第10話 終章
エルド・フォーリという人は三人いるのではないかという、冗談混じりの噂が春の王都に流れた。秋頃の詩、冬頃の詩、そして春が来てから書いた詩と、最近彼が発表した作品の雰囲気がそれぞれにまったく違っていたからだ。むろんこの噂は詩人にとっては賛辞に違いなく、春が訪れて早々大きな喜びごとを迎えたフォーリ家にささやかな寿ぎを添えた。
「お嬢さまのお支度がまもなくお済みだそうです」
普段よりいっそうかしこまったジュリオが、廊下で待っているエルドにそう告げる。エルドは明るい緑色の上着に宝石の飾りをあしらい、花婿として申し分なく装っていた――が、普段の優雅さはどこへやら、サナが支度を整えている部屋の前で先ほどからそわそわしているのだった。
ただ緊張しておられるわけではないようだ、とジュリオは口髭の中に微笑を隠した。彼の主人は、どうやら胸のときめきを禁じえないらしかった。
「綺麗でしょうね」
サナの支度が始まってからというもの、もはや何度目か分からないセリフをエルドが呟いた。夕べサナが到着したのを出迎えたはいいが、彼女はろくに言葉を交わす間もなく諸々の準備のために女性たちの中へ連れ去られてしまっていた。準備ができたら呼びに行くからという説得にも応じずにこうして廊下に突っ立っているのもひとえに、サナに早く会いたいがためなのだった。
ジュリオは何度目だろうと関係なく律儀に返事をした。
「さようでございます」
すると、花嫁の控え室の扉がわずかに開いて、マルタがにこにこと顔を覗かせた。
「お支度ができましたよ。どうぞ中へ」
部屋の中には淡い緑のドレスで装ったサナが立っていて、ニコラに髪飾りをつけてもらったところだった。彼女は夫が入ってきたのを見て、花が開くように表情をほころばせた。
「どうかしら? 似合う? 」
エルドはしばらく沈黙していた。ジュリオは主人の顔つきから、サナになにか詩卿らしい美しい称賛のひとつも贈ろうといろいろ考えていたのに、サナの姿を目にした瞬間すべてが水泡に帰してしまったのだ、というところまで読み取った。
「――綺麗だ。とても」
もはや他の言葉では言い表せなかったのだろう。やっとそう告げたはいいが涙腺が決壊し、ぼろぼろと泣き出したエルドを、サナははにかんで見守った。
※
フォーリ家の正面玄関の大扉が使用人たちの手で押し開けられると、サナとエルドめがけて招待客たちが花びらで祝福した。色とりどりの花びらはみなの祝福気分が高まるにつれて大きな塊になり、新郎新婦の上で鮮やかに弾けた。
イライザとアリーチェは、そんな顔をするくらいなら出席しなければいいのに、という顔で律儀にも参列していたが、花は持っていなかった。ふたりで喧嘩でもしたのだろうか――アリーチェは目を赤くし、イライザは口を引き結んでいる。徒党を組んでいじめていたサナにどんな意地悪も通じなくなってしまった今、ふたりの友情は案外脆く崩れてしまったのかもしれない。
コラジ一家とフェルナンドが列の最後で待っていた。コラジ夫妻とエルドが挨拶を交わしている間、レオナルドは普段より長い間を取って妹を見つめた。感極まっている様子だった。
「……おめでとう」
「ありがとう、お兄さま」
サナの返事にレオナルドは一瞬思い切り顔をしかめ、背けた。フェルナンドがサナに小さな花束を渡しながら片目をつぶってみせた。
「ごめんよ。妹には格好つけていたいみたいなんだ」
柔らかな海風と日差しの中に、華やかな音楽が流れる。フォーリ家に招かれた幸福な人々は楽の音に乗って読み上げられるエルドの詩に耳を傾け、今日この佳き日を心から楽しんだ。エルドがこの春一番に発表した春の詩は、寂しげだった秋の詩、悲しげだった冬の詩からは考えられないほどうららかなものだった――。
美しき子よ。
麗しきは心震える君の優しさ。気高きは 磨かる珠の輝くごとし。
君知るまいぞ うらうらに 照れる春日に我の悩むは、
恋知りて 近寄りがたき君のいとしさ。
世の人に あるやかわゆき 君恋わぬ人。
エルド・フォーリ〈春愁〉
トラモント ユーレカ書房 @Eureka-Books
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