第15話 静謐で不穏な入定
夜半、ひっそりと山小屋を出た。先程御師たちの話を聞いて、どうにも落ち着かなかったのだ。
風は変わらず強く、しかも日が落ちて久しい。世界は凍てつくように寒い。油紙で僅かに風を防ぎ、羽織った着ゴザでその内に微かに熱を溜める。極寒の中で、そのわずかな暖はまさに地獄に仏。
手探りで岩場を探り、なんとか
足下に細心の注意をしながらようやくたどり着いた烏帽子神社はゴツゴツと大きな烏帽子型の岩を囲むように、社が設けられていた。ここが
そしてその遺体は当時対立していた村上派に打ち壊され、以降石棺に納められて秘されていると聞く。
食行身禄はこの荒涼とした地獄のような土地で、何を考えていた。何故入定した、もっといえば何のために死んだのだろう。
俺がいつも巻き込まれる『生贄』というものは、もっとわかりやすいものだ。例えば誰かを取って喰おうとする化け物が目の前にいて、俺をその身代わりとする。あるいはその化け物を誘き寄せるためにその前に立つ。そうすれば俺はその化け物に襲われる。
要するに俺は大体の場合、複数ある犠牲者候補の中で俺が選ばれやすいというだけで、その選択を行うのは化け物だ。だからそもそも化け物がいなければ生贄など不要なパッシヴなものだ。
けれども富士の生贄というものはそういうものではないらしい。おそらくもっとアクティヴなものなのだ。先程山小屋で御師と話したことだ。
「山菱さん、今日はお疲れ様でした。それにしても体力あるね。向いてるんじゃないの、修験者」
「皆さんほどじゃありませんよ」
「そら俺らはこのシーズンは毎日毎日富士に登っているからね。比べられちゃ困っちゃうよ。今日なんかはうまく晴れたが、時には大雨がふることもあるし、こんな夏でも吹雪くことすらなくはない」
現し世では想像もつかないが、富士の山は日が落ちれば身を切るような寒さが襲う。今も道者たちは山小屋で身を寄せ合って眠っている。雨雲が富士にかかればその中を突っ切らねばならぬ。直接に体温が奪われ、その行程は相当に大変なものだろう。
「修験者といえば村山修験道の方々はこの山で修業をしているのですよね」
「そうだがよ。奴らは目的がちがうかんな」
「目的が?」
修験道の目的というと悟りを開くことだと思っていたが、何か違いがあるんだろうか。
「うーんそっか。山菱さんも俺らとは目的が違うのか」
「目的?」
「ああ。宍度さんから聞いたが病気の人を治すための祈願修行するんだろう?」
「え、えぇ」
思い出した。そういうことになっていた。
「最近はすっかり見ねぇが、修験の奴らは自ら悟って神通力を得るために登ってっからな。けどそんなら山菱さんは富士講のほうが近いのかも知んねぇな。誰かのために登るってのは。なんか食行身禄師みたいだ」
「あの、食行身禄という方はどういう方なのでしょうか」
「……本当によく知らねぇで登ってんだな」
食行身禄はお江戸八百八講と言われた富士講の中興の祖にあたる人間で、今からおおよそ150年前、丁度この八合目にある烏帽子岩で即身仏となった。
元々は
富士講との出会いは17の時だ。
入定すると決めたって……。
俺はほろ酔いの鷹一郎にわけのわからない文脈で即神仏の成り方を聞いたことがある。あれはいつだったか大学近くの居酒屋でのことで、本当に何の脈略もなく鷹一郎はこう呟いた。
「私も即身仏にでもなれば早くあの方の元に行けるのでしょうかねぇ」
「物騒だな。いきなり何を言いやがる」
「物騒だと言われましても。私の今世というものは7歳の折に既に定められているのです」
「後追いしろとは言われてないんだろ?」
「なんですかそれは。死ぬために死ぬだなんて無意味です」
鷹一郎は珍しく唇を尖らせた。
詳細は知らぬが、鷹一郎は子どもの頃に主人とも言うべき何者かに行き交い、なんらかの約束をしたらしい。そして何故だかはよくわからぬものの、今世ではもう会えそうにないらしい。
だから来世か何かでその何者かの役に立たぬかと思って怪しげなものを集めているそうだ。俺としては来世で役に立てるとか意味がわからぬし、やっぱり趣味としか思えん。
「私も哲佐君ほど徳が有れば迷いはしないのですがねぇ」
月の足る宮 富士に登った左文字の話 ~明治幻想奇譚 Tempp @ぷかぷか @Tempp
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