第9話 結実

 ある日の夕食どき、コラジ卿が次の夜会について家族に発表した。サナが戻ってきてから毎週のようにそんなことを提案するコラジ卿にマリアンナとサナは呆れていたのだが、これまではレオナルドがそれとなく邪魔をしてくれていた。レオナルドはどうやら、サナが夜会を渋るわけを分かってくれているようだった。


 サナはまだ、新しく誰かの妻になろうなどとは到底思えなかった。それに、次の夜会であのテオフィルス・カルディのような青年に目をつけられ、ワルツに誘われただの口説かれただのといった噂が立っては困るのだ。万が一、コラジの娘が今度はあの若者と恋仲になっただとか、結婚を考えているだとかいう話が勝手に持ち上がってはたまらない。


 フォーリ家の離婚騒動は、主にフォーリ家の名が社交界の耳目を引き、それなりに大きな噂になっていた。恋人に不自由しないとは結構な箱入り娘だなどと不名誉な陰口を叩かれるよりも、エルドに妙な話が伝わり、彼がそれを信じてしまうかもしれないということの方がサナには悲しかった。


 ところが、今度の夜会の企画はそうたやすく頓挫しそうもなかった。それもそのはず、話を持ち込んできたのはレオナルドだったのだ。


 「有意義な会になるだろうな」


 日が悪いだの時間が合わないだの、これまでの夜会に散々反対してきたレオナルドが積極的に申し出てきたので、コラジ卿はすこぶるご機嫌だった。レオナルドは魚の焼きものをひと切れ口へ運んだ。


 「会場は我が家ではなく、フェルナンド・ミエーリ君の城で。西の塔と大広間を改築したので、その完成披露を兼ねたいとのことです」

 「まあ、場所はどこでも構わん。それにしてもミエーリ家のご子息と知り合うとは、それだけでもまったく意義のある留学だったな」

 「はい。歳の近いもの同士、彼とは長く付き合っていくつもりです。彼も、コラジとは家族ぐるみで親しく交流がしたいと。……サナ」


 話に加わらずに済むよう、スープが熱いふりをしてわざとゆっくり食べていたサナは、兄に名指しされてぎくりと顔を上げた。


 レオナルドはサナの心中を知ってか知らずか、穏やかに続けた。


 「フェルナンドは、特に君に会いたいそうだ。出てくれるね」


 食事が終わり、父が母とともに部屋へ行ってしまうのを見計らって、サナは兄を捕まえた。レオナルドは肩をすくめた。


 「どうした。都合がよくないかな? 」

 「いいえ、そんなことはないけど……」

 「心配ない」


 レオナルドは柔らかに和ませていた口元を引き締めて真剣な表情を作った。


 「フェルナンドは君の〈味方〉だ」

 「味方? 」


 どういう意味かとサナは聞きたかったのだが、レオナルドが懐からリボンのかかった小箱を取り出す方が早かった。


 「フェルナンドから君に。当日ドレスの胸につけてきてほしいそうだ」


 中にはオレンジ色の大きなメノウのブローチが入っていた。レオナルドは口ごもりながら続けた。


 「その……君にこだわりがなければ、青いドレスなら特に映える色だと思う。君は青が似合うし」


 青を着てほしいってことかしら、とサナは兄を見つめた。レオナルドがサナの装いに口を出してきたことなどこれまでになかった。もしかしたら兄妹間のわだかまりが氷解したことで、なにか兄らしいことをしたくなったのかもしれない……そう思えば、サナの気持ちも和らいだ。


 「青いドレスなら、ちょうど綺麗なのがあるの。一度合わせてみるから、見てくださる? 」


 サナが言うと、いいとも、とレオナルドは笑った。



 ミエーリ家の城は、渓谷の森の中に建てられた美しいものだった。コラジ一家は日が落ちる前には門前に到着し、白い石造りの建物の中に招かれた。人々の声で賑わうほかは実に閑静な場所だった。


 「サナ」


 レオナルドが促した。廊下の向こうから人好きのする笑顔を浮かべた若者がやってくる。彼はレオナルドと固い握手を交わし、サナに初対面とは思えないほど親しみのあるまなざしを向けた。


 「やあ、あなたがレオナルドの妹君か。来てくださってありがとう。フェルナンド・ミエーリです」

 「サナ――サナ・コラジと申します」


 フォーリと名乗りそうになってサナは慌てて言い直したが、大らかなフェルナンドは小さな言い淀みなど気にも留めなかった。


 「兄上の友人のよしみで、サナと呼んでも? 」


 という質問にサナが頷くと、彼は途端に他人行儀な物言いを引っ込めた。


 「メノウをつけてくれたんだね」


 フェルナンドは実の兄のようなにこにこ顔でサナに言った。


 「うん、いいね。青いドレスも赤いメノウも、よく似合ってる」

 「お兄さまが見立ててくださったの。君は青が似合うし、メノウの色も映えるからって」

 「へえ、レオナルドにそんな才能があったとはね」

 「サナに衣装を見立てるのは難しいことじゃない。どの色もいいが、特に青と緑が似合う」

 「いいなあ……僕も姉妹がほしかったよ」

 「おれだって幸運だっただけさ。もとは兄がいただけなんだから」


 兄たちの体越しに、イライザとアリーチェがこちらを見ているのがサナの目に入った。コラジ卿の兄弟という理由で自分たちの父親が招待を受けたので、当然の権利として彼女たちもやってきたというわけだろう。イライザは深草色のドレスを、アリーチェは花びらのような桃色のドレスを着て、ふたりはにやにやとサナを眺めていた。


 アリーチェはサナと目が合うと急いでイライザに何か囁き、くすくす笑った。イライザはアリーチェほど不躾な笑い方はしなかったが、意地悪く歪んだ口元を隠すみたいにふわふわの扇子を広げた。


 出戻り娘と目が合うなんて縁起が悪くて嫌ねとかなんとか、そんなことを言い合って笑っているのだろう。


 「赤いメノウは愛の石だ」


 これを聞いて意地悪ないとこたちはますますにやついたが、フェルナンドには当然何の他意もなかった。


 「そうやって飾っていれば、きっといいことがあるよ」


 アリーチェが笑い転げたが、レオナルドやフェルナンドは特に反応しなかった。招待客の笑い声など、夜会の場ではありふれたものなのだ。


 サナは耐えるしかなかった。彼女にできるのは、どうもありがとうフェルナンドお兄さま、とお礼を言って彼を喜ばせることくらいだった。


 そうして健気にその場をやり過ごしたのに――その晩のサナの試練は、まだ終わっていなかった。盛大な夜会のために一同は豪華な大広間へ通されたのだが、招待客同士の歓談がゆったりとはじまって間もなく、サナに声をかけてきた青年がいたのだ。


 彼はジョリ・ヴィルフォーヴと名乗り、鋭い刃で彫りつけたような端正な顔に熱に似たものを帯びてサナを見つめていた。



 ジョリ・ヴィルフォーヴはテオフィルス・カルディの友人だった。といっても、ジョリの父とテオフィルスの父が友人だったのがそもそもの縁で、ジョリ自身は詩や音楽を軽んじるテオフィルスに大した情は抱いていなかった。まあ、フラれた愚痴にくらいは付き合ってやるか……というほどの仲だったのだ。


 テオフィルスにはもともと持って生まれた美貌を鼻にかけた傲慢な一面があり、若い人妻を相手に危険な恋の駆け引きを楽しむような悪趣味なところがあった。今度だって本気ではなかったんだ、とテオフィルス本人はジョリに言い訳したが、どうやらかつてないほどきっぱりと誘惑を撥ねつけられたらしく、それがかえって未練になっているようだった。


 だからといって今さら頭など下げないが、とかなんとか、ごちゃごちゃと言い募るテオフィルスに同情は感じなかったが、それまで声をかけたほとんどの女性をものにしてきた彼をこっぴどく袖にしたフォーリ夫人に、ジョリは興味を覚えた。彼女はどうも、テオフィルスが持ちかけた誘惑に対して「それは侮辱だ」と敵対の意思を見せてきたらしい。なかなか鮮烈な拒絶だ、とジョリは思ったのだ。


 それに、彼女はあの、エルド・フォーリの妻だ。ジョリはエルドの詩がどんなものだか知っていたが、ジョリからすればそれは軟弱で女々しい言葉の連なり以上の価値は何もないものだった。あんな快活さのかけらもない、じめじめしたものを書く男の、何がそんなにいいのだろう? ジョリはテオフィルスの浮ついた態度はどうかと思っていたが、それでも彼が美青年であることは疑いようがないのだし、その誘いを侮辱とまでいって撥ねつけるほどの魅力がエルドにあるとは思えなかった。


 フォーリ夫人とは一体どんな娘なのだか、ジョリは好奇心と想像力に任せて好き勝手に考えた。男を見る目のない不幸な娘か、財産目当てのごうつくばりか、潔癖がすぎるつまらない娘か、のどれかだろう……。


 そんなことを思っていたときにフォーリ家の離婚騒動があったことで(それも夫の側から別れを切り出したとかいう話だった)、ジョリの想像の中のサナはどんどんひどい女に成長していった。よほどの悪女か天下の珍品のような娘に違いない――でなければ、彼への裏切りを拒否した妻を捨てようなどと普通の男は思わないだろう。


 最低最悪のものを想定すると、かえって好奇心が刺激されるものだ。ジョリがミエーリ家の夜会に出席すると決めたのは伯母のミエーリ夫人の顔を立てるためだったが、それ以外に目的らしい目的があるとすれば、実物のサナをひと目見るためだった。いとこのフェルナンドが留学先でコラジ家の子息と知り合ったために、会場はミエーリ家だがコラジ家の面々も招待されるとのことだった。


 そして今、ジョリは希望どおりにサナ・コラジと向かい合っていた。彼女のそばについていたフェルナンドは主役の宿命であちらこちらへ顔を出さなければならなかったし、サナの兄も招待客とはいえ扱いは同じだった。フェルナンドとレオナルドはお祝いを受け、自分たちの留学がいかに実り多かったかを語って回らなければならなかったのだ。


 もっともその必要がなかったとしても、コラジ卿は娘をひとりで置いておこうとしただろう。もちろん、娘に新たな幸福が早急に訪れるように、だ。いずれにしてもジョリにとっては好都合だった。


 「ごきげんよう」


 と声をかけたサナがこちらを振り向いたとき、まったく想像もしていなかった可憐さに動揺はしたものの(ジョリはいつの間にかサナを底意地の悪そうな娘だと思い込んでいたが、実際にその想像に近いのはサナではなくイライザだった)、ジョリは自分の好奇心を満たそうという目的を最初の数分は貫くつもりでいた。


 ところが、ジョリにとってはおもしろくないことに――ジョリはサナが自分の想像に勝るほどの強烈な女だったら、大いに満足したことだろう――、向かい合う時間が長くなればなるほど、サナの美点ばかりが目につきだした。彼女は知的で、感情的になることなく明るく口を利いた。


 ジョリは本題に切り込んだ。


 「フォーリ卿と親しくされているそうですね」

 「――ええ」


 サナはほほえみを崩さずに頷いた。彼女はまだ、ジョリが熱心になればなるほど強引で横柄になるたちだということを知らなかった。


 〈炎の詩人フラム〉とあだ名されるジョリは、強い言葉にこそ力があると信じて疑ったことがなかった。


 ジョリはサナの肯定をせせら笑った。


 「本当に親しくなさっているのですか? 彼はあなたを捨てたのに? 」


 サナのほほえみがふと消えた。長い手袋をはめた彼女の手が、震えながらドレスにすがるのが分かった。


 「……捨てられたわけではありませんわ。彼は、そんな人ではありませんもの」

 サナは健気にもフォーリ卿をかばったが、ジョリの追求には何の効力もなかった。

 「いい加減に現実を見たらどうなんだ」


 ジョリが語気を強めて言うと、サナは明らかに怯えた顔をした。だが、それこそがジョリの望んだ反応だった。どんな方向にであろうが、相手の心を動かす力が自分の言葉にあるということが、ジョリには大切だった。


 「あなたは捨てられたんだ。認めたらいかがです」


 サナがうつむいて返事をしないので、ジョリは構わず続けた。ジョリの言い分を覆せるような確たる自信も証もサナにはないのだろうと彼は考えたし、それは正しかった。


 「終わりを受け入れることは、誰にとっても必要なことです。もちろん、あなたにとっても。人はみな刻一刻と死に近づいてゆくのですから、手に入りもしないものへの未練に縛られて悩むなどという愚かな真似はしないことだ」

 「――ずいぶんきつい言い方をなさるのね。わたしがどんな人間なのかもご存知ないでしょうに」


 ようやくこう言い返してきたサナの目を、ジョリは気に入った。テオフィルスを拒否したのはこの目だったに違いない。たやすくこちらの思うとおりになりそうもないサナの態度には、凛とした気高いものがあった。


 サナがジョリを受け入れてくれるかどうかは、ジョリにとってはさして重要ではなかった。侵しがたい彼女の心にじかに触れ、飛び散る火花のような感情の、躍動する美しさを味わいたかった。


 単に性格の悪い出戻り娘を冷やかすつもりが、ジョリに押されてうつむきながらも反撃してきたサナの誇りに気づいた瞬間、ジョリは彼女を逃してやる気がなくなってしまった。彼女が泣こうが喚こうが――そのくらい激しい反応が出ることをジョリは少し期待していた――一向に構わなかったし、それでサナに嫌われたとしても、可憐な彼女の本心が堪能できるなら十分に価値がある。


 サナが本当に賢い娘なら、ジョリの言うことが間違いではないと分かるはずだ。この娘を捨てるとは、フォーリ卿はさぞ女を見る目がないのだろうとジョリは思った。さもありなん――あんなうすぼんやりした言葉を使う男に、サナの気高さが理解できるはずもない。


 自分に対する印象がどんなに悪くなっても、気に入った相手には本当のことを言ってやるのがジョリの信条だった。それで後々感謝されることもあれば、そのまま疎遠になることもある。だが、ジョリが告げるのは優しくはないがすべて〈本当のこと〉だ。目の前のサナも、本当に幸せになりたいのならエルドのことなど早急に忘れるしかないのだとジョリは思った。ジョリにとって、後悔や追想は不毛なものだった。


 「わたしは〈炎の詩人〉と呼ばれていてね」


 鮮烈で刹那的で情熱を帯びたこの二つ名ほど自分にふさわしいものはないとジョリは自負していた。強い言葉。激しい感情。ジョリの人生は、常にこうしたもので彩られてきたのだ。


 「フォーリ卿のお書きになるものは嫌いだ。……ふん、〈好きじゃない〉なんて、そんな鈍い言い方もごめんだ」

 「それなら、なぜわたしに声をおかけになったの? 」


 サナは顔を上げた。


 「エルドを侮辱したいなら、別の方を当たってくださらない? わたしは彼の詩が好きよ。あなたの詩とは正反対なんでしょうけど! 優しくて、繊細で――」

 「詩は優しいかもしれないが、あなたを捨てた男だ。作家の性質と作品は似るとは限らりませんからね」


 サナは黙り込んだ。縛りつけられて喚いていた罪人が、槍でひと突きされてものを言わなくなるように。


 フェルナンドとレオナルドがこちらへやって来るのが見えたが、ジョリは構わずにサナの顔を覗いた。もしかしたら、涙がそこにあるかもしれない。


 「分からないね……何を考えているか皆目見当もつかないような男を、どうしてそんなに必死になって守ろうとなさるのか。言っておくが、世の中の半分はあなたの異性なのですよ。他にいくらでもマシな男はいるだろうに――」

 「まあそうでしょうね」


 幻聴を疑われる声が割って入った。だが幻聴でも妄想でもないという証に、ジョリの目の前で黙っていたサナはかなり強引に〈彼〉に引き寄せられた。


 ジョリは呆然とした。エルド・フォーリがサナの隣に立って、ジョリを見ていた。



 サナは信じがたい思いで背後の人を見上げた。彼には似つかわしくない行動だが、間違いようがない。


 「確かに世の中の人間の半分は男ですし、僕でなくてもこの子を愛する人はたくさんいるでしょう。君もそのうちのひとりみたいですしね。しかし」


 エルドは剣呑に目を細めた。


 「いくら振り向かせたいからといって、心を強引にこじ開けるようなやり方は感心しません。彼女が何を信じるか……誰を好きになるかは、彼女自身が決めるべきだ」

 「ずいぶん自信がおありのようだ」


 ジョリはいち早く立ち直り、片眉を上げた。


 「彼女が自分を捨てたあなたに救われてありがたく思うとでも? 女性がいつまでも恋人を忘れずにいてくれると思うのは、唾棄すべき妄想ですよ」

 「自分が正しいと思い込んで意見を押しつけるのは妄想ではないのかな? 相手を威圧して反論の余地すら与えないのが、健全な対話と言えるでしょうか? 」


 今や大広間中のまなざしがエルドとジョリに集まっていた。多くの人に寡黙な詩人として通っているエルドが誰かと口論している姿など、誰も見たことがなかったのだ。


 エルドは続けた。


 「僕は確かに、サナにとっては忘れたい男かもしれません。罪もない彼女を、僕が一方的に手放したのも事実です。……しかしだからといって、怖い思いをしているところを見過ごしたりはしない」


 ジョリが言葉に詰まったのをいいことに、エルドはサナの肩を抱いたまま促した。


 「おいで……涙は我慢してはいけない」

 「もう散々泣いたわよ」


 サナは恨みがましい声を出そうとしたが、うまくいかなかった。エルドはサナの肩にかけた手に少し力を込めた。


 「僕のせいかな? 」

 「だったら、どうなさる? 」

 「それは……少し、嬉しいですね。正直なところ」


 このときジョリに絡まれるサナを助けようと、レオナルドとフェルナンドが近くに来ていた。ふたりともがどこかほっとしたような表情を浮かべている。エルドは青年たちに渋い顔を向けた。


 「お招きありがとう、フェルナンド君。……それに、レオナール・ド・シュエット君? 」

 「レオナール・ド・シュエット? 」


 サナが目を丸くしたので、フェルナンドが吹き出した。レオナルドはバツの悪そうな顔をして真摯にお辞儀をした。


 「レオナルド・コラジと申します。……お許しください」

 「こちらこそ。――どうもありがとう」


 青年たちはふたりのために道を開けた。フェルナンドは苦笑いで頬をかいた……ひとり残されたジョリは、一体どういうことなのかと言わんばかりの怒り顔でいとこを睨んでいたのだ。


 サナを玄関ホールまで促しながら、エルドが言った。


 「君のお兄さんは、フェルナンド君が留学中に知り合った現地の貴族のご子息ということになっていたんですよ」

 「お兄さまが? 」

 「そう……フェルナンド君が共犯なのは間違いありませんが、恐らくアントンも一枚噛んでいますね」

 「アントン? なぜ? 」

 「僕の格好を見てごらん。彼がどうしてもこれを着ろと言ったんです」


 人気のない玄関ホールへ来て初めて、サナはエルドの方を向くことができた。眉を下げて困ったように笑うエルドは――オレンジ色のジレに青い上着を着て、首元に赤いメノウを留めている! 


 「嘘みたい……」


 サナは我が身とエルドの全身を見比べて、たまらずに吹き出した。


 「これじゃ、まるで……一緒に色を合わせたみたいだわ! 」

 「ね……とても偶然とは思えないでしょう? 」

 「本当ね。お兄さまったら……」


 サナは青いドレスをすすめてきたときのレオナルドの顔を思い出して愛おしくなった。普段とほとんど変わらないあの仏頂面の影では、妹が別のドレスを選んだらだとか、突然衣装をすすめたりして不審に思われたらだとか、そんなことを考えて戦々恐々としていたのかもしれない。


 誰もが、自分たちを取り持とうとこっそり計画を企てていたのだ。サナは嬉しかった。嬉しくて、少し涙が出た。


 「わたし……」


 サナは何と言ったらいいか分からないままエルドの袖にすがった。エルドは彼女の手をほどかず、逆にサナの手を取った。


 「みんな分かっていたんですね……僕の気持ちを」


 サナはエルドを見つめた。彼は何か、重大なことを話すつもりに違いなかった……。


 「僕は、……君が、あまりに――」


 エルドはぎくしゃくと話しはじめた。サナが見つめると、彼は頬の辺りをやや赤らめた。


 「あまりに聡明で、素直で、可愛いので……君にどう接したらいいか、分からなくて……」

 「……わたしに、嫌われたくなかった? 」


 サナはマリアンナの説を持ち出してみた。すると、エルドはびっくりしたようにサナを見つめた。


 「ええ……そうですね。本当は君の気持ちをきちんと確かめなければならなかったのに、それさえ怖くてできなかったんです。僕が望んでいることが、君にとっては望ましくないことかもしれない――話題にするのもおぞましいことかもしれないと思うとね」

 「それじゃあ」


 口の中がからからになるのを感じながら、サナはなんとか言った。


 「わ……わたしがあなたとキスしたいと思ったことも、望んではいけないことだった……? 」


 エルドは雷に打たれたような顔をした。そして、握ったままだった手を引き寄せて、サナの背をそっと抱きしめた。


 「僕でいいんですね」


 エルドは確かめたが、サナは彼にしがみつくのに必死で、数度頷くので精一杯だった。もう離してあげられない、と耳元に聞こえた。


 腕を緩めてサナの瞳をまっすぐに覗き込み、エルドは言った。


 「愛おしい人……僕と結婚してください」



 二階の手すり越しにふたりの様子を見ていたレオナルドは、彼にしては珍しい、からかいを含んだ口ぶりで義父に尋ねた。


 「どうなさいます、父上。フォーリ卿をお許しになりますか? 」

 「仕方があるまい」


 コラジ卿は娘の様子を見て、ちょっぴり忌々しそうにため息をついた。


 「わたしは娘を不幸にしたいわけではないからな」


 コラジ家の男たちから離れたところにジョリが立ってやはり階下を見ていたが、その顔はコラジ卿よりもさらに忌々しげで、悔しさのあまり眉が逆立っていた。マリアンナがそばに来ても、彼はそれには気づかずに呟いた。


 「――バカバカしい。茶番にもほどがある」

 「恋愛なんてはたから見ればみんな茶番かもしれないわね」


 ジョリは未練がましい独り言を聞かれたことに動揺したが、何とか怪訝そうな表情を見せるに留まった。マリアンナはごきげんで続けた。


 「でも、たまにはそんな茶番も悪くないものよ。そうじゃなきゃ、人生なんて苦すぎるもの」


 ジョリは鼻歌を歌いながら去ってゆくマリアンナのなだらかな背を呆然と見送った。そこへフェルナンドがのんびりとやってきたので、彼は八つ当たりすることにした。


 「……なんだよ。僕の人生経験が少ないからこうなったんだとでも言うつもりか」

 「いや? 見る目はあると思うよ。相手が悪かっただけで」

 「だが、最初からこうなると分かっていたんだろう。よくも笑いものにしてくれたな」

 「分かっていたわけじゃないさ……僕らはお膳立てしただけで、賭けみたいなもんだったよ。でもまあ、君のおかげで思っていたよりうまくいったっていうのはあるかも。ありがとう」

 「なにも嬉しくないぞ」


 ジョリはふんと鼻を鳴らしたが、敵に塩を送ってしまったと気づいたわりにその胸中は穏やかで、普段の彼らしい悪態は出てこなかった。


 もしかしたら、階下でエルドの腕にくるまれたままのサナが、本当に幸福そうにほほえんでいるのがはっきり見えていたからかもしれない。


 認めるには癪すぎたので、仏頂面をほぐさないままではあったけれど。

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