第7話

「露竜」


──懐かしい声がする。


 露竜ははっと目を冷ますと温かい胸に抱かれていることに気がつく。


「主上? なぜこの様なところに」

「人のことはいい。それよりも、来てみれば露竜が倒れていて肝が冷えた」


 青い顔をして露竜を見つめる主上。気がつけば露竜の手の甲の傷が手当てされていた。


──もしや薬を届けに? 


「すまない」

「なぜ謝るのです」

「雨を降らせることは負担だろう」


 露竜の手に目を落とし泣きそうな顔をする主上。


──この人は、まったく……。


「父が亡くなって、わたしは身寄りがなくなりました。娼婦になるしかなかったところで主上が救ってくださった」

「だが」

「平気です」


──主上。


 そっと躊躇いがちに露竜は主上の頬に触れた。主上はそのまま、そっと手を重ねる。温かい。


「もう。名を呼んではくれないのか」

「畏れ多いです」


──瀏彩。


 ふわりっと窓から湿気の含んだ風が入ってきた。主上の懐から首紐を通した匂袋がコロリと顔を出す。それを見て露竜の瞳が揺れた。


「そんな安物の匂袋。うに捨てたと」

「捨てはせん。この地獄のような宮に行く俺を案じて……が作ってくれた物だ」

「そんな不釣り合いな物など捨てていいのですよ」


 露竜は顔を歪ませる。主上は頭を振る。


「離さない。肌身離さず持ち続ける。他はいらない」


 変わらず子供のようだ。

 もう匂袋の香りも微かにしかしない。


「離すものか」


 露竜の胸がツキと痛んだ。そんな顔しないで。泣かないで。口から出てしまいそうになる。


 ささっと煙る雨が降りだした。どうやら甘雨が無事に雨粒を空に届けたようだ。灰色に染まった蠢く空に露竜は安堵する。龍神さまが鱗を光らせて雲の中をゆっくりと泳いでいた。


「つゆ……」


 静かに降る雨が主上の震える声をぼやかす。白く煙る雨が後宮の景色をすべて覆い隠す。美しい木々や花も今は幻のように朧。


「りゅ…彩」


 露竜が小さく唇を開くと、ぴくりと主上の指が跳ねた。驚いたあと主上は柔らかく微笑する。


──ああ。


 露竜は込み上げる思いを飲み込んだ。

 この笑顔を守れるならば、なんにでもなろう。こんな命などいらない。


 雨を降らす。それだけは、誰であろうと譲らない。譲れない。


「露竜」


 声をかすれさせながら主上はあの日にように何度も露竜の名を呼んだ。


──ああ、狂おしいほどに、愛おしい。


 雨音を聞きながら露竜の脳裏に宰相と孫の欄華の悔しがる顔が浮かんだ。

 主上はそっと優しく露竜の頬に触れ、羽のように撫でつけた。見つめ合う。


──この時間が止まればいい。


 さあさあと雨は降る。すべてを覆い隠すように。いつまでも。


 不意に、そっと唇に温かく柔らかな感触が掠めた。心が震える。


──ああ、どうか今だけは……。私は瀏彩のものでありたい。


 しだいに雨足は深くなる。白く煙る雨。静かに後宮を包んだ。

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後宮の雨 甘月鈴音 @suzu96

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