でんごん
香久山 ゆみ
でんごん
「やっぱりここにいるんだな」
男性が身を乗り出す。俺ははっきりと頷く。
「それで、妻はいったい何を伝えようとしているのか」
彼は隣を振り返るが、宙に視線を彷徨わせる。彼には見えないのだ。彼の隣には、後飾りの遺影と同一の女性が静かに座っている。
先の質問に、俺は小さく首を振る。俺には彼女が何を伝えようとしているのかは分からない。霊の言葉を聞くことはできない。ただ見えるだけだ。そこから汲み取るしかできない。彼女を観察すると小さく口を動かしており、確かに何かを伝えたそうである。
「妻は、私がいなければ何もできないほど内向的でしたから。私が仕事に出ている間は家にこもって、外に知人もいない。だから私を頼っているのだと思う。何とかして妻の望みを叶えてやりたい」
男性が膝の上でぎゅっと拳を握る。
彼に断って、トイレを借りる。洗面台の隅には化粧品一式がきれいに並んでいる。そういえば、玄関には新しそうなパンプスがあった。もうそれらが使われることもない。
部屋に戻って雑談がてらそんな話を振ると、女性ははっとした表情で顔を上げた。おもむろに立ち上がり、すーっと部屋を出た。
「おや、奥さんどこかへ出掛けるようです」
「ええ、いったいどこへ?」
夫にも心当たりはないらしい。追い掛けると、玄関先の彼女はいつの間にか服を着替えてあのパンプスを履いている。なかなかのお洒落さんだ。そのまま玄関を出て行った。
彼女はすっすっと迷いない足取りで道を進む。俺はそのあとを追う。夫はその俺のあとについてくる。
「彼女、どこへ向かっているんでしょう」
「さあ……」
夫は首を捻る。ふだん買い物は商店街でしていたようだが、今は逆方向の繁華街へ進む。
駅前まで来ると、すっと映画館に入っていった。慌てて後を追いかける。並んで、封切り間もないハリウッドの話題作を観た。エンドロールまできっちり観て、映画館を出る。そのまま隣のゲームセンターに入る。UFOキャッチャーの機体の前で立ち止まり、ウサギのぬいぐるみを指差す。
「えーと、奥さんそのぬいぐるみが欲しいみたいです」
「なにっ?!」
それで夫は二千円注ぎ込んで奮闘したけれど、結局ぬいぐるみは取れなかった。妻は少しだけ肩を竦めて、そのまま店を出て、通りを歩いていく。
角の喫茶店に入る。レトロモダンな内装の窓際の席に彼女が座り、俺たちもその席を指定して腰を下ろす。
「何なんでしょうね?」
彼女はすんと窓の外を眺めている。メニューを広げていた夫は、アイスコーヒーを見つけるとほっと息を吐いた。
「さあ、分からん。……だが、思うところはある」
彼が自分に言い聞かせるように小さく頷きながら言う。
「もっと妻に構ってやればよかった。私は仕事ばかりで家庭を顧みず、休日も疲れて家にいた。だが妻は、今日みたいに私にあちこち連れ出してもらいたかったのだろう。定年退職したら、妻と一緒に全国各地を旅行して労おうと思っていたのに、もう遅い……」
夫が項垂れる。ちょうどお冷が運ばれてきて、「あら」と店員が声を上げる。
「山田さんの旦那さん!」
彼が首を傾げると、「この度はご愁傷様でした」と店員は頭を下げて言った。
「この席、奥さんがよく座ってらっしゃったんですけど、旦那さんご存知だったんですね」
平日昼間の空いてる時間帯にいらっしゃるから、私達よくお喋りしたんですよ。店員は屈託なく話す。
「奥さんは映画がお好きで、その帰りにいつもうちに立寄ってくださって。レモネードと季節のケーキが彼女の定番で。可愛らしい人でしたね。町会のコーラスグループのリーダーもされていて、世話になった人も多いから皆寂しがっていますよ」
しみじみ語られる話を、夫はぽかんと聞いている。
「そうそう。旦那さんの心配もよくされていましたよ。仕事一筋で人付き合いもないから、万一自分がいなくなったら、あの人は家に引きこもってしまうんじゃないかって。私がいないと何もできないんだからって。けど、旦那さんちゃんと外に出られているようで、安心しました。これからも気軽に立寄ってくださいね」
注文を取ると、店員は厨房に戻って行った。結局彼は、レモネードとケーキを注文した。ストローで啜って「酸っぱい」と、震える声で涙を溢した。
でんごん 香久山 ゆみ @kaguyamayumi
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