第2話

「さとちゃん、車には気をつけるんよ」

「……おん」

 母親の注意喚起をうんざりしながら聞き流し、慧衣さとい綺麗きれいに手入れされている通学用のローファーをく。

 履き終わると、つま先をトントンと二回床に叩きつけ、右手にこっそりと隠した、兄の部屋の鍵をぎゅっと握りしめた。

「ほな、行ってくる」

 母にさとられないかとヒヤヒヤとする慧衣をよそに、母親は呑気のんきな笑顔で慧衣を見送った。


無駄むだに広い家…)

 玄関前のだだっ広い造園ぞうえんを歩きながら、慧衣はつくづくそう思う。たった四人しかおらず、内一人は滅多めったに帰ってきもしないのだから、こんなに広くなくても、アパートで良かったんじゃないか…とまで思う。

「あ、柚木ゆき

 数十歩歩き、ようやく見えたもんを出た先に、いつも通り耳下でふたつに結び、サイドを三つみした、幼なじみの神堂柚木しんどうゆきが風に髪をなびかせながら立っていた。腰に巻いた灰色のカーディガンがよく似合っている。

「おはよう」

 優しく微笑ほほえむ柚木。しかし、その顔にはどこか影があり、瞳の奥は笑っていなかった。それにしても昔から端正たんせいな顔立ちをしているなぁ、と慧衣は思う。

 この伊勢湾口いせわんこうに位置する人口五百人程度のちっぽけな島には小学校も中学校も高校もひとつしかなく、クラスも各学年ひとクラス。歳の近い子供は勿論、同年代なんて家族も同然のように仲がいい。柚木は、とくに。母親同士が幼なじみなのもあるだろう。

「はよう行こう、遅れる」

 柚木は慧衣の手をとり、ずんずんと前へ進み出す。

 もうすでに柚木は慧衣の手をにぎってはいなかったが、ひんやりとしたその手を慧衣は離さなかった。まるで、執着心の現れかのように。


「…慧衣、さっきから何を握っとるん?」

 隣り合わせに歩いている道中、柚木は急に足を止め、そう問いかけながら慧衣の右手に自身の手を重ね、固く握られた手をほどくように優しく触れる。

 開かれたその手は、びついた鉄の匂いがみ付いていた。

「鍵? なんで鍵なんか持っとるん? これ、慧衣んとこの家の鍵ちゃうんに、どこの───」

「やめえや、なんでもええやろ」

 顔をしかめながら、無造作むぞうさに制服のポケットに鍵を突っ込み、一人でズカズカと歩き出す慧衣に、柚木は内心舌打ちをした。

 慧衣もまた、その舌打ちを感じ取ったかのように心の中で舌打ちをした。

 いや沈黙ちんもくが流れる。二人は、黙々もくもくと通学路についていた。

 歩き進めたあと、二人は曲がり角で見知った顔を見つけた。

いつきやん。おはようさん」

 慧衣が相手の名前を呼ぶ。そこで、ようやく気まずい空気が絶える。

「樹、おはよう」

 それに続いて、柚木も『樹』に朝の挨拶をする。

「…え、あ……いや、は? え、いやいやなん…え───」

 いつもならここでニカッと歯を見せて笑い、気さくに返事をしてくれる、同級生のひとりである鏡堂きょうどういつき。しかし、今日は違う。

 樹は見るからに困惑こんわくのオーラをまとい、こちらを見ては狼狽うろたえている。

「どなしいたん、なんか変───」

 柚木が顔を覗き込んだ瞬間、樹は顔をゆがめる。なにかに怯えるように一歩後ろへ下がると、声にならない悲鳴をあげている。

「はぁ? どないしたん、樹。ほんま変やで…」

 いつもヘラヘラしている樹に限って、何をそんなに怯えているのか。心配の声をかける慧衣とは裏腹に、柚木は自身の魅力的な三白眼で、樹に睨みを利かせていた。

 まるで、樹が怯えている理由を知っているかのように───

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哀愁漂う、君の横顔。 フミアキ @fumi29

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