく。

 「痛い!お父さん!お母さん!いやだよ!」

 「翠!おい、娘を離せ!」再び黒い影に迫る。

 「辞めて下さい……代わりに私が行きますから……」腰に力が入らなくなり膝から崩れ落ちるお母さん。

それと同時に鋭く鈍い音がなり、目を向けると頭を押さえて倒れこむお父さんの姿。それから容赦のない追撃、腹部への蹴り、顔への蹴り、後頭部を掴み何度も顔を床に打ち付けられ、その度に鈍い音が何度も何度も耳に響いた。だんだんとお父さんの表情は歪んでいき血も滲み出てきていた。それでも尚止まらない追撃の数々。太ももから足のつま先まで滅多打めったうちにされ、顔や腹部を庇っていた両腕も酷く痛んでいました。その様子を私はまた何も出来ずにムスカリのワンピースの裾ぎゅっとを握りしめながら震えることしか出来ませんでした。

 黒い影はお父さんが動かなくなるのを確認し、再度、私に近づいて来ました。次は腕を掴まれ大人の怪力で引っ張られて行き、八歳になったばかりの私の体はいとも簡単に引きずり出され、どんどんとお母さんとお父さんか離されて行きました。引きずられざまに見えたのは、再びよろよろと膝に手を付きながらも、よろめき立つお父さんの容姿。ボロボロになりながらもまた、私の元へと走り出したその一瞬、

 嫌でも分かるくらい耳にした轟音が鳴る。映し出された頭部からの血飛沫ちしぶき。熱を帯びていた肉体がゆっくり徐々に冷えていく。お父さんだった何かに成り下がっていく。その光景はスローモーションの様にゆっくりと流れていき、脳裏に焼き付いていく。とても優しくて不器用で、けれどいつもカッコ良かったお父さんの顔が目を見開いた状態で硬直こうちょくし、体制は崩れ力なく床に転がっていく。やがて目は虚ろを向き光を失い、気づいた時にはすでに事切れていました。

 お父さんは撃たれた。奴らに、頭部を。極悪非道のあの道具で。すぐに理解出来ませんでした。いや、恐らく分かっていても私の脳がその理解を拒んだ。嘘だ、こんな事、どうして、お父さんが…。

 「お父さん!いやだ!起きて!起きてよ!」無意識に私は叫んでいた。

 「そんな…。たける君…どうしてよ。」かき消されそうな程の弱り切った声。お母さんの瞳から静かに雫が溢れ出ており頬を通り顎の先で渋滞している。

 「あまりにも五月蠅かったので彼には死んで頂きました。」淡々と至極当然の様に言った。

 「まだ娘さんが死ぬと決まった訳でも無いのに、あそこまで騒がれると困ります。早く連れてきなさい、あまり私をイライラさせるなよ。」そして私の髪を掴んでいた黒い影は再び動き始めました。髪はミシミシと悲鳴を鳴らしながら抜け、千切れて行き初めて体感する痛みにどうする事も出来ずにずるずると引きずられて行きました。お母さんがまた動きがそうとしている姿を見て私は咄嗟とっさに「お母さん!私は大丈夫だからね!もう動いちゃダメだから!」このままではお母さんまでお父さんと同じ目に遭ってしまう様な気がしてそう必死に叫んでいました。お母さんは私の声を聞いた後両手で顔を塞ぎ込み枯れた花の様にへたり込み再び腰を床に着けました。

 その姿が少しづつ遠くなり、だんだんと見えなくなりました。その時にはあの男の目の前まで連れてこられていました。そこには私と同じ位、小学校低学年程の歳に見える男の子と、女の子が一人ずつ、明らかに私より幼く見える幼稚園児程の女の子が一人、少し落ち着きのある中学生位の彼女が一人、の合計五人が親元から無理矢理引き剝がされ連行、集められた。幼い女の子はフロアに響きわたる程の大きな肉声でひたすら泣いていた、それに釣られる様にして、同じ歳位に見える二人の子も泣き出してしまった。不の感情は連鎖する。次第に私も眼の奥がじんじんと熱くなるのを感じ必死に堪えた。お父さんを目と鼻の先で奪われた。私だって泣きたい。大きな声を荒げて、喉が焼き切れるぐらい泣き叫びたい、お母さんと呼んでいたい、お父さんと呼びたい。だけどそれをしてしまえば、それを聴かれてしまったらお母さんは私の心配をして直ぐに動き出してしまうだろう。それだけは避けたい、お母さんまで失うかもしれないなんて考えたくもなかった、だから血が滲むほど唇を噛み締め、涙が零れ落ちそうになるのを限界までせき止めた。

 「おやおや、たったの五人ですか?少ないですね。少子化問題が進んでいるとは聞いていましたが、こんなところで実感するとはね。」苦笑しながらそう言い捨てた。その後すぐに私達に向けて話かけてきた。

 「ごきげんよう、手荒な事をして申し訳ない。君たちには弱く身勝手な大人たちに代わって、選ばれてここまで来てもらったよ。情けない話だが、恨むなら君たちの両親を恨みなさい。さて、ここから本題だが、さらにこの五人から一人だけを選び我々と一緒にあることを付き合ってもらう。いいかな?」

 何のことか何を言っているか理解するのに数秒掛かった。周りの子達もすぐは理解出来ずに無言で口をパクパクさせていた。どうしていいか分からずに止まっていた頭を働かせようと周囲を見渡そうとした時だった、

 「ウチが行きます。」と関西訛かんさいなまりで、まだ幼さが残るがしっかりとした声が聞こえてきて、声の鳴る方を振り返ると、そこには中学生程の彼女の姿がありました。蒼白と紺の色を馴染ませ、ワインレッドのリボンをあしらったセーラー服を身に纏い丸眼鏡が印象的で髪は肩に少しかかる位のショートボブで綺麗にそろえられていた美しい容姿だった。

 「この子らはまだ、小学生や幼稚園児や思います。うちは見ての通り中学生です、あなた達がなんの目的があってかは知りませんが、うちがそれ付き合います。やから、この子ら離したって下さい。」その声は確かに震えていた、しかしとても力ずよく、自分の意志で本心を述べているのだと疑いの余地なく分かった。

 「君…。死にたいのかい?」

 「死にたくないです。」

 「ではなぜ?正義のヒーローにでもなったつもりかい?」

 「そんなんじゃありません。だた泣いてるこの子らを危険な事に巻き込みたくないからです。」

 「立派だねぇ、そんなかっこいい強がりいつまでいえるかな?」

 黒い影の男は彼女に一歩ずつ近づいて行きました。鼻先が当たる程の近さまで来た途端、拍手の様な甲高い破裂音が響きました、目にも留まらぬ速さでの平手打ち、影は容赦なく彼女の顔を叩き、倒れ込む彼女を見下すかの様に睨みつけていました。印象的だった彼女の丸眼鏡はその力強い平手打ちによりふちの部分は折れ曲がり、レンズは割れ、割れたレンズの破片が彼女の右眼球をくように突き刺さっていました。彼女はうめくように鳴き、両手で右目を庇うように押えながら悶えていました。押さえていてもドクドクと溢れて止まらない紅い涙が蒼白で美しかったセーラーを瞬く間に汚していく。けれど彼女の残った左目はまだ鷹の様に鋭くその影を見ていた。

 「まだそんな目で、そんな態度で私達を見るのかい。」

 「うちの考えは変わらんよ。もし左目を潰されようとも、絶対に引かへん。」

 「面白い子だね。」

 「分かったら、早くうちだけを残してこの子らを離して。」

 「どうしようかね。」影は不気味に笑みを浮かべたまま彼女をしばらく見下ろしていました。彼女は肩で息をしており、少しずつ距離を取るように腰と脚を使い後ずさりする。影は笑みを顔に張り付かせたまま何の突拍子もなく彼女の肩を抱き、押し倒した。

 「いや!何すんの!」嫌がる彼女をよそに影は馬乗りの体制をとり、暴れる彼女を無理矢理抑え込んだ。

 「今から何をされるか分かるかい?」

 「分かんない…いやっ…やめて!」

 影は彼女の口元を左手で塞ぎ、右手で汚された蒼白のセーラー服のボタンを一つ外した。ゆっくりと無駄なく、そしてまた一つ、また一つと気持ちの悪いくらいに優しい手つきで下から順に外されていった。そしてついに全てのボタンが外され、白玉の様なキメ細かい白い肌をした腹部があらわになった。口を塞がられ上手く発声出来ない彼女はジタバタと体をうねらせ必死に抵抗する。だが、周りの黒い影が複数で両足と右目を押さえていた両手を拘束しだし、遂には身動きが出来ない状態になった。

 「そんなに暴れないで、ね?別に酷い事をしている訳じゃないんだから。」

 「んっ、んーー、んーー!」

 「何だい?なんて言ってるか良く分からないな、もっとして欲しいって?」そう言いながら当然の様に胸の下着に手を伸ばしていき、下着の上から軽く撫でるようにして胸に触れた。嫌がる反応を楽しんでいる様で、何度も何度も下着の上を弄るようにして触っている。触手みたいに手は動いて行き胸から腹部を撫でて、セーラーのスカートにまで伸び下半身にまで浸食していった。はらりとスカートの布は捲られ白くて艶めかしい素足までもが露わにされていった。まるで舌先で舐めるかの様な手触りで、ふくらはぎから太もも、局部にかけて腰、へそ、脇腹、胸とまだ発育途中のあどけなさがある彼女の身体を何度も往復した。彼女はただただ耐えていた、耐えることしか出来なかった。経験したことのない体感に、戸惑い、恐怖、不快、そんな表情を浮かべ、ひたすら耐え続け、残された左目でより強く睨みを効かしていた。しばらくすると影の触手がピタリと止まった。

 「うーん、やっぱり幼女体ではいまいち興奮しないな、表情はかなり良かったけれど幼すぎる。つまらないから辞めてあげるよ。」そう言い放ち影たちは彼女の拘束を全て解いていった。

 「最低、変態、クズ野郎…。」

 「君が二十歳を過ぎたらまたいっぱい苛めてあげるよ。」

 「絶対に許さないから。」

 「そう、あと君みたいな気が強くて自主性のある性格も今回は面白さに欠けるんだよね、だから候補から外してあげるよ。」

 彼女はぐったりと抜け殻みたいに床に倒れたまま肩を小刻みに震わせていた。右目の鈍痛、全身で感じた悪寒おかん、この先どうなるかも分からない不安、この子達を助けなければという使命感、けれど何もできない喪失感と情けなさ、色々な感情が渦を巻き一斉に押し寄せる。彼女は泣くことしか出来なかった。

 「さてと十分楽しんだ所で、時間は有限じゃあないんだ。そろそろ決めないとね。」

 影はもう彼女には一切目もくれず、壊れたおもちゃの代わりを探すかのように再び私達に目を向け始めた。じっくりと、一人、一人全身を舐め回す様に吟味した。そして納得した表情をし再度口を開いた。

 「よし、君だ。君がいい。」そう指を指した先に居たのは私だった。

 「え…。」

 「いい反応だ。君は選ばれたんだ、これから私達の言う通りに動いてもらうよ。いいね?」

 「あっ、え、い、や」喉に何かが突っかる感覚がし上手く言葉を発せなかった。

 「君は他の子供に比べると、凄く大人しい。恐らく恵まれた環境で育ったのだろう。利口な子だ。大人や上からの言う事は素直に聞き入れる子なんじゃないかな?違うかい?」

 「ちがっ、わる、い、ひとの、言う、ことは、きかな、い。」

 「そうかい、そうかい。けれど君は今恐怖のどん底に居るはずなんだ。そんな君は自分の意志とは裏腹に流れのまま体は動いているだろうね、私には分かる。」

 「ど、うし、て、わかる、の。」

 「それはね…。君が娘に似ているからだよ。」

そう言うと影は歩みを寄せ私の真横まで来ると体をいとも簡単に担ぎ上げ、フロア中央まで運んでいきました。私は何故か上手く声が出せず、あっ、あっと呻き声に近い音しか出せず、どうしようもなくただ揺られている事しか出来ませんでした。それでも警戒されていたのか、口元はガムテープを貼られ、目元には布らしき物で覆われ視界まで奪われてしまいました。そして、一瞬の内に担がれていた腕から降ろされ、両足を床に着けると同時に「動くな!」と大きく叫ばれ、その声に圧倒し思わず尻餅を付いてしまいました。暗闇の中では右も左も分からず、耳から聞こえてくる声や音だけが頼りでした。

 「さて、今フロアの中央に君を運んだ訳だが、これから協力してもらう事はいたって簡単。ある物を体に着けてここに立ってもらう、それだけだよ。」

 「どう?こんなに簡単だとは思っても見なかったかい?これだけで残りの人間が全員助かる。受けてくれるよね?あっそか喋れないのか、受けてくれるなら首を縦に振りなさい。」

 私は言われるがまま首を縦に振った。私達の為に命を貼って前に出てきてくれたあの彼女が助かり、最愛のお母さんが助かり、ここにいる皆の命が助かるのなら…ただ立っているだけ、何かを身に着けただ立っているだけならと私は首を縦に振った。

 「流石さすがだ。やはり思った通りに動いてくれるね。では早速着けてもらおうかな。」その言葉を合図に周りから、鈍い機械音や鉄と鉄が重なりぶつかり合う音が聞こえてきた。音は次第に耳元まで近くなり、遂には鉄の冷たい触感が腕から胴体にかけて刺激し、ズシりとランドセルよりも重たい何かを背負わされた。そして最後に左手の人差し指に輪っかの様な物を掛けられた。何をされて、何を着けられたのか皆目見当も付かない中で後ろのほうでパソコンのキーボードの音がカタカタと鳴っているのだけが分かった。耳を良く澄ますと、遠くのほうで大勢の人の足音が聞こえた。恐らく皆が解放さえれて移動している音だろうと思った。それは皆の命が助かり安堵あんどすると同時に、私の事を見捨てたという事でもあると私はそうも感じてしまった。心にぽっかりと穴が開いたようだった。寂しいや、哀しいとも違う、表現しきれない虚無きょむの気持ち。目を覆われていても自然と溢れ出てくる涙。けど、皆の為。この現実を受け入れるしかほか無かった。

 「準備は出来たようだね。綺麗だ…美しいよ…。目隠しを外してその子にも見せてあげなさい。」

 目を覆っていた布が外され、数分ぶりに眼に光が差し込んできました。すぐに自分の身体を見ると、今まで見たこともない物体がそこにあり、黒くて禍々しくて得体の知れない生物の様にも見えました。左手に目をやり、動かそうとすると何か引っかかりを感じて上手く動かすことが出来ませんでした。

 「おっと、左手のその栓はまだ引いては駄目だよ、今引けばここに居る皆が瞬きする間に消し炭になるからね。」

 「見えるかな?今君を見捨てた情けない大人たちが全員タワーの中庭まで移動したよ。時期に我々も移動する君を置いてね。」

 影の話を聞きながらも私は中庭に避難したお母さんの姿を探していた。端から端まで順番に見渡したが、お母さんの姿が何処にも見当たらなかった。どうして?どこ、どこにいるの?紛れこんで見えないだけ?少しでも顔を見せて欲しい、それだけでも心の穴は塞がるのに…見えない、居ない、お願いだから無事でいて。

 

                         四月十六日     十八時四十五分頃

 

 黒い影達が私を置いて淡々と移動を始めた頃だった。タワーの外がやけに騒がしくなっているのに気が付いた。影達も何だか落ち着かない様子で移動を速めている。

 「おい!誰だ、通報した奴は!」ある一人が罵声を上げ始めました。それからすぐにパトカーのサイレン音が聞こえてきました。タワー内に聞こえる程のスピーカーアナウンスが耳に届いて来ました。

 「こちらは警視庁、今すぐに武装を全て外し、両手を挙げて出てきなさい。このアンズタワーホテルは既に全方位取り囲みをしている、逃げる場所はないぞ。」ドラマや映画でしか聞いた事のない言葉がフロア全体に響きわたりました。警察がやっと助けに来てくれた、永遠とも思われたこの時間もようやく終わりを告げる。きっとお母さんも無事でまた必ず会える。

 しかしあの影だけはまだ冷静さを保っていました。

 「落ち着きなさい。これは勿論、想定内の範囲です。その為にこんな子供まで用意したんです。予定通り移動を続けますよ。」そう言い影は、拡声器を片手に持ちタワー外に向かって声を発しました。

 「警察さん方、こちらの要求はもう聞いているでしょう。それを直ちに寄こして下されば、我々は何もせず引くことをお約束しましょう。」

 「それでは、先に人質を全員解放して貰おうか。そうすれば現金と旅客機は手配する。」

 「それでは意味がないんですよ。あなた達見えてませんか?この少女を。先にこっちからです。さもなくばこの少女と共に人質全員を殺します。この起爆装置きばくそうちはタワー一階は軽く消し飛ばすでしょう。」

 その言葉を聞き悪魔が頭上を通ったかの様に辺りが急に静まり返った。一時の静寂の後、外からの響きで再び音を取り戻した。

 「分かった。少し時間をくれ、手配する。その間誰も傷つけないでくれ。」

 「分かりました。その要件吞みましょう。ただし後十分以内に用意して下さい。それと少しでも妙な動きをすれば直ぐに爆発させますからね。」

 そう最後に言い会話は終わった。

 私はというとさっきの話を全部聞いてもなお、相も変わらずに何もせず、何も出来ず足を棒にして突っ立っていた。私の左手に掛けられたこの輪っかを抜けば、皆が死ぬ。私はまだこの時死ぬという感覚、意味が良く分からずにいました。お父さんを目の前で撃たれ倒れていてもそれが死んだと思わなくて、またひょっこり起き上がるのでないかと思っていました。いや、本当はそんな事、頭では理解していたんだと思います。否定して勝手に都合のいい様に解釈し少しでも現実から目を背けないと気が動転して頭がどうにかなっちゃいそうだったから、そうやって誤魔化ごまかして誤魔化して自分を奮い立たせないと、折れてしまいそうだから。いっその事この輪っかの栓を全力で引っ張ってしまおうかとも考えました。しかしこれも頭の中で考えるだけで実際には出来るはずもありませんでした。そんな事をしてしまったらまだ無事で生きていると信じるお母さんや、あの彼女、私より小さな子供まで、皆を巻き込む事になるかもしれないから、それに私だってまだ死にたくなんかない。

 もっと、生きていたい。

 もっと、楽しい事をしたい。

 もっと、学校に行きたい。

 もっと、お友達と会いたい。

 もっと、たくさん遊びたい。

 もっと、美味しいものいっぱい食べたい。

 もっと、色んな場所にも行ってみたい。

 もっと、色んなお洋服も着てみたい。

 もっと、色んな経験をしたい。

 もっと、恋とかしてみたい。

 もっと、愛されたい。

 もっと、温もりが欲しい。

 もっと、抱きしめて欲しい。

 もっと、そばにいて欲しいよ。

 もっと、もっと…

 もっと、お母さんと一緒に居たい───。


 もっと、お母さんと色んな事お話したい、学校での出来事や、お友達の話、行き帰りで見える桜の木の話、他愛もない事やくだらない事で笑いあって、くすぐり合ったり、一緒にお風呂に入って、背中を洗いっこして、髪を乾かし合ったり、一緒に同じふかふかのベッドで寝たり、お買い物したり、お菓子作りをしたり、お母さんとしたい事なんて無限にある。死にたくない。死にたくないよ。助けて。誰でもいいからお母さんに会わせてよ。

 私は神様に祈り、願いました。心の中で手を合わせ、必死に願いました。何度も何度も何度も何度も。『神様どうかお願いです、私をお母さんに会わせて。死にたくない。生きたい。』と願いを込め天を仰ぐ様に顔を上げました。

 ガラス張りの窓から見えた極わずかな小さな光。流れ星かとも思えたその光。向かいにあるビルから、まるでこちらを見ているかのような一切ブレのない不思議な光。神様の閃光せんこう、神様の救い。そう錯覚してしまう程極限の状態。その光に縋る想いで再び願いを込め、右手を伸ばそうとしたその刹那────

 「翠!」

 目の前の窓ガラスが割れ、破片が宙を舞う。それと並行して目の片隅で捉えた私に向かって倒れ込む人影。見間違えるはずのないその容姿、声、香り。今一番会いたかった人。目線を下に向ける。赤い液体が顔に付く。温かくて、鼻を突く鉄の臭い。探し求めていた人が今、膝を付き力なく私の両腕の中にいる。

 「お母さん!」

 脱力しきったお母さんの身体はまるで鉛の様に重くなっていました。胸からドクドクと赤い液体が流れ止まる事無く、お母さんのカーディガン、私のワンピースを紅に染めていきました。

 「お母さん!いやっ!しっかりしてよ!」

 「お願い!お母さん!起きて!」

 「お母さん、お願いだから目を覚ましてよ!」

 「死んじゃやだ!私を一人にしないでよ…。」

 「いやだよ…。置いて行かないで…。」

 お母さんの手を強く握りしめ、何度も訴え、泣き、叫びました。喉が焼き切れるほどにその名を呼び続けました。しかしお母さんの手の力は次第に弱くなり、だんだんと熱も引き冷たくなって行きました。本当に夢ならば覚めて欲しい、いつまでこんな悪夢を見させるの?それか誰か嘘だと言って欲しい。お父さんもあ母さんも元気で無事だよって言って欲しい。一度でいいからまた抱きしめてよ…お母さん。

 

 「どこから撃たれた?」

 「分かりません、警察どもがタワー内に潜入し制圧を開始しています。」

 「面倒な事になりましたね、計画を変更する、全員直ちに武器を持ち奴らを殲滅せんめつしろ。」

 「奴らの中には特殊部隊もいます。」

 「だからどうした!いいから全員殺せ!」

 鳴り響く銃声、人々の嘆き悲しみ叫ぶ悲鳴の数々、流れる血と涙、もうどうでも良くなりました。こんなにも五月蠅いはずなのに、不思議となにも聞こえず辺りが静まり返った様に感じました。私は無意識に、いや、恐らく意識的に左手に付けられた栓を握りしめていました。これを引けば、全て終わる。何もかも終わる。お母さんに会える。お父さんにも会える。悪い夢からも覚めれる。ここから居なくなれる。これを引っ張るだけ、ただそれだけ、簡単な事、これを引けば、これを引けば…。


声にならない叫びを上げながら栓を引こうとした瞬間、後ろから勢い強く体を抱き寄せられました。

 「やめて!離してよ!私はもう…。」

 「その栓を離して!大丈夫、もう大丈夫だから!」

 「なにが大丈夫なの!私はもうこの夢から覚めたいの!」

 「私があなたを助ける、約束する。だから大丈夫。」

 「大丈夫じゃないよ…。だって…お母さんとお父さんが…。」

 「お母さんの事は…ごめんなさい…。正直に話すと、私が撃ったの。」

 「え…お姉さんが、お母さんを?」

 「そう…本当はあなたを撃つつもりだったの。けれど…恐らくあなたを守ろうとして飛び込んできたのだと思う。」

 「そんな…。どうして、お母さん返してよ!」気づけば左手の栓を離し、両手拳を作り正面に立っている彼女の腹部を何度も叩きました。振りかざす腕を止めれなかった。彼女もまたそれを止めようとはしなかった。涙で顔がぐしゃぐしゃになり前もよく見えていない状態で縋りつく様に気持ちを拳に込めて叩き続けた。けれど、聞こえてくる声色はとても柔らかく優しい。本当にこの人が私を撃とうとしていたとは思えないぐらいまだ若くて、可憐な容姿の彼女だった。服装は見慣れのない迷彩柄めいさいがらで包まれていたが、髪は黒く長く、後ろで一つくくりにされていた。そんな彼女がされるがまま私の感情、気持ちを静かに受け止めている。

 「ごめんなさい…。それは出来ないの。起きてしまった事はもう変えられない。」

 「そんなのいやだ!いやだよ…じゃあお母さん起こしてよ!」

 「それれも出来ない、出来ないの。今私に出来る事は、あなたを此処から安全な場所に避難させる事だけ。」

 「いやだ、お母さんを置いて行けない、お母さんも連れてって!」

 「分かった。約束する。必ずお母さんも連れて行くから、まずはあなたを助けたいの。お名前は?私はあやめっていうの。」

 「す、すい…。」

 「すいちゃん、よく聞いて。私の事一生恨んでいい、いや、恨みなさい。私のした事は決して許される事じゃない。死んで報いるべきことなの。けれど死ぬ前にあなただけは救わせて欲しい。自分のエゴだって事は分かってる。けどそうしないと死んでも死にきれないのよ…。」

 「お姉さんのばか!」

 「そうだね。」

 「お姉さんが撃たなかったら、こんな事になってないのに!」

 「そうだね。」

 「お姉さんがもっと早く来てくれれば、お母さんもお父さんも…。」

 「そうだよね。もっと早く助けに行けたのにね。」

 「お姉さん…お願い…。助けて、皆を助けて下さい…。」

 嗚呼、私はなんて無力なんだ。掌から血がにじみ出る程に強く拳を握り、血が出る程唇を噛み締める。こんなにも幼い少女一人も安心させてあげられないなんて、なんの為に今まで訓練や任務を遂行して来たんだろう。自分の無力さ、弱さ、愚かさ、を呪った。命令に背き、いち早く現場に行くことだって出来たかもしれないのに、もっと色々な方法や手段を見つけ出す事も可能だったかもしれないのに、どうして私は動かなかったの?なにも出来ず命令されるがまま引き金を引いたの?恨まれ、呪い殺されても仕方のない事。犯した罪に対し報いを受けなけらばならない。けれど今だけは命に代えてでも少女を守らなければならない。少女の母親が命を散らして守ったこの尊い命、この尊い犠牲を決して無駄にしてはいけない。この想いを踏みにじってはいけない。

 「もちろん。皆助けるから、もう誰一人として死なせない。」

 「何をコソコソとしている。」

 「お姉さん!後ろ!」轟く銃声。しまった、背後からの気配に気づかず左ふくらはぎを撃ち抜かれた。

 「我々の爆弾に何をしている。それをこちらに寄こしなさい。」

 「断る。この子は爆弾なんかじゃない。」

 「ならば力ずくで奪うだけだ。」

 「絶対にそうはさせない。この子は必ず無事に帰す。」

 「そのガキに帰る場所なんてあるのか?無様にも父親も母親もただの肉塊になりそこに転がっているぞ。」

 「黙れ!元はお前達が起こした事だ!なんの罪もない民間の人達を巻き込んで、命まで奪った!」

 「酷い言いようだな、私はただ楽にしてあげただけだよ。」

 「この子の涙を見ても同じよう事が言えるのか!」

 「そんなのは知った事ではない。」

 「どこまで腐ってる?お前だけは絶対に許さない。ここで殺す。」左腰に付けていた拳銃を瞬時に取り出し発砲しようと構えた時、奴の姿が視界から消え、辺りを見ると一瞬の内に懐に入られみぞおち殴打された。

 なんてスピード──。速すぎて分からなかった。

 「おや、やはり大した事ありませんね。所詮はまだガキ、舐めて貰っては困る。」

 「ははっ、こんなもん?舐めてんのはあんたの方でしょう。」

 「凝りませんね。」男はサバイバルナイフを取り出し、再び攻撃を仕掛けてきた。繰り出される斬撃ざんげきを紙一重でかわし拳銃を構えるが、すぐさま追撃が来て上手く構えられない。

 「そんな半端はんぱな避け方ではボロがでますよ。ほら。」そう言い、男に左手を力強く掴まれ、振り払う隙もないまま、サバイバルナイフが貫通する勢いで右肩を突き刺された。吹き出す血飛沫、肉と骨が軋み断裂だんれつする感覚、叫びたくなるような激しい痛み、意識を保って立っている事がやっとの状態だった。

 「くそっ──」強い…。このままでは殺られる。こんな所で死ねない。何か打開策だかいさくがあるはず…。もうこれしかない。

 「足も肩も刺されてもう傷だらけではないか。血も止まっていない。私に殺されるのも時間の問題ですかね。」

 「その言葉、そっくりそのまま返す。どうしたの?怖くなってもう辞めちゃったの?」

 「調子に乗るなよ!クソガキが!」男はサバイバルナイフを突き立て、目にも止まらぬ速さで腹部を刺しに来た、私は避けなかった。衝撃と激痛が走る。止めどなく溢れ出る血液。痛みで意識が朦朧としてきている。しかし確実に掴んだチャンス。これを待っていた、この時をずっと。獲物を静かに誘き寄せ狩る蜘蛛の様に。

 「捕まえた──。」男の喉元に一撃、銃弾を撃ち込んだ。飛び散る血痕。人形の様に倒れる男の身体。目を見開きにし、驚愕の表情を浮かべたまま硬直している顔面。左手に突き刺さったサバイバルナイフを抜き、投げ捨てる。左手からは酷く流血しており覗けば向こう側が見える程の風穴が開いていた。

 「驚いた顔ね。右手で撃てないと思ってたでしょう。だから左手は常に空けておいた。そのお陰で左手でナイフを捕らえ隙が出来た喉に発砲できたってこと。もう聞こえてないだろうけど。」

 制圧はできた。だが今にも気を失って倒れてしまいそうになる、しかしまだ倒れる訳にはいかない、少女を安全な場所まで連れて行くまでは。その時一つの無線が入ってきた。『敵全体の制圧完了、続けて、爆弾処理班到着、おくれ』それを聞き、右肩を押さえ、片足を引きずりながら少女の元まで駆け寄った。

 「翠ちゃんもう大丈夫だから、早く此処を離れましょう。私の仲間がすぐに迎えに来てくれるから一緒に行って。」

 「お姉さん血が……。お姉さんは?」

 「私は見ての通り、こんなにも怪我しちゃって流血りゅうけつも酷い。後から行くから先に行って。」

 「だめだよ!お姉さんを置いて行けない!一緒に行こう!」

 「心配しないで、私もまた仲間を呼ぶから。」 視界が揺らぐ中、大佐がこちらに向かって走ってくるのが分かった。

 「おい!二人とも無事か!早く此処ここを離れるぞ、一階の各場所でタイマー式の起爆装置が確認された。あと四分程で爆発をする。急ぐぞ!」


                    四月十六日        十八時五十六分


 「そんな…。大佐、この子だけでも連れて早く安全の場所に。」

 「あやめ…。お前はどうする。」

 「後から追います。」

 「その重傷を負った体でか、ヘルプを要請する。」

 「いいから早く行って下さい!要請も必要ありません!仲間を巻き添えには出来ない!」

 「そうか…。必ず後を追ってこい。いいな、これは命令だ。」

 「了解。ありがとうございます。あの子にごめんなさい、と伝えておいて下さい。」

 「自分で伝えろ。」大佐は少女を抱きかかえ、出口の方に向かい走り出しました。

 「おじさん、待って!お姉さん怪我してて動けないんだよ!助けてあげないと!」

 「                」

 「翠ちゃん、強く生きてね…。」

 「あやめさん!あやめさん!いやだ!おじさん、助けてよ……。」

 少女の声はだんだんと聞こえなくなった。意識が遠のいてなのか、大佐との距離が離れたのかはさだかではなかった。遂には膝が床に付き前のめりに倒れ込んだ。これで良かった、いくつもの命を奪ってきた私はを受けるべきなのだから。心底そう思えた。恐らく大佐は私がもう一歩も動けない事を分かっていたのだろう。だけど、翠ちゃんを優先し走り出してくれた。私の意志を汲み取ってくれた大佐には感謝してもしきれないだろう。次生まれ変わったとして、また大佐の部下になれるのなら、その時に心からお礼をしよう。


                    四月十六日         十九時五分


 『アンズタワー一階の爆発を確認。』

 『人質三十三人の生存を確認、遺体二体の回収を確認、犠牲者遺体二体を含めた、四人確認。おくれ。』

 『爆弾処理班、少女の胴体に設置された爆弾解除及び取り外しに成功した。』

 『直ちに救急隊の要請。怪我人から優先し搬送を頼む。』

 『爆発による火災も発生している、消化活動も直ちに要請する。』

 『今日の事を全て本部に報告する。撤退してもやる事は山ほどある、気を抜くなよ。』

 『了解。』


         十年後 


四月十六日  正午     


 私はこの日とある場所に足を運びました。それはあの事件が起きた旧アンズタワーホテル、現在は改名し、杏子社会福祉あんずしゃかいふくしセンタービルとなっています。ホテルが廃業したのは五年前で、それからは福祉センターが設立されていました。外見の方はそれ程変わっておらず、恐らく中もホテルだった頃とほとんど変わっていないのだと思います。実際のところ、あの日以来私はこの場所に何度か足は運んではいるもののまだ一度も中に入った事はありませんでした。入らなかった、というよりは、入れなかった。に近いかもしれません。どこかまだ怖いのでしょう、あの日起きた事が。

 私は入口前にある〈旧アンズタワーホテル〉と刻印されている石塔の前に白いユリの花を一輪添え、静かに両手を合わせました。

 その後、福祉センターを後にし二人がいる次の目的地へ向かいました。その場所に着いてまず、入口の直ぐそばにある井戸から水を引き、桶に汲み入れた後、マッチを擦り火を点け線香に煙を灯しました。長い階段を十数段上り、数ある石碑の中からその一つだけを目指し歩いて行くと、お父さんとお母さんの前に一人の女性が腰を落とし手を合わせていました。灰色のジャケットスーツを羽織り同じ灰色のスーツパンツを履いていて、髪は肩よりも少し長くそれを後ろで一つ括りにし、右目に白の眼帯をしている女性。いつ見ても綺麗な人だなと思いました。それ故に右目の眼帯がその女性の魅力の邪魔をしている様に感じ、いつももどかしい気持ちになります。

 「みずきさん、こんにちは。」

 「翠さん、こんにちは。」

 「今年も来て下さったんですね。」

 「毎年ごめんなさい。お先にご挨拶させて頂きました。」

 「いえいえ、父と母も喜んでいると思います。」

 「そうだといいのですが…。もうあれから十年も経つんですね。」

 「そうですね…。」

 「昨日の事の様に毎日思い出します。この右目を失ってから、後悔ばかりして来ました。なんであんなにも無力だったんだろうって。」

 「そんなことはありません、みずきさんは私の命を救ってくれた方の一人です。感謝してもしきれません。」

 「いつもそう言ってくれますね。ありがとうございます。」

 「本当に心から思っているんですよ。もう十年も前の事です、そんなに思いつめないで下さい。」

 「はい…。ありがとうございます。」

 「今度お時間あればお茶でもいかがですか?私、みずきさんのこともっと知りたいです。」

 彼女は小さく、えっ、と声を漏らし驚いた表情を見せました。何だかとても可愛らしかったので思わずクスリと笑ってしまいました。

 「な、なにを笑ってるんですか…・!」

 「すみません、みずきさんのそうゆう反応初めて見たのでちょっと可笑しくってつい」

 「わ、私だって感情はあります!その…私なんかでよければ是非、お願いします。」

 「はい。私はみずきさんと行きたいんです。ライン交換しませんか?」

 「いいんですか?嬉しいです。ちょっと待って下さいね、今スマホ出します。」

 「ありがとうございます。あと、敬語辞めませんか?みずきさんの方が私より歳は上なんですから。タメ口で行きましょ。」

 「そ、そんないきなりは無理ですよ。難しいです…。」

 「では、名前を‘さん’呼びから‘ちゃん’呼びに変えてみては?」

 「それなら出来そうです…。す、翠ちゃん?」

 「はい、なんでしょう?」

 「い、いや何でもないです。」

また、笑いそうになったのを堪えていると、もーからかいましたね、と彼女も釣られて二人でクスクスと笑い合いました。緩やかに時間は過ぎていき、一通りお話をしたところで、彼女が突然何かに気づいた様子でこう切り出しました。

 「翠ちゃんお客さんがいらしたみたいですよ、長話してしまいすみません。またラインしますね、では私はこれで。」

 「みずきさん、ありがとうございました。ラインします。お気をつけて。」そう言いお互いに小さく手を振り別れを告げました。

 階段に向かい歩いて行く彼女を見ていると、先ほど言っていたお客さんとみずきさんがすれ違い、入れ替わるようにその人影がこちらに向かってゆっくりと一歩ずつ歩いて来ました。それは地面をしっかりと噛み締めるように。だんだんと近づいてくる人影はとても華奢きゃしゃな体をしている女性のようで、服装はとても綺麗に磨かれた革靴を履き、黒のスキニーパンツ、黒のシャツを着ており、髪は耳には架かるか架からない位の短く切り揃えられて、漆黒でとても清潔感がある、とても美しい人でした。手には供花ともとれる桜の花束を携えていました。

 華奢な体つきからしてあまり似合わない服装だなと感じました。近くまで来たところで徐々に顔が見えてき私はそこでようやくその女性が誰なのかはっきりと分かりました。十年前のあの日、私にとってはもう一人の命の恩人。自らを犠牲にして私を助け出してくれたあの人、今目の前にいるのは間違いなく、あやめさんでした。

 「嘘……。そんな事って。」

 「もしかして…翠さんですか?」

 「はい、そうです…。あやめさんですか?」

 「はい。あやめです。その…なんて言ったらいいか、本当にごめんなさい。」

 「ご生存されていたなんて、すみません、私知らなくて…。どうして謝るんですか?」

 「今まで生きていた事を黙っていた事、あの日ご両親を助けられなかった事、そして一番酷いのはあなたを殺そうとした事。」

 「そんな、あやめさんは何も悪くありません。しいて言うならどうしてご生存の事を黙っていたのですか?もし生きていると分かっていたら直ぐにでも会いたかったのに。」

 「それは…。上から会ってはならないと言われていたからです。あの事件の後私は直ぐに引退し軍から離れました。軍を離れても一度関わった人達にコンタクトを取ることは禁じられていたのです。しかし引退してから十年という年月が経ちました。私は沢山の過ちを繰り返して来ました、懺悔…というより罪滅ぼしでしょうか、私なんかと関わってしまった被害者様やそのが家族様にお詫びをして回る事を決め今は行動しております。その中で一番最初に思い浮かんだのが翠さんの事でした。」

 「そんな事が…。でも生きていて下さってとても嬉しいです。ずっと感謝の気持ちを伝えたいと思っていました。」

 「私は人に感謝される様な事は何もしていません。助けられてばかりで。」

 「その上の方っていうのは、あの日あやめさんと一緒に私を救助しに駆けつけて来てくれた大佐さんの事ですか?今も現役なのでしょうか。」

 あやめさんは一呼吸置き神妙な面持ち閉じていた口をゆっくりと開き始めました。

 「大佐は亡くなっています。」

 「え…。それはご病気か何かでしょうか?」

 「いえ、違います。」

 「それでは、事故や軍での戦死などでしょうか。」

 「それも違います…。実はあの日になんです。」

 「そんな…でも大佐さんは私を外まで運んで下さいました、その時に一緒に脱出できたはず、その後の事は気を失い気づいたら病院のベットで覚えてはいませんが、まさか……。」

 「そうですよね、そのまさかだったんです。これは私も後から聞いた話なんですが、翠さんを救助隊のいる安全な所まで運んだ後、大佐は私を助ける為に半壊していたホテル一階の現場まで戻って来たんです。しかし私は気を失い、おまけに両足が瓦礫に埋もれて身動きが取れない状態にあったそうです、そこで大佐は私の両足をサバイバルナイフで切断しその場から助け出してくれました、その時に勿論サバイバルナイフでの人体の切断は簡単ではなかったのでしょう…いつ崩壊してもおかしくない中で時間が掛かり、止血の為切断部を縛っていたりと色々としている間に遂に崩壊が始まってしまい、私を抱いて走りだしたのですが、出口寸前のところで火の手が道を塞いで通れなくなってしまい、向こう側にいる仲間に私を投げ、大佐はその場に取り残されてしまい炎の中に消えてしまったんです。その後消化活動が行われ火が消えて直ぐに捜索が行われましたが、大佐は遺体となって発見されました。」そう言い、あやめさんはスキニーの裾を少しだけ上げると、人間の温かい皮膚とは違う、冷たい人工物の皮膚が垣間見えました。私はそれを直視出来ませんでした。

 「そんな顔しないで下さい、これは当然の報いなんです。仕方のない事。大佐が両足を切ってくれなければ私は今こうして此処に立っていません。」

 「それは私としても同じことですよ。あやめさんが命をかけて助けてくれなければ私は毎年の様に此処には来れません。」

 「しかし、私はあなたを殺そうとした。間違いなく、この手で銃の引き金を引いたんです。」

 「それは何も悪い事ではありません、あやめさんの選択は何も間違ってなんかありません。あやめさんの立場がそうさせただけです。」

 「それでもあの時あなたはまだ八歳、幼き子供だったんです。許されることではありません。」

 「では、今此処で私があやめさんを許します。あやめさんは自分の感情と体を壊しながら国や市民の人々の為にここまで頑張ってくれました。私、あやめさんの事少し調べたんですよ。本当に凄いです。本当に感謝しています。」

 「私は許されていいの?」

 「当り前じゃないですか。だからこれ以上自分を責めないで下さい。」

 「どうしてそんなにも優しくしてくれるんですか…?」

 「昔に母から人に親切にされたら、自分も誰かに優しくしなさい。って言われていたんです。私はあやめさん含め、みずきさんや色んな人に優しくして貰いました。だから私もして貰ったことを返すように心がけて今を生きています。」

 「素敵なお母様だったんですね。本当にどうしたら良かったのか…。私分からなくて。」

 「これも仕方のないことです。母がくれた命でもあります。私は皆さんがくれたこの命と想いを大切に今を必死に生きます。」気づくと私は泣いていました。何故泣いているのか分かりませんでした、嬉しいのか、悲しいのか、悔しいのか、寂しいのか、自分でも理解できない何かが込み上げて止まらないのです。私はそのままゆっくりと優しく腕を引かれ、包み込まれる様にあやめさんに抱き寄せられました。

 「翠さん、私なんかよりもあなたの方が余程よほど辛かったっと思います。それなのにここまで強く、立派に育ち、生きてきました。もう十分な程頑張ったはずです。これからは肩の荷を下ろしていいんです。」

 あやめさんも涙を流している様でした。私はずっと誰かにこうして欲しかったのだと思います、こう温かく柔らかい優しく抱きしめて欲しかった。頑張ったねってただそう言って欲しかった。

 「あやめ、さん、も、たくさ、ん、苦しかっ、た、でしょ?」泣いているせいで上手く言葉が出せませんでした。

 「お互いに別々の苦しみがあったんです。けどそれを乗り越える事が出来たから私達はまたこうして出会う事が出来ました。今日まで無事で生きててくれてありがとう。」

 「あや、め、さんも、生きて、て、くれ、て、ありがと、う。」


十年のも間、二人の中で凍り付いていた二輪の花ががゆっくりと熱を帯び、静かに溶けだしていく。やがて氷は水へと変わり花びらを潤す。もう赤い蕾と青い花をへだてる物は何もない。決して交わる事の無かった二輪の花。不興の渦に飲み込まれ交わってしまった二本の花。しかしこの二輪のこの先をさえぎるものはもう何も存在しないだろう。






 お母さんへ



 お母さん。元気にしていますか。私は毎日元気に過ごしています、心配はいりませんよ。こうして居られるのも貴女とお父さんのお陰です。ここ最近ですが、季節の流れを早く感じます。

 あっちの世界でも今は身を包む様な、暖かな春なのでしょうか。お母さんはよくこの季節になると、カーディガンを羽織っていたのを鮮明に覚えています。あの当時の私でも色っぽく雅な女性だなと思いました。後もう一度で良いからその姿を、あの可憐な立ち振る舞いが見たいです。

 我儘言ってごめんなさい。大丈夫、私もう子供じゃないんです。お母さんがこの世をさってから、十年という月日が流れました。十年も経てば私も立派なレディです。貴女に負けない位、強くて綺麗な女性になります。

 あ、お母さん。勿論、忘れたりなんてしてませんよね。今日が私の十八歳の誕生日とゆう事。ちゃんと覚えていますか。天国でも私の事祝ってて下さいね。

 それではまた今度、御盆休みに来ますね。お父さんにもそう伝えて置いて下さい。

 二人とも大好きですよ。


















燿羅


エピローグ

こんにちは。初めまして、燿羅という者です。

今作を最後まで読んで頂き誠にありがとうございます。初めて長丁場で全く慣れておらず、不細工で拙い文章だらけでお見苦しい物をお見せいたしました。完読して下さったあなたに少しでも何か感じるものがあれば幸いです。

コメントや感想を頂ければ励みになります。どうかよろしくお願い致します。

今の季節とても冷えますゆえ皆様どうか体調にはご気を付け下さいませ。

それではまたどこかで。







           

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赤い蕾と青の花 燿羅 @nisino26

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