桜の翁

楠木千歳

桜の翁

 春の匂いがする。

 匂い、といっても、ただ単に嗅覚だけでそれを感じ取る訳では無い。頬に当たるぬるくなった柔らかい風や、すれ違う人のコートの色。街ゆく人がどことなく軽やかな足取りになる。そして、僅かに香る陽だまりの暖かい匂いと春を告げる花々の香りが混ざりあって、春の匂いを形作っていくのだ。


 なんて、詩人めいたことを考えてみたりして。


 榛名(はるな)涼太(りょうた)はそこまで思考を巡らせてから、ふ、と乾いた笑みを口元に浮かべた。


 見上げていた桜の木から視線を外して振り返れば、延々と続く桜並木とその下で騒ぐ人々を見渡せる。今を盛りと咲く満開の桜は風に乗せられ川面に散り、花見を楽しむ人々を盛り上げていた。


 今日は彼が所属する部署内総出の花見会である。新入社員の歓迎会を兼ねて毎年行われるこの花見は、花曇りや花冷えと呼ばれる天候の気まぐれを一度も被ることなく毎年開催されていた。

 部長曰く、「俺が究極の晴れ男だからな!」とのこと。嘘か本当かはともかく、曇はあっても雨に降られたことがないのは事実だった。


 本当は一人でする花見の方が好きなんだけど、ね。そういうわけにもいかないし。


 心の中で呟きながら、配られた缶ビールを一口、呷(あお)る。酒に強い方ではないが、飲めないというわけでもない。口の中で泡が弾けて、苦味が広がった。場所取りをするためにテントの中で一夜を明かした涼太の目元には、僅かな疲労が滲んでいた。これも若手の仕事の一つだから、仕方がない。


 同じくテント待機勢だった仲の良い同期のひとりは早々に酔いがまわり始めたのか、片っ端から女性に声をかけてすげなくあしらわれていた。いや、元々そういうキャラクターだったような気もするな、と涼太は考えた。誰に対しても調子が良いが、どこか憎めない。気づけば懐深くに飛び込まれている。そうだ、彼はそういうタイプだ。

 

 皆で交流を深める花見も嫌いではないが、一人で桜を眺めて物思いに耽る方が好きだなあ、と涼太はもう一度思った。他人から言わせれば「物静か」などと言われる自分には、そちらの方が性に合っている。

 時折早起きして、まだ人気の少ないこの河川敷の道をゆっくり歩きながら出社するのが涼太の数少ない楽しみのうちの一つである。早朝、ちょうど日ののぼり始めるくらいのまだ薄ら寒い時間帯。誰もいない場所で眺める桜のひと枝ほど美しく見えることは無い。朝焼けに深呼吸をして花を震わせるような桜の姿が、涼太は好きだった。


 帰り道に踊る夜桜も好きだ。朝が「美しい」なら、夜には「麗しい」という言葉がしっくりくるだろうか。月明かりの夜桜を都会で見ることは叶わないが、街灯に照らされる幻想的な光景には、思わず帰るのも忘れて立ち尽くし見とれてしまう。濡れることのない桜の雨は、時間より見つめる方に力が入ってしまう砂時計の砂と似ているかもしれない。


「願はくは 花の下にて 春死なむ

その如月の 望月の頃」


 そう詠んだのは誰だったか。

 口に出してみたが、どうも作者は思い出せそうになかった。有名な歌人だったような気はするけれども。

 古典の授業は先生が嫌いで、申し訳程度にしか聞かなかった。それでもこの和歌だけは、初めて聞いたあの日からこびり付いて離れない。

 鮮烈な歌だな、と思った。燃えるような熱い想いの和歌だな、と。

 

 詠人(よみびと)の気持ちは分からないでもない。だが「花の下で死にたい」と比喩を使わずにはっきりと言い切るくらいなのだから、この人は相当な桜好きだったに違いない。


 さわり、と枝が風に揺れた。

 花吹雪がゆっくりと舞った。


「榛名くんもこっちくればー?」

「そうだよ、お話しよーよー」


 向こうの騒ぎは収まりそうになく、ついに涼太にまで声がかかる。涼太はつきそうになるため息を懸命にこらえた。


 桜の花は美しい。愛でられて然るべき価値がある。だがそれと、賑やかに花見――もといかこつけた合コンもどきをする事はまた別だ。

 毎年こうも騒がれて酒をこぼされる事を考えると、桜も大変だなあと思いを馳せずにはいられないのだった。

 美人も時には罪である、とは、人に限らないのかもしれない。

 近頃は酔っ払ってかそうでないのか、桜を手折る花見客も多いようである。いっそ桜そのものがなければ、問題も激減するのではないだろうか、とは、少々極論すぎるだろうか。

 

 呼びかけを無視して思考の海に浸かる。少しだけ目を閉じて、春の陽だまりに身を任せてみる。

 本物の海に浸かったかのような浮遊感が、彼を襲ったその時だった。



「『花見むと 群れつつ人の 来るのみぞ

あたら桜の 咎(とが)にはありける』」



 突然、聞き覚えのない声が耳を打った。


「……え?」

「そんな顔を、しておられますよ」


 はっとして目を開けた。しわがれたその声の主を探して涼太は首をぐるりと回す。聞き間違いでは無い。はっきりと、自分に向けて話しかけられている言葉だった。


「ここです。こちら、こちら」


 はらり。

 手の甲に花弁が舞い降りた。と同時に、涼太の目の前に突如として人影が現れた。涼太は思わずのけぞった。


「う、うわっ」

「驚かせてしまいましたかな。これは失礼」


 年老いた男性が、緩やかに微笑む。

 間違いなく先ほどの声の主だった。涼太が絶句していると「お隣、よろしいかな」と断りを入れてさっさとブルーシートの空きスペースに着席してしまう。次の言葉を探してあたふたしている涼太を尻目に、老人は穏やかな笑みを湛えたままで「良き眺めですなあ」と呟いた。


「あ、あの、失礼ですが、どちら様で」


 それだけ聞くのがやっとだった。涼太は目をぱちくりとさせながら、突然現れた『彼』を上から下まで眺め回した。


 彼はどこか浮世離れしていて――そう、例えばその服装が和服であるとか、その衣が薄い薄い桜色であるとか――とにかく異質そのものだった。顎から長く髭を垂らし、その白い髭と髪に桜の花弁を載せ、老人は涼太の目の前に存在していた。


「私は――いえ、名乗るほどの者でもありませぬ。強いていえば、桜の精とでも申しましょうか」

「桜の、精」


 信じられなかった。

 涼太は思わず目を瞬かせ、そしてふと、自分の足元から先程まであったはずの青いビニールシートが消え失せていることに気づく。代わりに敷かれていたのは茣蓙(ござ)だった。傍に先程まで騒いでいた同期や上司、後輩といった人影は掻き消え、ただただ静寂だけが横たわっていた。

 まるで、『この世』ではない世界へ迷い込んでしまったかのような感覚に捕らわれる。

 

「こ、ここは――?」

「浮世の花見がつまらなさそうだったので。ご案内したのです」


 答えになっているようでなっていない返事が戻ってくる。涼太はあまりの事に声も出ず、反論も怒りも出来ないままぽかんと老人の顔を見つめた。

 身動きが取れなかった、が正しい。人間を超越した何か、が確かに目の前に存在していて、受け入れざるを得なかった。


「昔、あなたのように浮かない顔をして、花見客を疎ましく思った者がおりました」

「……はあ」

「その者が詠んだのが、先の和歌です。

『花見むと 群れつつ人の 来るのみぞ

 あたら桜の 咎(とが)にはありける』」

「……へえ」


 老人は可笑しそうにくつくつと笑った。涼太は黙ってそれを聞く。


「我らは無心で咲き、無心で散るもの。この時を生きるのに懸命である我らに、何の咎がありましょう?」

「……それは」

「煩わしいも好きも嫌いも、人の心が決めることでありましょう。我らは与えられた場所で、精一杯を生きて咲き、歳を重ねてゆくだけです。それを誰が責められましょうか。そう問うと、彼は私の言う通りだと言って詫びました。いやはや、あの時の慌てぶりといったら……」


 昔を懐かしむようにして目を細め、彼は長い顎髭(あごひげ)を撫でつけた。花がひとひら、彼の膝の上にはらりと落ちた。


「彼は彼なりに、私を案じてくれたのかも知れませぬ。ただ自らの静寂を乱す者が煩わしいと思っただけでなく。好奇の目に晒される私をあはれと思い、その上で私の美しさを称えてくれようとした言い回しだったのかも知れませぬ」


 今となっては分からぬことですが、と彼は言葉を途切れさせた。

 時が止まったかのような沈黙が、二人の間に訪れた。再び老人が口を開くまでの間、涼太はただひたすら砂時計のように落ちる桜吹雪を見つめていた。


「私は――好きですよ。私の下で人々が集い、楽しそうに踊るのも、歌うのも、笑うのも。ですから――」


 ざあ、と風が強く吹いて、思わず涼太は目を閉じる。

 次に目を開けた時には、『彼』の姿はどこにも無かった。





 ブルーシート、片手に持った缶ビール。酔っ払う人々の群れ。


「今の――何だったんだ?」


 涼太は呆然として呟いた。

 答えをくれる人はいない。 


「おい榛名(はるな)、なに初っ端から船漕いんでんだよ。花見は始まったばっかりだぞ」


 先の調子の良い同期が、涼太の傍へやって来た。

 

「俺、寝てたの?」

「自覚なしかよ。思いっきり寝てたぜ」

「……着物のご老人も、夢……」

「うわ、完全に寝ぼけてるし」


 大丈夫か、と強めに背中を叩かれて、うっと涼太は呻いた。たっぷり入ったビールの缶から中身がちゃぷん、と少し零れる。同期の彼は一切意に介さず、がははと豪快に笑い声を立てた。


「しっかし……ここの花見も来年はどうなるか分かんねえとなると、ちょっと寂しいよな」

「え、なんで」

「最近ニュースとかでやってるの、知らねえ? なんか最近、観光客とか花見客の中で枝を折っちゃう人が増えてんだってさ。だから自治体で花見自体禁止しようかって話が出てるらしいって」

「そんな」


 美しい花を我が物にしようと思うのだろうか。ニュースが急に現実味を帯びる。涼太は眉根を寄せて顎に手をやった。


「身近な問題だとは思わなかった。観光名所だけじゃないんだ」

「ああ。話題になるくらいだからけっこう被害があるんだろ。ひっどい話だよな」

 

 大げさにため息をつく同僚に、涼太は同意の頷きを返す。


「桜の花に咎はないのに」

「ん?」

「一生懸命生きてる桜に謂(いわ)れもない罪を着せたら、可哀想(かわいそう)だよねって話」


 同僚の顔が間抜け面になって涼太をまじまじと見つめた。首をかしげて「お前、なんか変なもんでも食った?」と聞いてくる彼にいや別に、と答えながら、涼太は頭上に広がる桜の花を見上げた。


「みんなで楽しむのが、一番いいのにね」

「まあ、普通に考えてそりゃそうだろ。俺は花より団子派だけど」



 彼は「お前もこっち来いよ」と誘うのを忘れずに、輪の中へと戻っていった。


 天を覆い隠さんばかりに花開く桜は、まるで霞か雲のようだ。確かそんな和歌もあった気がするな、と記憶の糸を手繰りながら、涼太はふっと脳裏を掠めた名前を拾い上げる。


「……思い出した。西行だ」


 退屈に授業を聞いたあの日も確か、校庭には桜が咲いていた。

 満開の桜の下で昼寝をしたらどんなに気持ちがいいだろうかと考えながら、窓の外を眺めていた。




願はくは 花の下にて 春死なむ

その如月の 望月の頃




 昼寝はおろか、その下で死にたいとまで言う人がいようとは。

 板書を写しながら、軽く驚いた、それだけは覚えている。

 憧れというには強烈すぎるその願望は、詠人(よみびと)の焼けつくような渇きを伴っている気がして仕方がなかった。その歌を涼太の心に刻みつけるには、十分な刃だった。

 月夜。鮮やかに浮かぶ桜に、儚くも力強い凛としたその姿に、彼は心惹かれ続けたに違いない。


 西行は願い叶ってか、満月の夜、桜吹雪舞い散る花の下で亡くなったという。

 

「桜の精になったのかもな」


 夢と現の狭間に現れた老人を思い出しながら、涼太はもう一度そっと目を閉じた。







雲にまがふ 花の下にて ながむれば

朧に月は 見ゆるなりける


春風の 花を散らすと 見る夢は

さめても胸の さわぐなりけり




――西行

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桜の翁 楠木千歳 @ahonoko237

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