一冊の本

香久山 ゆみ

一冊の本

 なんなんだろう。

 市立図書館の貸出カウンターの中で頬杖をつき、首を捻る。

 最近不思議なことがある。ある一冊の本が頻繁に貸し出されていくのだ。

 古い児童書。

 昔から読み継がれているような有名な物語でもないし、最近話題になったようなこともない。なのに、途切れることなく次々と貸し出されていく。予約も五十人以上の待ちができている。なぜ?

 と、あ。

 私は頬杖を外し、背筋を伸ばす。やった。今日も来ている。視線だけ動かし、彼の姿を追う。二十代後半くらいだろうか、スーツ姿の彼は、平日の午後六時頃によく図書館へやってくる。特別ハンサムなわけではないんだけれど、読書好きというのが素敵だし、なにより、彼が借りていく本が私の趣味と同じというのがハートを射た。とはいえ、私と彼は、単なる司書と利用者の関係。同じ本に手を伸ばして、あ、と手が触れ合うような運命的な体験を望むべくもなく。ただ見つめるだけ。貸出カウンターがまるでベルリンの壁のように感じられる。彼が、私の頭を悩ませるもう一つの案件だ。はあ。

 司書業務の合間に、管理システムにアクセスしてみる。私の頭を悩ませる古い児童書の貸し出しリストを調べる。この半年間で約九十人が借りている。ほとんどの人が本を借りた翌日には返却している。借りていくのは女性が大半のようだ。児童書ということもあり、十代の貸出が最も多いが、二十代、三十代の貸出もそれに劣らない。うーむ。やはりデータだけ見ても、頻繁に貸し出される理由はわからない。

 どんな物語だったかな。確か少年が仲間といっしょに魔法の本を探しに行くおはなしだったか。お恥ずかしいことに、私はこの本を読んだことがないのだ。

 しかし、すぐにチャンスは巡ってきた。この古い児童書が返却された。貸出予約はあるものの、次の人がこの本を借りに来るのは明日以降だ。私は終業後にこっそりこの本を読んでみることにした。

 とても美しい装丁の表紙だ。わくわくしながらページを開く。右ページに文章、左ページに挿絵。……が。挿絵は木版画のようだが、粗く彫られているためか、はっきりいってしまえば汚い印象だ。物語の方は、と読み進みていくと、すぐにうとうと本を枕にして眠ってしまった。どこかで読んだことのあるようなありきたりの内容で、しかも登場人物が皆個性に欠けるため、はっきりいってつまらない。私は欠伸を噛み殺して本を閉じた。表紙が素敵だっただけに、なんだかとてもがっかりしてしまった。結局、どうしてこの本が人気なのか、ますますわからなくなった。

 数日後、貸出カウンターに座っていると、一冊の本が返却された。

 とても驚いた。彼だ。スーツ姿の彼が一冊の本をカウンターの上に差し出す。私は胸がドキドキして、カウンターの上に視線を下ろすと、また驚いた。彼の返却する本。あの古い児童書だ! 私は驚きを顔に出さないように、本を受け取る。パラパラとページを繰って状態を確認すると、ひらりと一枚の紙片が落ちた。

「あの」

 紙片を返そうとすると、彼は何も言わず、それを私に受け取るように手で示した。私はそっと紙片を覗き込む。……! すぐに顔を上げる。男が無表情にこちらを見ている。

「かしこまりました」

 私は緊張に強張った顔で男に小声で返事をした。男は嬉しそうに笑った。

 その日の閉館後、なんだか手放しがたく、男が返却した児童書をそのまま手許に持っていると、同僚に声を掛けられた。

「あ! それ、噂の児童書じゃないですか!」

「え?」

 私が首を傾げると、同僚が教えてくれた。

「最近よく貸し出されるでしょ。ジンクスがあるんですよ、その本」

「ジンクス?」

「その本を枕の下に敷いて眠ると恋が叶うんだそうですよ。だから若い女性がよく借りていくんですよ」

「へえ。でもなんでまた、こんな古い本が」

「その本読んだことありますか?」

「ええ」

「つまらなかったでしょ。がっかりしましたか」

 同僚は楽しそうに笑う。

「そうね」

「だからですよ。読んで後悔な本。コウカイナ本、並び替えると、コイカナウ本、です」

「なるほど」

「誰が言い出したんだか、まあ、都市伝説みたいなものですかね。信じます?」

 信じるも何も……。

「いや……」

「そうですよね。信じられないですよねえ!」

 私が困惑して返事に窮していると、同僚は勝手に解釈したらしく笑いながら去っていった。

 私は古い児童書の表紙を撫でる。

 信じるよ。だって、私も、そして彼も、この本を枕にして眠ったのだから。

 ――もしよければ、今度いっしょにお食事しませんか。――

 ポケットの中で、彼の連絡先が記された小さな紙片が、新しい物語のはじまりを待っている。

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