檸檬

朽木真文

「ねぇ、今日キスの日らしいよ?」

「ねぇ、今日キスの日らしいよ?」


 彼女は隣でそう告げる。

 同級生で、周囲に馴染めなかった同士。こんな話題が出て来ても、互いに恋愛感情がある訳では無い。

 俺以外は。

 跳ねる鼓動を隠すように、弁当の具が喉に詰まった事を装い胸を数度叩くと、彼女は心配そうに俺の顔を覗き込む。


「だいじょぶ?」

「……モーマンタイ。で、何だっけ?」


 咄嗟に顔を逸らすと、遠くにいる他の生徒に眼が留まった。

 校舎の広い中庭で弁当を食べるのは、何も俺達だけでない。そして、こんな日だ。キョロキョロと辺りを見渡した上で唇を重ね合わせる男女が視界に入り、慌てて視線を弁当に落とした。

 今この顔を見られたくない。きっと赤く染まっている事だろう。


「キスの日。映画が由来なんだって。日本初めてのキスシーン」

「へー」

「ちゃんと聞いてる? そういえばさ、ファーストキスはレモンの味って言うじゃん? あれ嘘らしいよ」

「だろうな」


 俺が素っ気なく返すと、彼女は残念そうに「えー! 知ってたのー!?」と声を上げ、彼女の弁当の中に入っていた唐揚げを頬張った。同時に酸っぱいもの好きの彼女は、八等分されたくし切りのレモンにかぶりつく。

 話題の切れ目。暫くの沈黙が俺達の間に満ちる。中庭の自然を眺めながら弁当を貪るだけ。そんな時間。

 でも何処かで聞いただけなんだ。本当にそうか、君と試してみたい。なんて言えたら、どれだけ楽だろうか。そしてもしそれが彼女に受け入れられたのならば。

 好きだ。

 笑い合いたい。触れあいたい。壊れたレコードのように、呆れる程好きと言い合いたい。貪るように舌を絡ませ、唾液を交換したい。そしてその先も、君としたい。

 なんて、言えたら。


「……ねぇ」


 身体がびくりと跳ねる。不純な妄想をすぐに振り払い、すぐに友達としての声を用意する。


「ん?」

「…………したくない?」


 快活な彼女には似つかず、まるで素人が投げたボールのように彼女の言葉は不安定な飛行をしていた。

 横目で、仄かに朱を帯びた彼女の顔を見る。どこか遠くを見つめていた彼女の視線の先を追うと、先刻のカップルが未だ口と口を交わしている。

 余りにも情熱的だ。それ程二人は、愛し合っているのか。

 彼女がその様子を見ながら吐いた言葉の真意を、理解できない程俺も馬鹿じゃない。ただそれが本当か、確認したかっただけ。


「…………何を?」


 鼓動が跳ねている。期待が胸を満たし膨らませている。ただ同時に、後悔が頭の中を駆け巡っていた。

 いつものように俺をからかっているだけだったら。訊き返したことでキスのチャンスが消えたら。不安と後悔が駆け巡る。ただ、彼女の前にいる以上頭を抱える訳にもいかない。

 期待満々で気持ちが悪い。でも、君とキスできるのならば俺は――――。


「キス」


 そんな不安を打ち砕く、彼女の二文字。

 鼓動が、今まで生きてきた中で最も跳ねていると言っても過言では無い。自身の恋愛経験の無さを、生れて初めて心から恨んだ。

 したい。したいよ、他の誰でもない。君とキスがしたかったんだ。

 言わなきゃ、言いたい。君とだけしたい。

 一生とも言えるような沈黙。俺は漸く、口を開く。


「したい」

「…………ん」


 小さな声に視線を向けると、彼女は上目遣いで眼を閉じ、唇を差し出していた。そう、待っている。

 身体が勝手に動く。

 弁当が手から滑り落ちる。弁当箱と箸が地面に転がる乾いた音が、小さく響いた。

 右手で彼女の肩を引き寄せた。左手で彼女の頭の後ろに手を寄せ、唇で彼女の鼻息を感じる距離まで顔を近付ける。


 ――――。


 違和感と、クエン酸の味。


ひっかっかっかー引っ掛かったー


 唇を離し、顔を遠ざけると、彼女はニヤリと笑い歯を見せつけた。

 白く、少し歯並びの悪い彼女の歯ではない。マウスピースのように嵌めた檸檬の皮を、その子供っぽい無邪気な笑顔と共に。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

檸檬 朽木真文 @ramuramu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ