第6話 恋人

薄墨色の空。雲が星を覆い隠し、隙間から月が顔をのぞかせている。


こっちゃんはいつだって夜中にやってくる。限界まで疲れている様子で、眉間には皺が寄り、足元はおぼつかない。怒っているようにもみえる。何も言わず、部屋の奥まで入ってくると、唐突にまっさらな巨大のキャンバスにかきなぐり始めた。俺はそんなこっちゃんを後ろから静かに見守る。こうやってぎらぎらしているこっちゃんは存在感をびしびしと感じるのにどこか儚げで、目を離した一瞬の隙に消えてしまいそうだった。


こっちゃんは着ている服が汚れることを気にせず、どんどんとキャンバスに色を重ねてゆく。赤と黒が混じった心の叫びが具現化されてゆく。生と死の境目で、生き続けるために懸命に筆を振っている。


暑くなったのか、こっちゃんはシャツを脱ぎ、上半身はブラジャー一枚になった。

だんだんと気分が高まり、色を塗りながら静かに泣き始めた。それでも、その涙を懸命に拭いながら絵を完成させてゆく。熱くて湿った空気がこちらに流れ込んでくる。


筆が手から落ち、赤色が床にはねた。膝を抱え、顔を伏せて泣いている。俺はその頼りなげな背中を後ろから抱きしめた。行き場失った熱が肌越しに伝わる。


「抱いて」こっちゃんは小さく呟いた。


俺は返事の代わりに首筋にキスをした。それから、背骨を伝うように上から下へキスを落とす。ホックを外し、成熟しきらない小ぶりな乳房を優しく手で包んだ。


「こっち向いて」俺がそう言うと、こっちゃんは首を横に振った。


「キス、できないよ」耳元でささやくと、こっちゃんはおずおずと振り向いた。涙を親指でふき取り、ついばむようなキスをした。


「ベッド行こう」


俺はこっちゃんをお姫様だっこして、そろりとシーツの上に降ろした。青色に染まった手を絡ませる。ふとももや背中を優しくさすりながら、こっちゃんの唾液をすべて吸い取るように口を重ねた。


甘い声を響かせながらこっちゃんはみだらに腰を振っている。何度逝っても、もっともっととうわごとのように繰り返している。


こっちゃんが死んでしまわぬように俺が繋ぎ止めなければ。


目の前にある存在が消えて無くなってしまわぬように、ぎゅっと固く抱きしめた。



心から愛した人が夢の中にでてきた。日常を切り取った夢は今でもこっちゃんが生きているんじゃないかと俺を錯覚させてしまう。


俺は何とも言えない茫漠とした思いを抱え、一人ベッドに沈む。もうこの世にいなくて、触れることができなくて、声も聴けず、彼女の涙さえ拭うことが出来ない。そんな事実を受け入れることなどできない。もう、俺を夢の中に閉じ込めて、一生そこから抜け出せないようにしてくれ。そう心の中で神様に願ってみる。けれど、俺は息をして、涙を流して、彼女のいないこの世界で生きている。生きてしまっている。


俺は、どこにでもいる絵の道をあきらめた一介の花屋の店員で、彼女はその客だった。セーラー服姿で来るたびに一時間以上悩んで花を買ってゆく姿は印象的だった。花と絵以外に興味がなく、ネットもテレビも見ないおれは同僚から彼女がすごく有名人だということを知った。


六個上の俺を愛してくれた彼女はいわば俺とは別の世界に住んでる人だった。人に求められ、その要求に応えなければいけないような人だった。


世間からは天使という愛称で知られているようだったけど、正直俺は彼女は天使なんかじゃないと思った。すごく人間臭くて、でも間違いなく普通の人とは違う何かをもっていて、天使の毛皮をかぶった化け物だ。ふとすると俺は喰われてしまうんじゃないかと恐怖につつまれる。でも、そのぞくりとさせるような表情は生にしがみつく彼女にしか生み出せない芸術品で、俺しかみたことないんだと思い、いつも優越感を感じていた。


体をなんとか起こして、洗面台に行き、顔を水で洗った。顔を上げると、鏡に映るもう一人の俺がこちらを向いていた。目は血走り、頬はコケている。肌は荒れ、髭や髪の毛は伸ばし放題で変わり果てた自分の姿にぎょっとした。まるでこれじゃ俺が化け物みたいじゃないか。


俺はシャワーを浴び、体を丁寧に洗った。洗顔フォームを顔につけ、髭を剃った。体の水分をふき取り、髪の毛をドライヤーにあてた。新しい清潔な下着と衣服を身に着けると、いくらかまともになった気がする。


台所でコーヒーを入れた。無意識にカップ二つ分をテーブルに置いていた。座って、彼女を呼ぼうとしたところで消えてしまった存在を思い出した。心を落ち着けるかのようにインクのように真っ黒い液体を口つけた。その時、壁にかかっているカレンダーが目についた。今日の日付けに赤い丸がついている。


今日という日が彼女が行きたがっていた祭りの日だということを思い出した。

一か月も前のことだ。俺たちはベッド上で微睡んでいた。どこかで鳥が鳴く声が聞こえる。

こっちゃんはスマホのスクリーンを俺にみせて言った。

「ねぇこの日一緒にお祭り行こう?」

「仕事あるんじゃない?」こっちゃんの携帯の画面には赤色を主とした祭りのポスターが映しだされていた。

「絶対空けるから」

「こっちゃんが行ったら大騒ぎにならない?」こっちゃんの負担になるんじゃないかか心配だった。

「大丈夫だよ。私ね、今までちゃんとお祭り行ったことなかったの。だからね、可愛い浴衣着て、一緒にお祭り行って、屋台でいろいろ買って、花火みたい!」

「分かった。俺も開けとく」楽しそうにはしゃぐこっちゃんを見て、俺もなんだか心が知らず知らずのうちに口角が上がっていた。

「やった楽しみにしてるね」こっちゃんは笑ってそう言った。


そんな会話が思い出される。

コップを机の上に置き、立ち上がった。クローゼットを開くと、淡い水色に白の糸で綺麗に刺繍された浴衣、そして白色のレースがついた帯が丁寧にハンガーにかかっていた。お母さんにばれないようにと俺の家に入れさせてと持ってきていたのだ。小さな透明の袋にはピアスと髪飾りも入っていた。


こっちゃんが着た姿を見たかったと心の底から思った。


俺はハンガーラックから浴衣を外し、ギュっと抱きしめた。匂いや影など、こっちゃんが残していったものを少しでも感じていたかった。


 今着ている洋服を脱いで、浴衣に袖を通してみた。なんとなく思うままに帯をしめてみた。できた、と思ったのもつかの間、歩くたびにあちらこちらが綻び、すぐにはだけてしまった。携帯で「浴衣 着付け方」検索し、書かれているように着つけてみた。あちこちに皺が寄りお腹らへんがごわごわして、不格好だった。もう一度帯をほどいて、今度は締め付けをきつくし、しわを伸ばすことを意識して浴衣を着た。少しばかり足元が短い気もしたが、そこまで気にするほどではない。今度は歩いてもはだけることはなかった。髪飾りをつけ、シルバーの揺れるピアスを耳の穴にさした。そして、彼女が置いていった口紅をつけた。


 部屋の真ん中に座り、目を閉じた。

 

逢魔が時。

財布を袂に入れ、靴を履いて家を出た。夕日が空を焦がし、茜色に染まっていた。空気はたっぷりと湿り気を含み、隅っこには暑さがまだ居座っている。


 神社に向けて歩を進める。目的地に近づくにつれて人の騒めきが大きくなっていく。


浴衣を着た男女が、下駄を鳴らしながら俺の目の前を通り過ぎていった。闇夜に俺の存在が溶け込む。


赤い鳥居が楽しそうにひっそりと私たちを見守っている。煙とともに焦げたソースの匂いが漂ってきた。人込みに流されながらそろりとそろりと歩く。


 焼きそば。りんご飴。冷やしパイン。金魚掬い。わたあめ。お面。お好み焼き。かき氷。


買えるだけ目につく屋台ですべてを買った。こっちゃんが欲しかったものを全て買いたかった。


提灯の光は心を溶かしてくれる。こっちゃんとやっぱり一緒に来たかった。そう思わずにはいられなかった。


右肩がどんとぶつかり、左足を踏まれた。いつのまにか胸元にはイカ焼きのたれがべっとりついている。俺はふーっとため息をつき、人混みから抜けて、ひっそりとした会談に腰かけた。木が風で揺らめいている。


いっぱいの食べ物を脇に置き、ハンカチで胸元を拭う。綺麗な淡い水色が、汚く黒ずんでしまっていた。


空にはバケツをひっくり返したように星が煌めいていた。俺と、星。正反対の場所にいる。俺もそちら側に行きたかった。鼻の奥がつんとした。


「お姉さん、俺たちと一緒に花火見ない?穴場お勧めするよ」うしろからそんな声が聞こえた。後ろを振り向くと、若い男二人組がにやにやしながら立っていた。「なんだ男じゃん」「オカマかよ」「えっ、そういう趣味?」「きっも」「バケモンじゃん」顔を見た瞬間続けざまに言葉を吐き捨てると、俺を睨んで人込みに消えていった。


その刹那、大きな轟音とともに色とりどりの花が舞っていた。

あぁ綺麗だな。心に温かい液体が染み込んでいくよう。

イチゴクレープをほおばった。生クリームが暑さでドロドロに溶けている。かろうじて入っている薄くて水っぽいイチゴを噛み、飲み込んだ。

真っ赤に塗られた唇の周りに生クリームがついている。


軽快な音と共に闇夜に大量の光をばらまいた。

浴衣を着た化け物が照らされている。

 




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色を患う 茶茶 @tya_tya00

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