冗談はよし子さん

香久山 ゆみ

冗談はよし子さん

「うふふ! うそうそ、冗談よ」

「やだ、もう。そんなことで怒ったらだめですよ。冗談じゃないですかー」

 ピリついた課内の雰囲気をもろともせず、よし子さんが明るい声を出す。その一言でその場の空気を一新するみたいに。

「えー、ごめんね。冗談だよぉ、本気にしないでぇ」

 よし子さんがへらっと笑う。

 私はよし子さんが嫌いだ。何でも「冗談」と言えば許されると思っている人種。

 新入社員の時に、学生気分が抜けていないと格好を注意されて、必死で女性誌などで勉強してビジネスメークやオフィスカジュアルなど一式揃えて、満を持して週明け出社した。同僚の評判は上々だった。

「おはようございます!」

 自信満々でよし子さんに挨拶した。

「やだ、どうしたの。イメチェン? 可愛がられたいからって、急に女を出してくるとか引いちゃうよぉ? ここ、職場だからね」

「えっ」

 仰る意味が分からず固まってしまった。先週「芋臭い」と言ったのも彼女だし、これ見よがしに雑誌を貸してくれたのも彼女だ。

「でも私、よし子さんに言われた通りに……」

「そこまでやれって言ってないし、新人が先輩よりいい物身につけて平然としてるとか信じられない」

 半べそをかいていると、課長が通り掛った。

「おはよう。相沢もずいぶん社会人らしくなったな。いい物を身につけていると、それだけで取引先の信用も上がるからな。これもよし子君の指導の賜物だな。……おや、どうした。元気ないじゃないか」

「いえ、あの」

「課長ったら、ガールズトークに入ってこないでくださぁい」

 よし子さんが一オクターブ高い声を出す。

「なあに、本気にしたの。冗談よ冗談! 社会に出たらこんな事ざらにあるからね」

 課長が去ってから言われた。私はその夜、数万かけて揃えた化粧品も服も全部捨てた。

 以来、よし子さんのことは信用していない。

 結婚が決まった同僚にしつこく相手の写真を見せろと迫った挙句、「えーなんか老けてるねえ」と口にして、場の空気が悪くなったとみるや「うふふ、冗談よ! 優しそうな人じゃない」と言って済ませる。

 幼稚園から子の発熱の連絡が入り、慌てて引継して早退する女性に対して、「あーあ早退できるとか羨ましい」と口にして、巡り巡ってそれを耳にした上司から苦言を刺されると「冗談なのに、ハラスメントとか大袈裟!」と笑って誤魔化す。

「冗談じゃん、本気にしないでぇ」と甘い声を出された時にはさすがにくらくらした。自分が承認した資料の不備を後輩のせいにして、「この子ってそういう抜けたところがあるから」と課長と一緒になって責め立てた奴の言うことか。

 そして今、課を上げた一大事に直面している。

 誰かさんが取り次いだ電話の内容が間違っていて、慌てて往訪するためのアポで先方の名前を間違えて、挙句に取引先に渡す資料にはライバル会社の名前が記載されていて、引っ張ってきたデータも一昨年のものだった。そんなこんなで大口の取引先を失おうとしている。その「誰か」とは、若手の私だったり、育休明けの同僚だったり、課長だったりする。課内に沈痛な雰囲気が流れる中、場違いに黄色い声が響く。

「やだ、冗談じゃないですかぁ! こんな時こそユーモアですよ、ユーモア。懐のでかさ見せてくださいよー」

 よし子さんだ。

 なぜだか、よし子さんが取引先の重役と電話をしている。別に指名したわけでも指名されたわけでもなく、ただ、鳴った電話をよし子さんが取っただけだ。それは、うちとの契約を打ち切るという大事な電話のはずだ。なのに、課長にも部長にも取り次がれることなく、ずっとよし子さんが喋っている。たぶん、第一声で「はぁーい」と電話口に出たことを叱られているのだろう。それにしては長い。課内に嫌な汗が流れる。結局、誰に引き継がれることもなく受話器は置かれた。

 本日午後にアポを取ったから早く資料を作り直してくださいと言うよし子さんを、みんなでぽかんと見つめる。よし子さんは、冗談でしょって顔をした。

「ほんと、うちの人達って冗談が通じないんだから! あんな大口、簡単に切れるわけないでしょ」

 それでなんだかんだで収まるべきところに収まって事なきを得た。

 翌年、私は会社を辞めて、国際NGOに参加した。ビジネス社会の「冗談」に自分が慣れる気がしなかったから。

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