第14話 夜の景色
本栖湖と山中湖は方角が違うが、事前に富士講社で見た地図によれば火口からは本栖湖の方がやや遠い程度の距離だろうか。
この霊山はかつて噴火し、この足元の砂礫を雨のように降らせ、あれほど遠くまでその炎の舌、つまり溶岩が至ったのだ。その間にある緑の境界をなぎ倒しながら現世まで。そう考えれば、自分の立つ山肌がひどく恐ろしいもののように思われ、身震いがした。
「この富士、噴火したりはしないんですよね?」
「なんだ山菱さん、案外臆病だな。富士は噴火する前にはね、地が揺れたり色々教えてくれるんだ。絶対とは言えないんだけど、今は大丈夫だ」
そういえば調べた数々の文献でも予兆があったと思って胸を撫で下ろして再び前を向けば、目の前に広がる世界はまさに荒野、やはり砂礫の広がる地獄だった。
末代上人の歩いた平安末期には、未だそこかしこで煙が上がり、火口は炎で満たされていたのだろう。
こんなところで修行するのか? 頭がイカれてる。
道は唐突に急勾配となる。御師の
けれども八合目に至って、さらにその景色は地獄へと変化した。それまではオンタデや
高地のせいか、次第に息苦しさを感じてくる。
「皆さん。この草木も生えぬ地獄を抜ければようやく天上に至ります」
御師の声が響き渡った。
何ものも生きられない地獄。地獄だから草木が生えない。死者の国。だから生物は生存できない。
|勢い甚だしく六百~千三百メートルの山を焼き尽くした《其勢甚熾、焼山方一二許里》
ここは灼熱の地獄が通った地だ。
いや、違う。ここはただの森林限界だ。
地学科の奴らが言っていたじゃないか。一定の高度に至れば植物は水の不足と温度の低下で生息できなくなる。……結局生物は生き残れないってことじゃないか。地獄。
「本日はこの山小屋で一休みです。夜明けに再び登り始めますから、しっかりと体を休めてください。六根清浄!」
六根清浄の唱和が響き渡る。
気がつくと世界は薄っすら暗くなっていた。今日はこの八合目の
雲が、下にある。
綿を散らしたように雲が下にあるのだ。
そういえば登っている途中、濃い霧の中を通った気がする。あれが、雲。雲なのか。雲というものは上から見ても雲なのだな。そんな妙な感慨が湧く。そうするとここはすでに現し世ではなく、神仙の地、天上界。
そうしてそのプカリと浮かぶ雲に斜めに照射されたオレンヂ色の陽がかかり、茜や紫といった複雑な色味を拡散している。その雲の合間、遠く下に見える遙かなる大地。矮小なる人の住まう下界。
その下界にこの富士山自身の影が円錐形に広く長く伸びゆき大地を覆っている。
この影はどこまで広がっているのだろう。そう思って世界の辺縁を眺める間に雲の色が大地に転り、世界は茜色、それから藍色に変化していく。その中で富士山の影もどんどんと遠くまで足を伸ばし、更に世界を隙間なく覆い尽くしていく。まるでそれが世界の全てで定めのように。そうして全てが富士の影で覆われた時、それが訪れた。
夜。
びゅうと強い風が吹く。いや、風はずっと吹いていた。日が落ちて気温が下がり、世界は冷たく閉ざされたことから余計にその冷たさが身にしみたのだ。もはやこの世界は強い風の音しか聞こえぬ、全てが死に絶えたかのような荒廃した世界。
いや、理屈はわかっている。気温の上昇というものは地表を照らす陽光によってもたらされるのだ。そんなことは基礎だ。理学部生ならみんな知っている。
けれどもこれが本当の夜、というものなのか。
東京の科学の光の届かぬ異界で圧倒的な闇に慄きながら、すでにその境界不確かな世界の端から見上げると、幾億という星がチラチラと煌めいていた。それが静かに、世界を照らしていた。あたかも仏の幽けき導きのように。そしてそれは背後にそびえ立つ富士の頂につながっている。
この雲の上の世界のさらに頂に神がいる。
確かに、そうとしか思われない景色だった。それは理屈とは完全に無関係に、すとんと俺の中におちてきた。
気づくと皆が空を見上げていた。
先程まで疲労困憊だったというのに、ただただ揃って、ぽかんと空を見上げていた。
そうしてこの暗く冷たい世界の中で待ち望むのだ。世界の再生を。太陽たる大日如来の訪れを。世界に等しく光を降り注ぎ、温め育てるその仏を。
……そう考えると、やはりここに造化三神を持ってくるのはやはり不似合いではないか、と思う。
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