7

 目が覚めた時、まず彼女の顔が目に入った。心配そうな表情を浮かべ、僕を見下ろしていた。

「死んじゃったのかと思ったよ」と彼女は言った。

「……どれだけ、寝てた?」

「二回、食事をスルーしたわよ、あなた」

「え?」

「あと一日よ。……まあ、眠ってるのが一番楽だし、いいじゃない」

 酷く頭が痛かった。何か、夢を見ていたような気がした。目が覚めた瞬間は覚えていたのに、彼女の顔を見た途端、記憶は霧のように消えてしまった。それは、僕の夢が『無為』の象徴で、彼女がその対極であるからかもしれなかったが、本当のところは、よくわからなかった。

 なんとなく、指を見た。そこに、微かな違和感があった。治りかけの傷のような疼きが、そこにあるのだった。僕はそこを掻きむしろうとして、しかし、何も痒くないことに思い当たった。違う、疼いているのは、そこじゃない。僕は指の付け根を掻いた。しかし、そこにも、何もなかった。本当に、何もなかった。……


 最後の食事が運ばれた時、僕が思ったのは、ここから放り出される、ということだった。その感覚はおかしかった。ここは実験のための隔離施設で、僕を匿ってくれているわけでも、ましてや、施設の庇護の下にいるわけでもなかった。しかし、ここを出れば、自分が光の中で、砂のように崩れてしまうように思えてならなかった。世界から逸脱した人間にとって、日常性とは、暴力的なものに他ならないのだ。

 中々食べない僕を見て、彼女は不思議そうな顔をした。

「嬉しくないの? 二十万だよ」

「うん」

「え? 聞いてなかったでしょ」

「何が?」

「二十万、嬉しくないの?」

「どうだろう」と僕は言った。「わからない、……わからないんだ」

「相当やられてるじゃない、どうしたのよ」と彼女は笑った。「もう出れるわよ、あと少しよ」

 その時、扉が開けられた。調査員が三人入ってきた。まだ食事は終わっていない。だから、トレーの回収に来たはずはなかった。

「実験は終了した」と調査員は短く言った。「ロッカーから荷物を回収して、帰って構わない」

 何を言っているのか、わからなかった。

「え?」と僕は言った。「まだ、時間は経っていない」

「実験は終了した」とやはり調査員は短く言った。

「早めに終わった理由くらい、教えてくれてもいいじゃない」と彼女は抗議した。

 彼女は立ち上がり、調査員を睨んだ。

「実験は終了した」首を動かして、出ろ、と促した。「実験は、成功したんだ」

 僕と彼女は部屋を出て、ロッカーから来た時の荷物を取り出した。ジャンパーを羽織り、リュックを背負った。彼女は納得がいかない顔のまま、ポーチの中身を確認していた。

 施設を出る際に、封筒を渡された。それが、報酬だった。ただの紙の束を入れられている可能性を考え、中身を覗いた、確かに、そこには一万円札幾枚か入っていた。

 今なら終電が間に合うかもしれなかった。僕達は駅の方角へと二人で歩いた。彼女は風呂に入っていない髪の毛を気にしていたが、僕はというと、これから二人はどうするのかを考えていた。連絡先を聞くべきか迷ったが、結局やめてしまった。そんなことをしても意味はないと思ったからだった。

 彼女が封筒を開き、一万円札の枚数を数え始めた。数え終わると、頷いて、封筒をポーチにしまった。「ばっちり」と彼女は言った。

 僕も封筒を開き、一万円札の枚数を数えた。

「あ」と僕は声を出した。

「ん?」と彼女は言った。「どうしたの?」

 僕はもう一度数えた。間違いはなかった。そこに入っているのは、十九万だった。

「もしかして、足りなかった?」

 彼女の澄んだ目に、不安の色が見て取れた。僕は思い直し、首を振った。

「いや、なんでもないんだ」

 どうでもいいことだ、と僕は感じたのだった。もしも、やはり納得が出来なければ、明日にでも、施設へと行けばいい。明日が無理なら、明後日でもいいのだ。強請を疑われるかもしれないが、それでもよかった。全ては、どうでもいいことだ。

「なあ、君は小説家になるべきじゃないか?」と僕は言ってみた。

 彼女が不思議そうな表情で僕を見た。

「どうして?」

「君が書く小説を読んでみたいと、なんか、思ったんだ」と僕は言った。「『失われた時を求めて』でも、『嘔吐』でも、小説を書く啓示を得て、物語が終わる。でも、きっと僕には小説は書けないだろう。だから、君が書くべきだよ」

 なにそれ、意味わからない、と彼女が笑った。僕も笑いつつ、明日からのことを考えた。

 きっと、生きなければならないのだろう、と僕は思った。僕は自分を充たす『無為』を殺さなくてはならないのだ。そして、そのためには、日々を営む必要があった。まず、ポストを開けてみよう。そうしてから、食料品を買いに行くのだ。髪を切った方がいいかもしれない。しかし、その前に髭を剃らなくてはならないだろう。それらを積み重ねて、僕は生きる必要があった。

 日々とは、壁の連なりのようなものだ。日と日を隔てる時間の壁を、突き破って進んでいく行為、それが生きることに違いなかった。……だとしたら僕は、というよりも人間存在全体は、その壁を掘り進む土竜だった。光を見ず、闇の中を生きる、孤独な土竜だった。

 あたりの闇は深い。しかし、夜は少しずつ明け、やがて光が充ち、この世の『無為』を侵すに違いない。水の匂いがする。明日はきっと雨だろう。

 

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