第3話 その鎖には骨がついていた

夜中に用を足すのもかなり面倒だ。

なにせ、足枷あしかせで隣の囚人とつながっているのである。

用を足しに起きるということは、隣の囚人を起こすということになる。

迷惑をかけないよう、就寝前の用足しは必ず行う。


しかし、用足し以外の理由で、夜中に目を覚ますことも多かった。

それは、隣の囚人のいびきのせいだけではない。


体中がかゆいのだ。


山の中での作業で、体中が虫に刺されている。

いや、かゆいだけではない。

倒した木にハチの巣があれば、当然、たくさんのハチに刺されてしまう。


痛くて痛くて眠れないのだ。


* * *


午前3時半。

看守は、枕にしている丸太の端を大きなハンマーで叩く。

起床だ。

丸太に頭を載せて寝ているので、丸太を叩かれれば嫌でも振動が頭に伝わって目が覚める。

夜明け前に移動監獄から出発し、今日の作業場へと並んで歩いて行く。



足枷あしかせでつながった囚人と仲良くやれるかどうかは、監獄生活で最も大事なことといってよい。

すべての作業は、このつながれた二人組で行うからだ。

作業だけではない。食事も用足しも、すべて二人一緒である。


俺の相方あいかたは、やはり自由民権運動での逮捕者だった。

徴兵制の導入は、農家にとっては働き手を取られて痛手であった。

相方の郷里ではそれに加え、土木工事のための若者の徴発も行っており、相方はそれに抗議するために役所を襲撃し、逮捕されたとのことであった。

強制労働に反抗した結果、強制労働をさせられるとは皮肉なものである。


相方は、日に日に元気をなくしていった。

俺ばかりが重い仕事をやらされるようになり、不公平を感じた。

内心、腹が立ったが、喧嘩をすると懲罰を受けるので文句も言えない。


相方は、足もふらつくようになり、ついに倒れた。

食事の量が足りないから倒れたのかと思ったが、相方は食欲が無いと言って食べようとしない。

手足のしびれや胸の痛みを訴え、ほとんど動けなくなった。


陸軍出身の囚人が、それを見てこう言った。


「そいつは脚気かっけだ。陸軍にいた頃、俺もかかったことがある。陸軍じゃ監獄と違って白飯を腹いっぱい食べることができて、その点では天国だったんだがな。まあ、脚気になるやつが多くて、なってしまうと地獄を見る。俺は結局、脚気が治らなくて除隊。陸軍を辞めて白飯を食べれなくなったのは惜しかったが、娑婆シャバに戻ったらなぜだか知らんが脚気は治ったよ」


* * *


数日後、俺の相方は死亡した。


相方の遺骸は、道路脇に放置された。

我々囚人は、死んでも墓に入ることは叶わないのだ。

せめてもの墓標の代わりにと、我々は作業の空き時間を見つけ、やつの亡骸なきがらに土を被せた。


囚人道路の脇には、こういった「土まんじゅう」が次々に作られていった。


* * *


俺の相方は、別の囚人に変わった。


やつの罪状は、強盗殺人。

人を殺せるやつは、やはり気迫が違っている。

やつは反骨精神が旺盛で、態度が悪く、級をどんどん下げられていった。

看守に従うふりだけでもすればいいものを、そういうことができない不器用なやつなのだ。


ある日、やつは恐ろしい提案をしてきた。


「おい、逃げようぜ」


俺は青ざめた。


「いや、それはまずいだろ。二人でつながっているんだ。それに、足枷には一貫(3.75kg)の鉄球もついている。すぐに疲れて追いつかれるぞ」


「だいじょうぶ。夜中にこっそり抜けるんだよ」


「だめだ。おまえもタガネをつけたやつを見ただろ? 俺はあんな風にはなりたくない」



俺は、相方の脱走計画をなんとか諦めさせた。

こんな山奥での脱走なんて成功するはずがない。


すでに、脱走した囚人は何人もいたが、たいていはヒグマに襲われるか、あるいは飢えと病で行き倒れとなり、野生動物に食い荒らされた遺体となって発見されるかのどちらかだった。

原始林の中には誰も住んでおらず、食べるものもなかったからだ。


脱走したものの、結局は囚人労働をした方が生き延びられると考え、懲罰覚悟で戻ってくるやつらも多かった。


戻ってきた脱走囚は手足を縛られ、ハチの巣の下に立たされた。

無数のハチが脱走囚を刺していく。

顔も刺されて痛々しく腫れ上がっていった。


その後、タガネと呼ばれる懲罰を受ける。タガネというのは囚人たちの間の隠語だ。

脱走囚は、耳に穴を開けられて鎖を通され、その鎖は足につながれる。

歩くだけで耳に激痛が走るようになる。


脱走すると、そんな哀れな姿にさせられるのだ。


* * *


道づくりは日の出前から日没後まで、延々と続けられた。

順調に進んでいったのだが、その分、困ったことも発生した。


食料輸送の遅延である。


網走から離れれば離れるほど、食料の調達が遅くなる。

また、季節も夏になり、食材の腐敗も進んだ。


俺たちは栄養失調状態となり、皆が「水腫病すいしゅびょう」にかかった。

体中がむくんでくる病気である。


連日の重労働は、肉体的にも精神的にも囚人たちを蝕んでいった。


相方は態度が悪く、飯の量も減らされたため、看守への反抗心が日に日に増大していった。

相方はついに、やってはいけないことをやってしまう。


看守へ斧を投げつけたのである。


「いや、手が滑ったんだ」


そんな言い訳が通用するはずもない。

看守は笛を吹くと、周りの看守たちが次々に集まってきた。

看守に反抗した囚人は斬るきまりになっている。

これを「拒捕惨殺きょほざんさつ」という。

例外なく、俺の相方もこのきまりに従って、看守のサーベルで斬り殺された。


反抗した者の遺体には、土を被せることさえも許されなかった。

他の囚人への見せしめのためである。


野生動物たちが死体を食べにやってくる。

やがて、死体にはウジがわき始め、たくさんの蟲が這い回るようになった。


一緒に作業してきた仲間のこんな姿は見たくなかった。

その思いは皆、同じであった。


* * *


俺の相方は変わり、ついに3人目となった。


こいつも俺と同じように、確信犯(思想に基づく犯罪)でここに送られてきた。

驚いたことに、帝国大学に通っていたとのこと。

俺には難しいことは分からないが、アカと呼ばれる思想を説いたために、国事犯として逮捕されたらしい。

大学まで行ける頭を持ちながら、もったいないと思ってしまう。



道づくりは絶え間なく続いた。

死んでいくのは、囚人だけではない。

看守にも死亡者が出た。

看守と言えども、食べるものは囚人たちとたいして変わらない。

水腫病と脚気を併発し、看守も次々に死んでいった。



伐採中の事故でも、多くの囚人が亡くなった。

疲れてくると注意力がなくなっていくのだ。

倒木が当たって骨折すると、当然のように働けなくなる。

こんな山奥ではまともな治療は受けられず、怪我をした者のほとんどが衰弱し、死亡してしまう。


これまでに、百人を超える囚人の遺体に土を被せてきた。

明日は我が身だ。


俺たちは生き残ることだけを考えて、道をひたすらつくり続けた。


* * *


こうして、我々は網走から北見峠までの道を、わずか8ヶ月で完成させた。


総勢1150人での道づくりでは、俺を含めた900人以上が水腫病にかかった。

栄養失調や脚気などを併発して、うち、230人が病死した。

その他、作業中の事故でも大勢の囚人が命を落とした。

数百人もの遺体を処理できるはずもなく、遺体はすべて、道の脇に埋められた。



時代は流れ、日清戦争が勃発。

露西亜ロシアはカムチャツカ半島を南下し、領土を広げていた。

日本はそれに対抗し、旭川に第7師団を駐屯させた。

俺たちが作った中央道路を使い、屯田兵たちは北見へと入植していき、北海道の開拓を続けた。



大量の死亡者を出した囚人による道づくりは国会でも問題視され、追及されるようになった。

囚人の外役は禁止され、俺たちは監獄内での労働に就くこととなった。

俺はその後、味噌づくりや肉牛の飼育をして、監獄内での囚人生活を送った。


* * *


俺が出所した頃には、北海道での道づくりは民間に委託され、タコ部屋と呼ばれる低賃金労働が主流となっていった。



開拓が進んでいくにつれ、道の脇からは白骨死体がたくさん出土されるようになった。

俺たち、囚人の遺体だ。


それらの骨には鎖がつけられていた。

二体の死体が鎖でつながったまま出土することもあった。




今日も、道の上を多くの車や人が行き交っている。


道はこれからも、我々の日常を支えていくのであろう。




< 了 >


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その鎖には骨がついていた 神楽堂 @haiho_

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