第2話 弟の誕生と祖父の死と小学生時代

1980年代4月某日午前2時頃、待望の弟滝沢光宏が生まれた。その日は季節外れの雪だった。窓ガラス越しに見る弟はとても可愛く小さかった。

 弟が生まれ母方の祖父母と同居生活が始まった。祖父西野光之助は情に厚く兄弟思いのお酒に弱い、でも孫は溺愛していたと思う。私が生まれた時は7段飾りの立派な雛人形を、弟が生まれた日には鯉のぼりを買ってきて直ぐ外に泳がせたので、近所の人は誰一人として男女どちらか聞いて来なかったと言う。

 祖父は山菜採りと家庭菜園が趣味で祖父が作った茄子で祖母が漬ける茄子の漬け物は親戚の評判が良かったとようだ。

 母も茄子の漬け物が好きだったなあと時々思い出す。

 

 タクシー運転手の父の給料だけでは生活が苦しく、母がパートをするようになり、弟は特例で2歳から幼稚園に入園した。私は小学1年生になった。

 私は幼稚園時代1ヶ月の半分以上を高熱で休むは熱性痙攣を起こすはで、あまり体は丈夫ではなかった。幼稚園時代割と足が早く徒競走では毎回2位だった。

 勉強も割りと得意で4歳でひらがなカタカの読み書き、小学校入学前にはかけ算も出来ていたと母が話していた。

 小学校と中学校のテストで90点以下は見たことがなかったと後々母から聞いた。小学1年生の担任に「勉強でも運動でも学年で1位じゃ無ければ、2位もビリも一緒」だと教わり、勉強は元々頑張ってしてなかったけど、運動会の個人競技は手を抜き後ろから2〜3番目位にゴール出来るように走った。手抜きなしで走るリレーや鬼ごっこ等の時は別人だねと友達に笑われた。元々がかなりの負けず嫌いで、小学1年生で親友になったさっちゃんとも、きっかけは登校時の歩行スピードで競っていたからだ。さっちゃんから「ねぇ、毎日競争ばかりしないで一緒に学校行かない?」と話しかけられ、家が近ったのもあり友達になった。

 

 小学1年生の秋頃……私はその日ずっと朝から体調不良で喉の奥に異物感があった。熱も40℃近くあり吐き気がするけども吐けないそんな感じで苦しかったのを良く覚えている。夕方位だっただろうか…母が手作りしてくれた白ブドウのジュースを飲んだ少し後、やっと喉の奥の異物感の正体を嘔吐出来た。母に喜んで報告に行くと母が真っ青になった。私は生まれて始めて吐血をしたのだ。直ぐに両親に小児科に連れて行かれ医師が「トマトか何か赤い食べ物を吐いただけだ」と言われた。吐いたものを検査した結果全て血液で間違いなく、そのまま緊急入院になった。両親は荷物を取りに一時帰宅。私は採血やらルート確保やらで大泣き。外来から病棟に看護師さんに連れて行かれた。入院中は母が泊まり込みで付き添いをしてくれた。吐血の原因は風邪のウイルスが胃に入ったからだと母から聞いた。私は1週間の絶食で、母は隠れて食事するのに大変だったと聞いた。同じ病室の同じ年のユキコちゃんと仲良くなった。一緒に折り紙をしたり入院生活は楽しかった。入院は1ヶ月半位かかりユキコちゃんも同時期に退院「退院後もまた遊ぼうね」とお互い帰宅した。

 

 小学2年生になりクラスが3クラスから4クラスになり、普通なら2年間担任は変わらないが変わった。今度の担任は全然授業のしない先生で、現在なら即クビになってるだろう…授業中は生徒は自由学習、担任は窓を開けタバコばかり。宿題も出さない先生で夏休みも冬休みも遊び放題。保護者から苦情が出ても「無理やり勉強させても意味がないから、本人が覚える気が無ければ無意味だと」返答したらしい。

 私が2年生の時、初めて1人で旭川から札幌の叔父さん叔母さんの所に遊びに行った。引っ込み思案な私にとって結構な葛藤の末の行動だった。当時私は叔母が大好きで夏休み、冬休みと1人で遊びに行った。小学6年生の時には、初めて弟も連れての2人旅。1人の時より緊張したのを今でも覚えてる。この時を最後に遊びに行くのをやめた。

 

 小学2年の確か冬だったと思う。祖父が脳梗塞で自宅の階段から転落。運悪く車椅子生活になった。その後何度も繰り返し寝たきり状態になった。祖母は祖父が亡くなるまでの約7年間祖父の介護をした。初期の頃は自宅で毎日祖父をお風呂に入れ、祖父の調子の悪い時はお風呂場で転倒。祖母に「ひかりの有りっ丈の力を貸して」と言われ頑張るも小学3年生の力なんてたかが知れてる。でも祖母と力を合わせて何とか車椅子に座らせたのを覚えてる。当時バリアフリーなんて皆無の時代だった。大きい病院ですら車椅子用で入れるトイレすらなく大変だった。祖父は車椅子な自分をよく思っておらず、人の目も気にするタイプだった。

それでも何度か祖父、祖母、両親、弟、叔父、叔母、イトコと旅行に行った思い出がある。中でも印象強いのは白老のバリアフリーの特別室の宿だ。それが祖父との最後の旅行だった。

何度目かの脳梗塞で完全な寝たきり状態に…一時はかなり危険な状態にもなった。療養型病院に転院してからも祖母は毎日家からバスを乗り継いで祖父に会いに行っていた。そんな生活も長くは続かず祖父は私が中学1年生の3月に亡くなった。最愛な人が亡くなって実感が湧いてくるのは時差があるのだと私は思う。祖母が取り乱し泣いたのは祖父が亡くなって50日を過ぎてからだった。当時は祖母の気持ちがよく分からなかったが今なら分かる。最愛な人が亡くなって心に空いた穴は時間で解決する問題じゃないのだ。何年経ってもけして塞がらない…ふとした瞬間に涙が溢れて止まらなくなる。何で私だけ置いていかれたのか、何で1人取り残すのかと考えてしまうのだ。

 

 話は戻り小学3年生になり担任は保護者からは評判の良い先生だった。私は小学校生活の中で3〜4年生の時の担任が1番嫌いだった。理由は保護者の前では凄く明るく振る舞う良い先生を演じ、生徒と接する時は別人の様に暗い先生だったからだ。私は小さい時から人に対して好き嫌いが激しく、嫌いな人の言うことは聞かない…今思えばとんでも無い事をしたし申し訳ないと反省しているが、当時宿題を提出しないで担任に「どうして出来るのにしないのか?参観日の時に教室に宿題をしていない子と教室の壁に掲示する」と言われ私は担任に「出来るなら掲示しても構わないけど困るのは先生の方じゃないの?」と答えた。私は宿題はやっていなかったのではなく、提出はしていなかっただけなので、4年生の終業式に2年間分の宿題を担任に提出した。とんでも無く最悪な問題児だったと思う。3〜4年生の時は友達に誘われバドミントンクラブに入ったが、準備運動が嫌いで終わった頃に参加して、試合だけ参加した日も少なくなかった。

 

 小学5〜6年生この時の担任が1番好きだった。クラスメイトもみんな仲がよく居心地もよかった。5年生の時に扁桃腺の手術で1週間の入院。6年生になり弟が小学1年生になった。私は6年生でずっと入りたかった吹奏楽部に入った。担当楽器はユーホニウム。楽器は重く持って歩くだけでも一苦労だった。朝練で朝は7時前に家を出て、放課後練習。土日も休みなく夏休みも冬休みも数日間しか部活休みが無かったが楽しかった。1番悔しかった思い出は、肺炎で入院して音楽行進に出られなかった事だ。あの時は悔しくて悔しくて何度も泣いた。小学校の修学旅行の時、私が場の空気を乱してクラスメイトと大喧嘩になった。あの後の数日間も気まずかったなぁ…こう改めて昔を思い出しながら書いていると私って最低な奴だと気付かされる。


  私の弟は小さい時からよく嘔吐する子だった。エスカレーターを異常に怖がり、自転車も補助輪が無ければ乗れない。今思えば生まれながらに脳腫瘍があったからだと思うけど当時は知る由もない。弟が小学1年生の時、学校給食を食べると嘔吐する為お腹が空いていても一口も食べていなかった。それでも嘔吐してしまい家にいる両親に連絡が取れず、弟の担任が私の教室に来た事が1度あった。

「弟くんが具合悪く1人で帰す訳にいかないから、一緒に帰ってあげてくれないか?」と…その日の掃除当番を休んで保健室まで弟を迎えに行った。

弟と学校の玄関を出て2人での帰り道「姉ちゃん、ごめんなさい…吹奏楽もお休みさせてと…」いつも明るい弟が別人の様にボソッと言った。私は「みったんが具合悪いって聞いて心配したんだからね」と言って弟のほっぺを軽くつねって坊主頭を撫でた。学校から家まで約2km。2人でゆっくり歩いた。途中小さな商店で2つ飴玉を買って食べながら…

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若年性パーキンソン病の私 @takitan

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