エピローグ(後編)

◆◇◆◇



 青く晴れ渡った空。

 暖かに照りつく陽射し。

 朝を越えて、既に正午の刻。

 雲一つない、清々しい景色。

 天井は鮮やかな一色に染まり。

 七月の風が、仄かに吹き抜ける。


 引きの構図から、寄りの構図へ。

 空を映す“画面”は、パッと次のシーンへ。

 缶ジュースを呷る、私の姿。

 青空。喉元。手元。“ドクペ”の缶。

 視点(カット)が淡々と切り替わる。


 本日は快晴なり。ごくり、ごくり。

 気付けの“ドクペ”、最後の一杯。

 飄々と飲み干して、中身を空っぽにする。

 ――ひょい。がしゃん。

 空になった缶を、ゴミ箱へと放った。

 箱の中で空き缶同士が衝突する。


 一杯飲み終えて、ゴミ箱を尻目にして。

 再び大通りへと出て、視界(カメラ)が開かれる。


 人々が、行き交う。

 無数の色彩が緩やかに入り混じる。

 幾つもの姿が視界を横切っていく。

 群衆が、河川のように流れていく。

 都内。大都会。繁華街。

 今日は、なんてことのない平日だというのに。

 大通りは、少なくない人混みで交錯していた。


 人々は規範や道徳を背負って、波を作り出す。

 真っ当な良心と規律を運び込んで、整えられた道を敷き詰めていく。

 そこで生きられない“誰か”は路地裏に隠れて、ひっそりと蛇になっていく。

 表を歩く“群衆”は街の影を覆い隠し、やがて善と悪を曖昧に掻き消していく。

 何処かへと追いやられた“何か”を無色透明にしながら、街は回り続ける。


 誰が悪いという訳じゃない。

 それが罪なのかも断じられない。

 ただそれが、社会というものだった。

 そういうふうに、社会は作られていた。

 そうやって、社会は止め処なく動いていく。


 そんな濁流が、あの“まむし”の禍の中では、ほんの一瞬だけ堰き止められていた。

 あの日々において、蛇たちは陰から這い出ていた。


 あの日の“私たち”は、路地裏を彷徨っていた。

 いまの“私”は、もう表通りを歩いている。

 人として生まれて、いつしか人に成り損ねて。

 やがて蛇になって、つがいを見つけて。

 何かを喪った果てに、ようやく人に成れた。


 私たちは蛇だったけれど。

 蛇から人に生まれ変われるのなら。

 きっとそれが何よりに決まってる。

 私だけじゃなくて、誰もが同じだ。

 みんな、人でいたかったんだから。

 誰だって、独りは寂しいのだから。


 人になれなかった蛇がうごめき。

 人になれずにひっそり消えていく。

 灰色の街は、遠い記憶の中にある。

 あの場で誰かが生きて、終わりを迎えた。

 何処にも行けないまま、彼方へ去っていった。

 この喧騒の中に、日向の世界に、還れないまま。

 

 だから私は、最後まで。

 あの思い出を、忘れたくない。


 ニコちゃんがいなくなってから7年。

 街はとうの昔から、群衆で溢れていた。 

 あの頃の静寂は、もう何処にもない。

 けれど私たちは、確かに此処にいた。




 

『雨海さん』

『はい』


『いきなりなんだけどね』

『はい』


『たまには休暇取ってね?』

『あっはい』


『いつも頑張ってくれてて、助かるけど』

『はい』


『こういう仕事なんだから、無茶しちゃ駄目だよ』

『すみません』


『あ、そうだ』

『はい』


『食べる?川田さんのお土産のクッキー』

『勿論ですとも』





 元パパ活女子。

 現介護福祉士。

 雨海 依渡、21歳。

 有給休暇を取ることになった。


 “雨海さんって有給とか全然消化してないんだから、たまには取得してね”とのことだった。

 別にわざわざ休暇貰ってまでやりたいことも無いし、この仕事も好きだったので特に気にしてなかった。

 けれど、やはり有給取らずに働き通しでは色々と良くないらしい。


 気が付けばすっかり仕事人間になっている。子供の頃には考えられない姿だったなあ、と改めて思ってしまう。

 ふと“知り合い”と久々に会うことを考えて、その人と連絡を取って、予定を合わせて休みを取ることにした。


 レザーのベレー帽。白黒の柄物シャツに、黒いショートパンツ。

 足に履いているのは“マーチン”の8ホールブーツ。

 アクセサリーは、左手薬指の“へび”のリングだけ。

 大人になっても“サブカル”な趣味は変わらない。やっぱり、こういうのが好きなのだ。


 休日にやることと言えば――お洒落して街をぶらついて、適当に時間を過ごすくらいだ。

 カフェで黄昏れてみたり、新しい服でも探してみたり。そうしてぼんやりと自由な時間を費やす。

 たまに児童養護施設にいた頃の友達から連絡が来て、一緒にお出かけしたりもする。


 ある意味で昔と変わらない、何気ない一時だったけれど。

 違うことがあるとすれば。この街からはもう簡単に抜け出せて、すんなり自宅に帰れること。

 そして、隣には誰もいないということだった。


 大通り――総合ディスカウントストアの向こう側。

 電灯の傍にゴミ袋が散乱していたり、かあかあとカラスが留まっていたり、あちこちにキャッチらしき人が立ってたり。

 雑多な景色とは裏腹に、すれ違う人々はすんなりとこの街を楽しんでいる。

 顔を上げてみれば、ランドマークの大きな映画館が通りの向こう側にそびえ立つ――建物からは大怪獣のオブジェが顔を覗かせる。

 何年も前から、この街はずっと怪獣に見下されている。人々からは観光名所として親しまれているそうな。


 親子連れとか、カップルとか、外人の観光客と何度もすれ違う。

 あちこちで記念写真を撮ったり、買い物した手提げ袋を携えていたり。

 観光客はみんな遠くから来て、この国を満喫しているらしい。

 ニコちゃんと二人で彷徨っていた“街”に、もう孤独の匂いなんてものはない。


 ランドマークの映画館。その屋上にある大怪獣のオブジェ。

 私はそいつをじっと見上げて、何気なく睨んでみる。

 なんだか偉そうに見えたから、しばらく凝視してみた。

 けれど大怪獣は、同じ表情のまま沈黙し続けて。

 ――そうして、怪獣の口元が突如として発光した。


 私は思わずびっくりしたけど、直後に大通りのスピーカーから怪獣の鳴き声が轟く。

 外人の観光客はその様子を見て、嬉しそうに怪獣へとカメラを向けていた。

 そういえばあの怪獣、一定時間おきに口が発光して鳴き声を発するギミックがあるらしい。

 久々に来たので忘れていた。怪獣を睨んで怒られたのかと思っていた。


 何とも間抜けな自分をちょっぴり恥じらいながら、私は再び歩き出す。

 そのへんに転がるゴミをひょいっと避けたり、キャッチに話しかけられてもさらっと無視したり。

 昔と同じような歩調で私は映画館の前に辿り着き、突き当たって左側の道へと進む。

 映画館のビルを回り込むように、私は歩き続ける。

 道行く人々とすれ違いながら。


 映画館のビルのすぐ側では、ゲームセンターの入った建物が向かい合っている。

 その奥側にはもう一軒の高層ビル――ほんの数年前に新しくできた商業施設が建っていた。

 まるで街を見下ろすように聳えるビルの狭間に、その広間は存在していた。


 大手映画館――“トーオーシネマ”。その真横にある大広場。

 人呼んで“シネ横”。少年少女の溜まり場として社会問題となった場所。

 家出、不登校、非行、貧困、面白半分、ミーハー根性、その他諸々。

 様々な理由によって集まった若者達が、此処でコミュニティを築いていた。


 今となっては、どうか。

 イベント会場として使われるようになった広場は、無断使用を防ぐべくバリケードに囲まれている。

 広場の近くには厳つい外見をした警備員達が佇んでおり、周囲に目を光らせている。

 テレビで報じられて良くも悪くも有名になったことに加えて、定期的に一斉補導が行われているのだ。

 7年前に訪れた時のような“居場所”はもう無い。


 ――尤も、別に広場が使えなくなっただけなので、“シネ横界隈”の少年少女は普通にいる。

 広場ではなく、映画館ビルのすぐ傍の歩道で普通にたむろしているのである。

 警備員は彼らを見守ってこそいるが、積極的に介入はしない。

 法に反するような行為をしない限りは“あくまで少年少女がつるんでいるだけ”なのだから。


 昔と比べれば数は少ないし、7年前にいたメンバーはもう一人もいない。

 それでも彼らは界隈の名前を受け継いで、今でもこの街に彷徨っている。

 逸れ者達の寄り合いとして、街の片隅に存在している。


 私は、かつての記憶を振り返って。

 何処か、寂しいような、切ないような。

 そんな不思議な思いを抱いた。


 あの日の私も、この街に迷い込んで。

 そうして路地裏に留まって、逸れ者として生き続けた。

 けれど今の私は、この街から簡単に抜け出せる。

 

 真っ当に生きて、真っ当に学校へと通って、真っ当に大人になって、真っ当にお金を稼いで。

 そうなればもう、きちんと電車に乗るだけで帰る場所へと向かうことができる。

 “普通に生きる”という道のりを進むことは、私にとってひどく長い旅路だった。


 今の私は、地を這う蛇じゃない。 

 街を行き交う群衆の一員――つまり、人だ。

 私はもう、路地裏の外に飛び出している。

 幻想に沈んでいた青春の日々は、遠い記憶の果てにある。


 それでも、私は歩き続けている。

 いつかきっと、虹の彼方でまた“あの娘”と出会えることを信じてるから。

 

 たむろする“シネ横”界隈や警備員達を尻目に、私は通り過ぎていく。

 “待ち合わせ”場所はもう少し先。ゲームセンターが入っているビルの向こう側。

 道路を挟んだ先にある交番の前で待ち合わせで――つまり、間もなく辿り着くのだ。


 “彼”と会うのは、7年ぶりだった。

 あの“まむし禍”。ニコちゃんと過ごした最後の数日間。

 私達はトシキくんの店へと向かう直前に、シネ横へと訪れて。

 そこで“彼”と出会った――それきり、ずっと会っていなかった。


 だから、本当に久しぶりだった。

 あの街に迷い込み、あの静寂を知っている。

 “まむし”の出現で沈黙して、人になれなかった“誰か”が蠢いた。

 そんな束の間の日々を知る、唯一の知り合いだった。


 あの日々の中で私は誰かと出会って、そして別れ続けた。

 みんな、あの街の雑踏へと消えていった。

 けれど“彼”だけは連絡が取れて、また会うことが出来る相手だった。


 なんだか、不思議な感じがする。

 数年越しの再開ということもあるけれど。

 あの日々に出会った相手と、また顔を合わせる日が来たことに。


 こちらから何となしに連絡を入れてみて、向こうが承諾してくれて。

 そうしてお互いの都合がいい日に休みを入れて、こうして会うことになった。

 あれから、7年もの月日が流れたのだ。

 色々と話せることはあるだろうと、物思いに耽っていた矢先。


「お」

「あ」


 ――ふいに、目が合った。

 道路の先、交番の横に立てられた掲示板。

 そのすぐ傍に立つ“お兄さん”が、私に気づいた。

 

 私と歳が近い、若い男の人だった。

 お互いに硬直したように立ち止まって、互いに見つめ合う。

  

 あまり背は高くなくて、童顔ぎみの可愛らしい顔立ち。

 爽やかな雰囲気の、黒髪のショートヘア。

 オーバーサイズの黒い長袖Tシャツに、同じく黒のカーゴパンツ。

 全身を黒系統で纏めてて、シュッとした印象だった。

 そして右耳にだけリング状のピアスを付けているのが見える。


「えっと」


 その男の子と私は、じっと見つめあって。

 少し困惑しつつも、向こうが言葉を零した。


「イトさん……ですよね?」


 名前を呼びかけられて。

 私は確信したように頷く。


「うん」


 “あの日”の面影があった。

 遠い記憶の中に、その顔が存在していた。


「久しぶり」


 私は“彼”と会う約束をしていた。

 ざっと7年――あの“まむし禍”以来の再会だった。

 私達はかつて、街の雑踏で出会っていた。


「ヨスガくん」


 波江 縁嘉(なみえ よすが)くん。

 あの日の“シネ横”で出会った男の子。

 今ではもう、すっかり成長していた。





 ジャンクホップ。

 気ままに這い回った、まむしの物語。

 死にゆく友達と過ごした、私の物語。

 今度こそ、最後の話。





 チェーンの喫茶店。ビルの2階に入った店舗。

 小綺麗で広々とした内装に、幾つかの座席が並ぶ。

 平日の日中だからか、サラリーマンや学生らしき人達が店内の客を占めている――ノートPCで何か作業していたり、打ち合わせか何かをしていたり、あるいは大学生とかが勉強してたり。


 奥側にある窓際の座席、小さなテーブルを挟んで私達は向かい合っていた。

 お互いにアイスコーヒーを頼んでいたけど、私もヨスガくんもミルクたっぷりである。

 変なところで気が合うようだ。


 ヨスガくん、今は22歳。

 “まむし”禍のシネ横で出会って、その時に連絡先を交換し合っていた。

 連絡を交換したことに大した理由は無かった。

 あのときヨスガくんが会話の流れの中で何気なく提案して、そういうことになっただけだった。

 

 けれど私はあれからすぐに養護施設へと入って、クスリやめたり勉強したりとか、自分のことで手一杯になった。

 だからそれ以降、連絡を取り合うことも無かった。

 そうして自然に疎遠になって、それぞれの人生を歩んだ。何てことはない、それだけのこと。


 職場から休暇を取ることを勧められたけど、特に休みを取ってまでやることが浮かばなくて。

 そんな中で、ふいにヨスガくんのことを思い返した。

 元気だろうか。今なにやってるんだろう。そんな他愛もない疑問を抱いて、何気なく連絡を取ってみた。

 そうしたら向こうも応えてくれて、予定の合う日に会う話になって、それで今に至る。

 再会した私達は、互いの7年間の話について花を咲かせていた。


 ヨスガくんは大学4年で、これからNPO法人に務めるとのことだった。

 貧困、虐待、非行、性的志向。様々な要因で社会に居場所を持てない“子供達”の支援を目的とした団体だそうだ。


 自分の過去や経験が、今に繋がっている。

 人が死んでいくことを見つめた私が、人の終わりに寄り添う仕事を選んだように。

 ヨスガくんも、何処にも行けない子供達のために生きることを選んでいる。

 きっと誰もがそうやって、未来へと進んでいくのだろう。


 私も久々にヨスガくんと再会して、自分の身の上を彼に話した。

 あれからニコちゃんを喪ったこと。クスリも売春もやめて、児童養護施設に入ったこと。

 専門学校で勉強して、今では介護士になっていること。

 私がこれまで歩んできた道のりを打ち明けた――ヨスガくんは、私の話を静かに受け止めてくれた。


 ただひとつ、“トシキくん”のことだけは話さなかった。

 “へび頭”の宇宙人と遭遇したなんて話が、余りにも荒唐無稽だったのもあるけど。

 なんとなく、秘密にしないといけない話のような気がしたから――あれは子供の頃の私が出会った、御伽噺なのだ。


 都会に迷い込んだアリスは、あの日ジャバウォックに出会った。

 私達と“トシキくん”の邂逅は、きっとそういうものだった。

 だから私の思い出として内に秘めて、何事もなく会話を続ける。


「え――ヨスガくん、いま彼氏いるの?」

「はい。同じ大学の子と付き合ってて」


 そうして言葉を交わしていた矢先。

 私は思わぬ話を知ることになった。


 曰く、同じ大学に通ってる同い年の男の子らしく。

 ボランティアに関するサークルで出会い、同じ性的志向だったことで気が合って、悩みや日々の思いを色々と共有するようになったそうだ。

 そうして一緒に過ごしていく内に自然と惹かれ合って、交際へと至ったらしい。

 大学卒業を機に同棲する話も出ているとのことだ。紛うことなき、立派なパートナーである。


 率直に言えば、私は少し驚いていた。

 ヨスガくんは、ユイくんが好きで。

 ユイくんと死に別れてからも、ずっとそのことを胸に抱いている。

 彼のこれまでの話を聞いてて、そういうことだと思っていたから。


 だから私も、その疑問についてヨスガくんに投げ掛けようとして。

 けれど躊躇いもあったから、少しばかり口籠って――コーヒーを啜って、物思いに耽ったりして。

 それからヨスガくんの方が、私の考えてることを察したように、ぽつりと呟き始めた。


「……ユイのことは、今でも大事です」


 ヨスガくんは寂しげに、ほんのりと笑みを浮かべる。

 その微笑みは切ないけれど、後悔や未練とは少し違うもので。

 かつての思い出を噛み締めるように、静かに言葉を紡いでいる。


「けれど。あいつは最後に、おれの幸せを祈ってくれたから……」


 “お前は何処にだって行ける”。“どうか幸せに”。

 あの日のヨスガくんは、ユイくんから電話越しにそう言われたらしくて。

 その言葉を振り返るように、ヨスガくんは語る。 


「おれは、今をちゃんと生きたいって思っています」


 そうしてヨスガくんは、真っ直ぐな眼差しと共に、そう言った。

 迷いも後悔もなく、自分の想いに正直に――言葉を紡いだヨスガくんは、前向きに私を見つめていた。

 そんな姿を見て、私はヨスガくんの意思を察した。


「だから、ユイも……今の恋人も。どっちも大切な人なんです」


 私がニコちゃんを葬って、お別れを受け入れたのと同じように。

 ヨスガくんもきっと、彼なりにユイくんとのお別れに区切りをつけたのだろう。

 はにかむような微笑むを見せるヨスガくんを、私は何処か安堵するように見つめていた。


 ――自分は幸せで。共に支え合える人がいて。ちゃんと前を向いて歩いている。

 ヨスガくんは、ユイくんの祈りを胸に抱いて、真っ直ぐに生き続けていた。

 だからこそヨスガくんは、ユイくんとの離別を自分なりに受け止めている。

 そうしてヨスガくんは、過去を受け入れながら、新しい愛と手を繋いでいる。

 きっとそれはユイくんに背中を押されたからこそ踏み出せたのだと、私は悟った。


 私の脳裏に、ニコちゃんの姿が浮かぶ。

 私の隣にいてくれた友達。孤独な私に寄り添ってくれた、大好きなひと。

 何処か遠くを見つめながら、何処にも行けなくて。そんな日々を一緒に過ごしてくれた女の子。

 

 あの頃の私達は、きっと刹那を信じていた。

 自分達の価値をお金にして、未来をガラクタにする。

 ちっぽけで空っぽな青春に、私とニコちゃんは身を捧げていた。

 このまま死んでもいい。この一瞬に浸って、ずっと二人で一緒にいたい。

 あの路地裏の隅で、お互いに最後まで寄り添っていたい。


 けれど、私はニコちゃんとお別れした。

 “まむし”に感染して、“ばか”になって、最後の旅路を過ごして――あの娘は、遠い虹の彼方にいってしまった。

 そして私は、トシキくんのバースデーを通じて、ニコちゃんを葬ることに決めた。


「不思議なんだよね」


 あの頃の私達は――私は。

 そんなふうに生きて、死ぬんだと思っていた。


「“どこにも行けない”って信じてたのに」


 けれど、ニコちゃんはいなくなって。

 私はこうして、今も生きている。

 ボロボロの身体を引きずっているけど。


「こうして、どこかに辿り着いてる」


 私はもう、大人になったのだ。

 それが今でも、不思議な感じがする。

 雨海 依渡はいま、真っ当に生きている。

 

 確かな現実であるのに、時おり自分が夢でも見ているような気がしてくる。

 前を向いて生きることを選んだ今でも――そんなことを、ふいに思ってしまう瞬間がある。


 “ヨスガくんは、私たちと違う”。

 7年前の私は、確かにそう思っていた。

 彼はちゃんと大人になれると分かってて、私達とは違うと感じていた。

 けれど今は、ヨスガくんに奇妙な共感を抱いていた。


 私とヨスガくんは、気が付けば同じ道を歩んでいた。

 あの街に迷い込んで、何かを見つけて、何かを失って。

 その果てに、自分の未来を見出したのだから。

 

「みんな、未来を見つけられないから」


 やがてヨスガくんは、呟き始める。

 私の感情に対して、自分なりの思いを語るように。

 

「自分の手で、未来を捨てようとするんです」


 そして、“私達”が何だったのか。

 “あの街”に迷い込んだ人達は何だったのか。

 ヨスガくんは、自分なりの言葉で振り返る。


「信じられるものを見失ったから、“自分は生きるに値しない”って思い込もうとする」


 私達は、何処にも行けない。

 私達は、何処にも辿り着けない。

 私達は、がらくたみたいに生きている。

 私達は、自分が死ぬことさえも軽んじる。

 私達は、きっと生きるに値しない。


 あの日の私達は、自分を呪うすべを探していた。

 信じられるものを喪って、真っ当に生きることが分からなくなったから。

 前を向く勇気も、何かを知る勇気もなかったから。

 だから私達は、自分を壊していく快楽に身を沈めていた。


 かつての私達は、路地裏を彷徨う蛇だった。

 そしてこの街には、私達と同じように、生きる道を踏み外した“誰か”が存在していた。

 みんな救われなくて、みんな真っ直ぐに歩けないから、この街の中へと溶け落ちていった。


「……そうして社会の外側を彷徨うことが、“誰か”にとって救いになっているのも確かです」


 ヨスガくんは、あくまでそのことを否定しなかった。

 それはきっと、“シネ横”の一員としてあの時間を過ごしていたから。

 あのささやかなコミュニティが“誰か”にとっての居場所になっていたことを、彼は知っているから。

 そしてヨスガくん自身も、それに救われていた。


「でも……本当は、みんなで助けなきゃいけないんです」


 その上で、ヨスガくんはそう言った。

 彼の一言に、私は記憶を蘇らせた。


 ――あたしはさ。

 ――こんな生き方しないで済むんなら。

 ――それが一番だと思うよ。


 かつて、ニコちゃんが言っていたこと。

 あの言葉が、脳裏をよぎっていた。


 居場所のない子供がいる。

 居場所のない大人がいる。

 自分の行き着く先を見つけられなくて。

 未来を得られず、与えられもしなかった。

 そんな“誰か”が、この世界にいる。


 社会の外側に、彼らが救われるような居場所がある。

 それはきっと、何よりも慈しいことなのだろう。

 けれど本当は――誰もそうならずに、皆が真っ直ぐに人生を歩める世界があるべきなのだと。

 あの日ニコちゃんと出会っていたからこそ、私は理解していた。

 

「だからおれは、“誰か”の哀しみに寄り添える世の中を作りたいです」


 そして、ヨスガくんもそれを知っていた。

 かつてユイくんと出会って、ユイくんと別れてしまったから。


 社会の外側に逸れ者の居場所があって、逸れ者同士で寄り合う。

 それだけでは、根本的な歪みは変わらない。

 誰も独りにならずに済む。日の当たる道を歩いていける。

 そんな世界があってほしい。

 誰かに寄り添いながら、世の中を変える努力をしたい。

 それが、ヨスガくんの願いだった。

  

 だからこそ、彼はこの道を歩んだのだろう。

 その上で、私は――ひとつの疑問を投げかける。


「それは、責任?」


 “ユイくん”を救えなかったこと。

 その責任を、償おうとしているようにも見えたから。

 それが辛い重荷を背負う決意ではないことを、確かめたかった。

 

「責任……というより」


 けれど、ヨスガくんは目を伏せて。

 ほんの少し考えてから、視線を上げた。


「祈りみたいなものです」


 そうして彼は、はっきりと答える。


「せめておれは、自分に出来ることをやりたい」


 その眼差しに、哀しみはなかった。

 ヨスガくんはちゃんと、微笑んでいた。

 そんな彼の姿を見て、私の中にあった最後の懸念は、さっぱりと振り払われた。


 ――ごめんね、こんなこと聞いて。

 ヨスガくんへの問い掛けについて謝罪の一言を入れて、私は言葉を続ける。


「子供も、大人も……“ひとり”は辛いんだよね」

「だから、傍に誰かが居てほしいんだと思います」


 お互いに噛み締めるように、私達は遣り取りを交わす。

 私もヨスガくんも“あの街”にいたから、共感を抱ける。


 ヨスガくんが“子供の哀しみ”に寄り添うことを選んだように――私は、“人生の終わり”に寄り添うことを決めた。

 歩き始めた道は違うけれど、願うものはきっと同じ。私達はそれぞれの形で、誰かの傍に居ることを選んだのだ。


「……ユイも、おれも、そうだったから」


 そうしてヨスガくんの微笑みに、仄かな寂しさが宿った。

 かつての孤独を振り返るみたいに――あのとき孤独を背負っていた、大切な人を思い返すように。

 今のヨスガくんは、ずっと祈っている。誰かの孤独が癒されて、救われることを。

 ユイくんを喪った日から悲しみを抱えて、だからこそ前向きに生きること選べている。


「うん」

 

 きっと、そんなヨスガくんの優しさに。

 私の心もまた、癒やされていたのだと思う。

 ヨスガくんは、私の立派な“友達”だった。 


「わかるよ」


 ひとが救われる時というものは。

 自分が孤独ではないと、理解できた時だ。


「未来を見つけられなくて、ひとりが怖くて。

 だから、ニコちゃんと一緒に過ごして……ふたりで沈んでいった」


 私も、ニコちゃんも。

 ひとりぼっちは、辛かったのだ。


「後戻りなんてしなくていいって思ってた。

 何もかも終わらせて、何処にも行けないままでいいって思ってた。

 未来なんて捨てても構わない。そう信じて彷徨ってきた。

 けれど、本当はそうじゃなかった」

 

 そして、私は。


「ニコちゃんが居たから、私は“生きたい”って思えた」

 

 いっしょだったから、救われた。


「ニコちゃんと沈んだから、私は希望を見つけられた」


 ユイくんがいたから、ヨスガくんが踏み出せたのと同じ。


「ニコちゃんと、ずっと一緒だったから……」

 

 ニコちゃんがいたから、私は今を生きることが出来ている。

 だけど、ニコちゃんは――。


「あの娘だけが、あの街から抜け出せなかった」


 あの娘と二人で、未来を捨てようとして。

 あの娘から私は、未来を貰っていたのだ。

 あの娘の未来と、引き換えにして。

 ニコちゃんとのお別れを経て、私は生きている。


「……だから、私は」


 だからこそ、私は。

 ニコちゃんだけじゃない。

 トマリの死も背負っているからこそ、私は。


「前を向いて、生きたい」


 月並みだけれど、確かにそう思っていた。


「ニコちゃんとずっと一緒だった私だから」


 あの娘と二人で一つだったから、そう願っていた。


「私が胸を張って生きて、ニコちゃんの“終わり”を癒したい。

 ニコちゃんが生きて、死んだことの意味を、私が守りたい」


 あの娘を喪って、あの娘を弔って、あの娘がいない世界を生きている。

 そのことの意味を、私は胸に抱いて歩き続けたい。


「そして……他の誰かの“終わり”にも、寄り添いたい」


 あの街を彷徨って、あの街で未来を捨てて、あの街で死んでいく。

 そうやって皆が、遠い彼方へと行ってしまった。

 自分が生きるに値しない証を求めるみたいに、日陰へと沈んでいった。

 

 きっと、誰だって生きたかった。

 きっと、誰だって始まりはそうじゃなかった。

 諦めて、追い詰められて、何もかも駄目になって。

 そうして自分の未来を取り零してしまった。

 雁字搦めになって、今という夢の中に沈んでいった。

 それこそが、あの街を彷徨った“誰か”だった。


 私は、誰かが“死ぬこと”に触れ続けたから、この道を歩むことを決めた。

 これは私が決めた人生で、私が選んだ未来だった。

 私は、私なりに、生きることについて真っ直ぐで有りたかった。


「――ヨスガくん。お互い、頑張ろうね」


 人は、いつか終わる。どんな形であっても。

 だからせめて、それが慈しいものであってほしい。

 誰かの“終わり”に、寄り添っていきたい。

 それが、私の祈りだった。


 ――今、このとき。

 ――私は心の底から、生きたいって思ってた。


 私の想いを真剣に聞き届けて、ヨスガくんは静かに目を伏せる。

 私の言葉を噛み締めて、咀嚼するように。

 そうしてヨスガくんは、ゆっくりと目線を上げた。

 その口元に、穏やかな微笑みを浮かべて。

 私を真っ直ぐに見つめてから、彼は確かに頷いた。


「イトさんは、やっぱり」


 それから相槌の後に、ヨスガくんが口を開いた。


「ニコさんのことが、本当に大切だったんですね」


 その一言に、私は目を丸くして。

 そして、誇らしいような想いが込み上げてきた。


「――うん。勿論」


 だから私は、迷わずに答えた。


「ニコちゃんが、大好き」


 私にとって、それが始まりで。

 それこそが、全てだったから。


 窓の外からは、雑多な街並みが見えて。

 鮮やかな色彩の中で、人々が行き交う。

 少しずつ陽が傾き始めた青空が、ひどく輝いて見えた。

 優しい黄昏へと、向かっていくかのように。





 もしもし、ニコちゃん。

 聞こえてますか。

 あなたの相方、イトです。


 私ね、今日。

 新しい願い事ができたの。


 心のどこかで、ずっと諦めてたこと。

 施設に入った後に、医者の先生から言われたこと。

 そういうものなんだろうって、漠然と受け止めてたこと。


 私の命って、そんなに長くないみたい。

 虐待の後遺症とか。クスリのやりすぎとか。

 あとは、無症状の“まむし”に身体をやられてたこととか。

 色んな理由が重なっちゃって、私は早死にするかもしれないみたい。


 こうなって仕方ない生き方をしてきたから、ずっと割り切ってた。

 生きる努力はするけど、高望みはしないって考えてた。

 せめて短い人生を悔いなく生きたいって、そう思ってた。


 でも、でもね。ヨスガくんと話したから。

 ヨスガくんが、未来を信じているのを見たから。

 私達は独りじゃないって、改めて悟ったからこそ。

 私に、新しい願いができたんだ。


 ニコちゃん。私、おばあちゃんになるまで生きたい。

 また会える時は、随分と先になっちゃうかもだけど。

 私が過ごした長い人生のこと、いっぱい話してあげたい。


 おばあちゃんになって、ニコちゃんに言ってあげたい。

 “ニコちゃんがいたから、私は前へと進めた”って。

 “ニコちゃんから未来を貰って、最後まで生きられた”って。

 “ニコちゃんを胸に抱いたから、私は何処までも行けた”って。


 そして、遠い未来では、きっと。

 あの日よりも、世界はずっと優しくなっている。

 誰かの孤独に寄り添うような世の中になっている。

 私は、そう信じることを決めたから。


 そんな世界を、ニコちゃんに教えるためにも。

 そんな世界で、悔いなく生きられたと伝えるためにも。

 私は、もっともっと長生きして、笑顔で終わりたい。


 “愛は、人間に残された最後の信仰”。

 トシキくんも、そう言っていた。

 ニコちゃんが、私に愛をくれた。

 私は、祈りを胸に歩き続けている。


 今の私には、“神様”が着いている。

 希望を信じながら、踏み出している。

 私はもう、孤独じゃない。


 だからニコちゃん。安心してね。

 さようなら。どうかお元気で。

 またいつか、絶対に会おうね。




 

 喫茶店で語り合って、それから軽く散歩なんかをして。

 買い物なりゲーセンなり、緩やかな一時を過ごして。

 気がつけば日も暮れてきたから、お開きということになった。

 

「ね、ヨスガくん!」


 別れの言葉を伝えて、人混みの中へと向かおうとしたヨスガくん。

 そんな彼の後ろ姿へと、私は声を掛ける。

 夕焼けに照らされるように、ヨスガくんは振り返った。

 

「今日はありがとう!」


 私は、笑顔でそう告げた。

 会って良かった。話せて良かった。

 心からの想いを、言葉に乗せて。


「機会があったら、また会おうよ!」


 私は、声を張り上げる。

 そんな私の言葉に、ヨスガくんは目を丸くして。

 それから、私と同じように、嬉しそうな笑みを見せた。


「ヨスガくんは、私の友達だから!」


 お互いに、“あの街”の外に出て。

 そうして、前向きに生きることを選んだ。

 だからこそ、私達は結びつくことができる。


「お互い、悔いなく生きようね!」


 思い出を胸に。大切な人との記憶を胸に。

 これからも、一歩を踏み出そう。

 そんな願いを込めて、私は伝えた。


「――はい!」


 ヨスガくんは一言、そう答える。

 何処までも明快な声と共に、微笑みを浮かべた。

 その言葉と共に、私達は別れる。

 背を向けて、それぞれの人生へと再び歩き出す。





 永久に続くような旅行の果て。

 天国の扉を叩き、少女(アリス)は虹を渡った。

 夢の国には、もう戻れない。

 此処から先は、彼女の人生だ。

 100万ドルの価値がある、愛しい祈りを胸に。

 かつての少女は、跳んでいく。





 ずんちゃ、ずんちゃ、ずんちゃ――――。


 ヨスガくんと、束の間の一時を過ごして、お別れをして。

 私はひとり帰路につき、大通りを歩く。


 ずんちゃ、ずんちゃ、ずんちゃ――――。

 

 空は夕焼け。暖かな緋色の日差しが射す。

 穏やかな世界の中で、私はステップを刻むように歩く。

 

 ずんちゃ、ずんちゃ、ずんちゃ――――。


 耳に挿したイヤホンから、“あの娘”の好きな音楽が流れる。

 スマートフォンの音楽配信アプリで保存した楽曲。

 ニコちゃんがしょっちゅう聴いていた、眩い狂騒の音楽。


 ずんちゃ、ずんちゃ、ずんちゃ――――。


 跳ねて、踊るような電子音の旋律。

 シンセサイザーによる4つ打ちのリズム。


 ずんちゃ、ずんちゃ、ずんちゃ――――。


 幾度となく繰り返される陶酔のビート。

 極彩色の光が、脳裏で入り乱れる。


 ずんちゃ、ずんちゃ、ずんちゃ――――。


 ハウス・ミュージック。

 クラブで流れる、ダンサブルなサウンド。

 路地裏の奥底で奏でられる、アンダーグラウンドの賛歌。


 ずんちゃ、ずんちゃ、ずんちゃ――――。

 

 ニコちゃんも、ヨスガくんも言っていた。

 ハウスは元を辿れば“逸れ者”のための音楽だったらしい。

 人種とか、性的指向とか、そういう少数派の人達を肯定する音楽だった。

 社会の外側に置かれた人々にとって、それは自己解放の術だったそうだ。


 ずんちゃ、ずんちゃ、ずんちゃ――――。


 きっと誰もが、解放を求めている。

 孤独や苦悩から逃れる術を、探している。


 ずんちゃ、ずんちゃ、ずんちゃ――――。

 

 私達は、あの街に迷い込んだ人々は、そうして自分を壊すことを選んだ。

 何も信じられない世界の中で、未来を捨てることに溺れていった。


 ずんちゃ、ずんちゃ、ずんちゃ――――。


 けれど私は、あの街を抜け出したから。

 終わりゆく誰かを、見つめ続けたから。

 だからせめて、寄り添う道を選びたい。

 人が何処かへ辿り着く為に、祈りたい。


 ずんちゃ、ずんちゃ、ずんちゃ――――。

 

 この世界には愛があって、希望がある。

 それが誰かにとっての救いになると、私は信じ続けていきたい。

 前を向いて、ちゃんと長生きして、幸せになることを頑張りたい。


 ずんちゃ、ずんちゃ、ずんちゃ――――。

 

 だから、踊ろう。

 がらくたみたいな足取りでも。

 不器用な足取りであっても。


 私達は、何処にだって行ける。

 シャボン玉よりも、ずっと自由に。

 リズムに乗って、ビートを刻んで。

 例え“ばか”でも、前向きに進もう。

 旅の先には、きっと辿り着ける場所があるから。



「ニコちゃん!」



 さあ、行こう。

 何処までも――跳ぼう!



◆◇◆◇

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ジャンクホップ 里市 @shizuo_

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