アイスカフェラテ
楠木千歳
第1話
真っ青な空。広がる入道雲。
急に蝉時雨が降り始めて風の温度が上がったら、それはこの季節が始まる合図だ。
目玉焼きが出来そうな勢いで地面を焦がす太陽が、夏だ夏だと必要以上に騒ぎ立てている。
「……やっぱりいた」
そんな外の世界とは対照的な、日のあまり当たらない薄暗い教室の入口で、私はこっそり息をついた。
きっとガンガンにクーラーをかけて、まとわりつく湿度も追い出しているに違いない。
漆黒の髪。端正な横顔。時々何かを思い出すかのようにぐしゃりと握られる、制服のズボン。
後ろから分かることは、たったそれだけだ。
「あー先輩、またサボりですか?」
「やあ後輩、また来たんだね」
ガラリと開けた音に振り向きもせず、私の軽い口調にさえこちらを向かず、ただただ窓の外を眺めているその先輩は、口の端だけ上げて笑ったようだった。
案の定、ひやりとした空気が半袖の腕を這った。
「いいんですか、こんな所にいて」
「こう暑くっちゃ、外に出るのもかなわないしねえ」
答えのようなそうでないような返事をして、彼は相変わらず外を眺めている。
その瞳が何を映しているのか、私には分からない。いつだって先輩は、私の方なんて向いてはくれないのだから。
彼の物思いを邪魔するように、後ろから延々くだらないことを語りかけても、彼の顔がこちらに向いたことはついぞなかった。
あいづちはうってくれる。意見も言ってくれる。だけど私は、そんな彼の本音を知らない。
「もう、夏なんだな」
先に静寂を打ち破ったのは、珍しく先輩の方だった。
「そうですね。もう夏ですよ。夏と言えばなんですかね、先輩」
先輩の横顔が僅かに見えるお気に入りポジションの椅子をひいて、腰掛ける。唐突な私の問いに、彼はひとつ唸って顎に手を当てた。
「そうだなあ。やっぱりかき氷とか、海とかじゃないかな? あー、あとは、花火とか」
「つまらない回答ですね。そこはアイスカフェラテでしょ」
またしても唐突な私の言葉に、先輩はくつくつと肩を揺らす。
「なんで? どうしてそこでカフェラテ?」
「夏だからです。恋だからです。そしてアイスカフェラテだからです!」
「……ほんっとに君の発想って、ぶっ飛び過ぎてて面白いよね。もっと順序だてて説明をしてくれないと、凡人の俺には分からないよ」
手持ち無沙汰だった彼の手が、頭の後ろでゆっくりと組まれた。
「夏と言えば恋。それは分かりますよね」
「まずそこから分かんないけど」
「分かってください。そして恋と言えば苦くて甘い。違いますか?」
「俺の答えは華麗に無視かあ。で、恋? そういうものかな?」
ゴーイングマイウェイに話を進めるのはお約束。先輩が聞いていたっていなくたってどっちでもいいのだ。私の話を、彼が聞いてくれた。その事実だけが欲しいというワガママのために、私は毎日ここへ来る。
「苦くて甘いと言えば、カフェラテです」
「苦くて甘いならチョコレートでもいいんじゃないの」
「何を言ってるんですか。そんなありきたりな発想、面白くないでしょう!」
「君の頭の中はいつも面白いことでいっぱいそうだよね」
茶化した口調に思わず抗議しかけた時、横顔に見せた表情が言葉よりもずっと真剣で、私は何も言い返せなくなってしまった。口ごもったのを肯定と取ったのか、先輩は口先だけの笑いを乗せて次の質問を投げてくる。
「で? どうしてチョコよりもアイスカフェラテなの? 理由は面白味だけじゃないんでしょう」
喉まででかかった言葉を飲み込んだ。そんな表情を見せるくせに、いつだって肝心なことには踏み込ませてくれない。今だってそうだ。分かっていても、彼の質問に答えることにした自分が少しだけ嫌いだ。
「コーヒーって、もともと苦いものですよね。でも、ブラックコーヒーが飲めない人もカフェラテで砂糖入りなら飲みやすい。どうしてでしょう」
「そりゃあ…………苦味が緩和されるから」
「そう。つまり、苦いものを苦いと意識しなくていいように、多少のごまかしをコーヒーに対して与えているわけです。そのことによって、飲む人はほんの少し、苦味を忘れて香りと甘さだけに酔うことができる。これってまさしく恋の縮図でしょ?」
恋なんてものは、もともと甘く作られてない。恋という名のブラックコーヒーに、砂糖とミルクをいれて、甘いと錯覚している。たったそれだけのことなのだ。
「なるほど、ね。後輩くんにとっての『恋』は、そういうものなんだね」
「そうですね。だから、『苦いのも分かっててそれでも飲み干せる』人とじゃないと、恋愛なんてしたくありませんね」
「……だから君は、臆病なのか」
ぽつりと落とされた、その一言に。
張り裂けそうな胸の痛みが、これ以上ないほどに私の声を蝕んだ。
脈拍が煩い。彼の声と言葉と存在以外、何も見えない暗闇に突き落とされる。まだ口をつけていないはずの「アイスカフェラテ」が、喉の奥を伝う。
そんな私を知ってか知らずか、先輩は相変わらず窓の外を眺めながら話を続けた。
「確かに、苦いけど。それ、ぼうっと見極めてるうちに氷が溶けて、不味くなっちゃうんじゃない?」
「……それは、どういう」
「案外、飲まれるのを待ってるかもよ。そのアイスカフェラテ」
先輩が音もなく椅子から立ち上がった。呆気にとられて彼の背中を見つめている私を、初めて、彼の両目が映し出した。直後に呟かれた一言は低すぎて、聞き取ることが出来ない。
「え……?」
「なんでもないよ。君が今どんな顔をしてるのか、ふと気になっただけ」
そんなこと、ただの一度もなかったくせに。
あんなに焦がれた彼の瞳なのに、いざ私を見つけられるとどうしていいか分からなくなる。正面から私を捉えるその瞳を、ただ驚いて見つめ返すことしか出来ない。
彼の目は、初めてのはずなのにやけに懐かしく、少し苦くて甘やかだった。
「俺も、不味くなる前に飲もうかな。アイスカフェラテ」
意味深な一言を残して、彼は教室をあとにした。
「……人の気も、知らないで」
取り残された涼しい教室で、独り言が吸い込まれて消える。
ふわり。緩く描かれた口元の笑みとあの柔らかい眼差しを、私は一生忘れることが出来ないだろう。
どこまでがごまかされた味で、どこまでが真実の味なのか。それが私にはわからない。
正面から向き合えるようになるまでには、もう少し時間がかかるのか。それとも案外、お互いに近いところへ手を伸ばしあっているのか。
ただ一つ言えることは、彼を|飲み干す(・・・・)覚悟を決められるかどうか。それは私次第だということだけだった。
私の恋は、アイスカフェラテによく似ている。
アイスカフェラテ 楠木千歳 @ahonoko237
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