芥田

畳の上に寝転がり、雨の音を聞いていた。

湿った空気。据えた匂い。遠くで雷鳴が聞こえた気がした。時計で時刻を確認しようとするが、暗くて見えなかった。

また、兄のことを思い出していた。

かくれんぼで俺を見つけたのに、見つからないふりをしていてくれたこと。母が大事にしていたマグカップを、俺が壊してしまったのに、俺を庇って代わりに怒られてくれたこと。色々な記憶が泡のように煌めき、すぐに消えた。しんとした部屋が、俺を現実へ引き戻した。

「恵海」

振り返り、息を呑む。

廊下にソレはいた。

「俺と一緒に来ないか」

兄さん。

あの日のままの笑顔。

けれど目は真っ黒で、まるで光が無い。

ソレはゆらりゆらりと体を揺らして、じいっとこちらを見ていた。

「兄さん」

「恵海。俺と一緒に来いよ」

声も形も兄さんだが、これは兄さんではない。直感でそう感じた。

足が彼の方へ勝手に動いた。

恐怖よりも嬉しさが勝った。

兄さん、兄さん。

大好きな、兄さん。

またその手で、俺の頭を撫でてよ。

「恵海。恵海」兄さんの形をしたナニカが、俺の名を呼ぶ。俺が歩みを進める度に、ソレは嬉しそうに、ぎこちなく腕を前に動かした。兄さんのものにしては、細すぎる腕。それも俺は見ないふりをした。

ナニカの前へ来る。

「兄さん。一緒にどこへ行くの?」

「お前がずっと、行きたがっていた場所だよ」

「海かい?兄さん、先に行ってしまって、ずるかったなぁ」力なく笑う。「一緒に死ぬって決めたじゃないか」

「海、海。そう、海だよ」

不自然な返し。それでも俺は嬉しくて、ふふと笑った。

幼い頃、家族で一緒に行った海。父さんも母さんもいたあの頃。兄さんが俺の手を握ってくれた。あたたかで、あの頃は兄さんをとても大きく感じた。今でもそうだ。兄さんは俺よりもずっとずっと、大きい人だ。

「でもいいよ、兄さん…許すよ。兄さんも、苦しかったんだものね。俺も兄さんと一緒に苦しむよ。」ナニカの胸にそっと頬を押し付ける。

「行こうか」ナニカの手が俺の背に触れる。恐ろしく冷たかった。

「うん」俺はナニカの、兄さんの懐かしい顔を見上げ、幸せそうに笑った。

「眠るといい。すぐに着くからね」

「うん、兄さん」


遊園地へ行った時。

俺は足を痛めて、兄におんぶをしてもらった。父さんがおんぶすると言ったけれど、兄はきかなかった。俺は嬉しかった。大好きな兄の背にしがみついて眠った。とても幸せな夢を見た。


その時のように、兄の胸の中で眠った。


束の間の夢。

大好きで、尊敬する兄さんの、夢。

兄さん、兄さん。

俺が大切に大切に抱きしめていた、兄さんとの思い出。


目の前が暗くなる。

瞼の裏で、兄と幼い日にとった、白い蝶を見た。

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芥田 @chitose0

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