第8話 暗躍

 どうやら嵐は過ぎた、とサナは思った。家に戻ってきてからというもの夢の中を歩いているような頼りない感覚で外部の情報を拾っていたサナにとっては、父の怒鳴り声は遠い海上の嵐のような他人事としてしか認識できなかったのだ。しかも、その他人事のような記憶だけがこのところの唯一はっきりとした記憶で、父がエルドにとても怒っていたらしいということが分かるばかりで、あとのことは何も思い出せなかった。


 明るい窓際に腰かけて外を見ても、海辺の城にあったような中庭などはなく、屋敷の前の通りと、正午を二時間ばかり過ぎた生ぬるい日差しの中を行き交う馬車が見えるだけだ。コラジ家に戻ってきて、三日。コラジ卿は毎日何かに文句をつけずにはいられず、マリアンナは夫が下手にサナを構わないように彼をうまく宥めていた。


 心ある、古くからの使用人たちは努めて温かく、サナを嫁ぐ前と変わらない〈お嬢さま〉として扱ってくれた。新参の使用人の中にはサナの不幸を嘲笑うものもいたかもしれないが、少なくともサナは気がつかなかった。コラジ家の執事頭はジュリオのように誠実で、女中頭はマルタのようにしっかりものだったからだ。


 ニコラのような友人もいたし、マッシモのような素晴らしい料理人もいた。いないのは、彼に似た人だけだった。


 「――エルド」


 窓枠にもたれて目を閉じると、あっという間に涙が湧いてきた。ここ数日のサナはずっとこんなふうだった……白昼夢のようなぼんやりとした気分の合間にふと温かな記憶と巡り合っては、もはや失われたそのぬくもり恋しさに涙が流れるのだ。思い出されるのは、大切にされていたということばかりだった。


 あの夜会の晩、ふたりでワルツを踊ったあのひとときの間にも、エルドはサナとの別れを考えていたのだろうか。サナの目を覗いた、あの優しいまなざしの中に愛情と慈しみを見出したと思ったのは、サナの勘違いだったのだろうか――そんなことを考えていると、いつも必ず、最後にエルドが見せた表情が浮かんでくる。


 悲しそうというのではなかった。彼はただ、あまりにも辛そうだった……。


 廊下を使用人の誰かが大急ぎで――〈歩いている〉という表現の限界くらいに大急ぎで――通り過ぎたことで、サナはふと我に返った。屋敷の中が常になく騒がしいような気がした。雰囲気そのものが慌ただしく声を立てているような。


 何事かと窓から離れかけたサナのもとに女中のひとりがやってきて理由を教えてくれた。サナは今しがた見ていたばかりの窓の外を見た。ちょうど玄関前に焦げ茶色の馬車が止まり、中から降りてきた青年が屋敷に入ってくるところだった。


 レオナルドが留学から帰ってきたのだ。



 無愛想な兄が今回のことにどんな顔をするか、サナは(父の反応が激しかったのとはまた違った意味で)ひそかに恐れていたのだが、顔を合わせたレオナルドはサナがなぜコラジ家に戻っているかを説明するより早く


 「大変だったな」


 と言った。サナが驚いて顔を上げると、彼は何も言わなくていい、と言うように手を上げた。


 「途中でフォーリ卿の噂を聞いた。どこまで本当か分からないので、適当に聞き流していたんだが――」

 「どんな噂だ! 」


 フォーリ卿の名を聞いたコラジ卿が猛り狂った。レオナルドはあまり口を開きたくなさそうだったが、義父に鼻息荒く詰め寄られて仕方なさそうに言った。


 「――フォーリ卿が妻の献身を冷遇した挙句、これといった理由もなく彼女を一方的に追い出したらしい、と。もっとも、酒の席での面白半分の噂といった雰囲気でしたが……」

 「やはり……! 」


 コラジ卿はもともと娘の受けた仕打ちに説明のしようもないほど腹を立てていたので、これを聞いて余計にかっかしはじめた。兄はせっかく〈あくまで噂だ〉と補足してくれたが、父に最初から聞く気がないのではあまり意味はなかったとサナは思った。コラジ卿はぷりぷりしながら部屋に引き上げてしまい、マリアンナは夫を宥めるため、サナたちにウィンクして後を追っていった。


 「……ち、違うの……」


 サナは必死で兄にすがった。帰ってきたばかりのレオナルドをいきなりこんな話題に巻き込むのはどうかと思いつつも、せめて兄にだけでも、エルドが噂のような悪人ではないことを証言せずにはいられなかった。


 レオナルドは相変わらずの仏頂面ではあったがサナを無視することはなく、彼女に向かってわずかに頷いた。サナは勇気を奮い起こした。


 「エルドは、冷たい人ではないわ。優しい人よ……とても」


 兄が瞬きもせずに自分を見ているのでだんだん小さな声になっていきながらも、サナは続けた。


 「どうして別れることになったのかは分からないけど、何かわけがあるんだと思うの。わたし、彼のことは最近のことしか知らないし……もしかしたら、わたしがフォーリ家にはふさわしくなかったのかもしれないし……でも、あの――エルドは無口だけど、わたし、ひどくされたことなんか一度もないのよ……」

 「……そうか」


 レオナルドはサナが本心からそう言っているのかどうか確かめようとするかのように妹をじっと見ていたが、言葉になったのはこの一言だけだった。呆れられたのかあしらわれたのか、単に妹の言い分を聞いてやろうと思っただけなのか、レオナルドの心中を察するには彼の相槌は短かすぎたが、サナがどぎまぎしている間もレオナルドは特に何も言わなかった。


 ただ、彼は自分の部屋に引き上げる前に荷物の中から小さな美しい袋を取り出し、サナに手渡した。


 小麦色のオーガンジーの巾着で、口を締めているリボンの端にビーズの飾りがついている。贈りものだと一目で分かる品だった。何か小さなものがたくさん詰められているらしい。レオナルドが説明してくれた。


 「留学中に農業の盛んな地域に行ったんだ。これは、そこの特産品だ。牛乳と蜂蜜を煮詰めた飴で、栄養価が非常に高く――その、美容にもいいので、女性に喜ばれるというから。酪農と養蜂で栄えた土地柄らしいものだと思う」

 「――ありがとう」


 兄が自分のために、こんなに可愛らしいものを買ってきてくれようとは。サナがあたふたとお礼を言うと、レオナルドは眉のあたりの表情を和らげた。


 「本を読んだりものを書いたりするときに、甘いものはいい」


 義兄の無口はもしかしたらエルドと同じ種類のものなのではないか、とサナはこのとき初めてそう思った。つまり、愛想がないからといって怖い人というわけではないのではないか……サナのこの期待は、裏切られることはなかった。


 その日の夕食のときのことだ。コラジ卿は家族が集まるとフォーリ家に対する愚痴を延々とこぼし続けるのを日課としていたが、レオナルドは義父がこれ以上サナの食事をまずくするのをさらりと食い止めた。


 「しかし父上……それほど不愉快にお思いなら、わざわざ思い出さねばならないようなことをおっしゃらねばよいのでは? フォーリ卿は非常に考え深い方と聞きました――何か、サナを遠ざけておかねばならない理由があったのかもしれません。そして、それを口に出すこともできなかったとか……」

 「……なんだ、それは。どうしたらそんな状況になる」


 コラジ卿はパンを千切りながらも渋い顔を崩さなかった。サナは思わず口を挟んだ。


 「そうだわ……口にしたら石になってしまうような危険だったのかも……」


 そんなお話もあったわ。サナが呟くと、レオナルドは蝋燭の火の揺れ加減でそう見えたのかもしれないというくらいの、かすかな微笑を浮かべた。


 「君が理由を強いて聞きたがるような慎みのない女性だったら、彼は今頃石像になっていたかもしれないな」


 コラジ卿は兄妹のやり取りに口を挟めず、何より娘が笑うところを久しぶりに見たことで満足し、それ以上愚痴を言うのをやめてくれたのだった。



 レオナルドは自分がずいぶんな愛想なしだということを重々承知していた。別に威厳のある顔をして高貴ぶりたいわけでも、快活に人と言葉を交わすことを軽蔑しているわけでもないのだが――おかげで積極的に選り好みしなくとも相手の〈本気度〉をある程度知ることができるのを彼は都合よく思っていた。近寄るには勇気のいる態度を装うこと、たやすからざる人物であると相手に思わせることは、駆け引きや陰謀にまみれた社交界では盾として大いに役立ったのだ。


 しかし義妹を怖がらせてしまった以上、この処世術は改めなければなるまい――サナとの初対面のあと、レオナルドはさすがに反省したものだ。父が突如後妻を迎えることになったサナの心境はさぞ複雑だっただろうが、それでも最初にレオナルドのところにやってきたとき、彼女は純粋に義兄と仲良くなろうと思っていたに違いなかった。


 サナの本好きは、事前に母から聞かされていた。女性詩人として著名な曾祖母や母の血を引く娘らしく、コラジ家の後継として申し分のない才覚を備えた聡明な娘らしい、と――であれば、いずれ義理などという書類上の言葉が疑わしいくらいの絆を結べるかもしれないと、レオナルドは期待していた。彼も読書が好きな青年だったからだ。


 母とともにコラジ家の一員となれば、自然家を継ぐのはレオナルドということになるだろう。だがレオナルドとしてはサナがもともと持っていた権利を侵害したいとはまったく思っていなかったし、兄妹としてともに家を盛り立てていくのであれば、その相方は聡明であることに越したことはないと考えていた。


 ――そんな建前以前に、一度家族が崩壊してゆくさまを目の当たりにしたレオナルドにとって、新たに人生に現れた〈妹〉は少なからず尊い存在だったのだ。実の父に従っていった唯一の兄とは、ウマが合った試しがなかった。今度こそ〈家族らしい〉温かみを感じられるのではないかと、レオナルドはサナに会うのを彼なりに楽しみにしていたのだ。


 だが……。


 「お兄さまはどんな本がお好きなの」


 とサナがやってきたそのとき、レオナルドは緩みかけた目元を反射的にぐっと引き締めてしまったのだ。彼の目はマリアンナに似ており、眉間に皺を寄せなければ威圧感が保持できない。そうして険相を保つのが、すっかり癖になってしまっていた。


 一瞬のことだったが、レオナルドはサナの表情に〈恐怖〉が走るのを見た。以降まったく打ち解けられないままサナにエルド・フォーリとの縁談が持ち込まれ、コラジ家の跡取りとして才覚を磨き続けてきたはずのサナは、まったく乗り気でなさそうだったにもかかわらずそのままエルドに嫁ぐことになってしまった。


 せめて自分がもう少しサナと親しんでからの縁談ならよかったのにと、レオナルドは何度思ったかしれない。サナにとっては、跡取りの座を追われて間もない縁談だった。義母と義兄が父と結託し、自分を生家から追い出そうとしているのだ――と彼女が考えたとしても、何もおかしくない。本来の意味でのコラジ家の末裔はサナだけなのに、自分だけが家を追われるのだと。


 さらに間の悪いことにレオナルドは前々から計画していた留学に出かけなければならず、彼は妹の身を案じながらも、母から時折受け取る手紙でフォーリ家の様子を知るしかなかった。


 最初のうちはどうも、エルドが臥せっているためにサナが婚家で困惑しているというような前途多難な内容だった。しかしあるときを境に風向きが変わり、サナ・フォーリ夫人はどうやら幸せに暮らしているらしいと、旅先のレオナルドはつい最近まで思っていたのだが……。


 レオナルドはペンを置き、たった今書き上げた文面を読み込んだ。不備がないことを確認して封をし、表書きに速達と書き足す。なるべく早くに足がかりがほしかった。


 机に並んだ本の間に、同じ封蝋の手紙が差してある。旅先でレオナルドがサナに宛てて書いた祝福の手紙だ。宛先はフォーリ家に指定したが、手違いがあって配達されないまま彼の元へ戻っていた。レオナルドは封筒を抜き取り、暖炉へ放り入れた。


 必要なら新しく書き直せばいいし、なんなら自分の口から言ってやればいい。一方的に離縁されたはずのサナが父の中傷からエルドを庇うのを聞き、それがどうやら本心らしいと悟ったときから、レオナルドは妹のためにエルド・フォーリを信じることに決めたのだった。



 「ねえサナ、教えてくれる? 」


 とある午後。女性だけのお茶の席で、マリアンナが言った。コラジ卿は判事の仕事で出かけており、レオナルドは朝早くから友人と連れ立って出かけていて留守だった。


 サナはレオナルドから借りた詩集を朗読するのをやめて顔を上げた。義母はちょっと困ったような顔をして、眉を下げてほほえんだ。


 「もし、もう忘れたいというなら詩の続きを読んでちょうだい。だけど、どうしても知っておきたいものだから」

 「あら、何を? 」

 「フォーリ卿のことよ」


 サナはぎくりとしたが、マリアンナはコラジ卿のようにエルドを責めようとしているわけではなさそうだった。乙女同士で恋の噂を楽しむときと同じ顔で、マリアンナは尋ねてきた。


 「彼のこと、あなたは好きだった? 」

 「……ええ、好きだったわ」


 サナは詩集を閉じて膝に置いた。続きを言うべきか迷ったが、父や兄がいては余計に言いにくいような気がした。そこで、なんとか続けた。


 「でも、……なんていうか、彼にはわたしじゃ釣り合わなかったのかも、って思うの」


 マリアンナは目をぱちぱちさせた。


 「あら、どうして? 」

 「だって……夫婦なのに、キスもしたことなかったから。わたしのこと、子どもみたいに思ってたんじゃないかって……」

 「まあ……それじゃフォーリ卿は、ずいぶん損だったわね。少なくとも、あなたの方では〈子どもみたいな関係〉は嫌だったということね? これはとても大事なことよ」

 「ええ。ちゃんと、あの……夫婦になれたらいいのにってずっと思っていたんだけど、どうしても――」

 「言いにくいわよね。仕方ないわよ……大っぴらに口にできるような話題じゃないもの」


 マリアンナは思案顔で唇に指を当てた。わたしもああいう色っぽい仕草ができれば、結果は変わっていたのかしらとサナは思った。


 マリアンナは追求の手を緩めなかった。


 「それじゃ、全然触れられたことはないの? たとえばそうね――抱き寄せられたとか、手を握られたとか、髪を撫でられたとか」

 「それは……あるわ」

 「どんな状況だったのかしら? そうしなくてもいい状況で、それでもそうなったの? 」


 サナは考えてみた。踊るため。サナから頼んだから。サナが転びそうになったから――どれも理由があるような気がする。


 でも、本当にそれだけだったかしら。あの書庫で、手が触れていたのは? サナを見るときに、優しくなるまなざしは? 君が幸せだと安心すると、言ってくれた理由は? ……


 サナが真剣に考えている様子を見るだけでも、マリアンナにはある程度の事情が察せられたらしい。


 「あなたの話を聞く限り、フォーリ卿はとても紳士的な方みたいね」


 というのが彼女の結論だった。


 「わたしは、フォーリ卿があなたに愛想を尽かして別れを選んだというわけではないという気がするの。当然よ――あなたは聡明だし、可愛いし、心が綺麗だからね」

 「そ……そう? 」

 「そうよ。でなければ、わたしのことを受け入れてくれたとは思えないわ。たとえば、イライザやアリーチェがあなたの立場だったら……わたしは貴族の出身じゃないから、きっと肩身の狭い思いをしたでしょうね」


 マリアンナは優雅な手つきでお茶に砂糖を足した。彼女は、もともと王都の劇場に所属する女優のひとりだった――もとの生まれがなんであれ彼女の所作はひとつひとつが美しいものばかりだったので、サナとしては憧れこそすれマリアンナを冷遇する理由はないのだった。


 「……わたし、お母さまみたいな雰囲気を素敵だと思うの。華やかで、大人の女性っていう感じで……」


 サナは素直にそう言ってみた。義理の母娘ということで複雑な思いを抱いたこともあったが、今なら言える気がした。


 「でも、あの……わたし、ちっともお母さまみたいになれないから。それで余計に、エルドは物足りないんじゃないかなんて、思ったのかも」


 マリアンナはこれを聞いて、まあ、と目を丸くした。そして、楽しそうに笑い声を立てた。


 「やあね、サナったら。そんなことを考えていたの? 」

 「だ、だって……」

 「おバカさん。サナとわたしとじゃ、〈魅力〉が全然違うところにあるのよ――それはね、比べられるものじゃないの。そうじゃない? ダイヤモンドとバラはどっちがきれい、なんて聞かれても困るでしょう? どっちが好きかなら、話は別だけどね」


 マリアンナは機嫌よくお茶をひと口飲んだ。とても絵になる仕草だった。


 「そしてね、これはあんまり大きな声で言いたくないんだけど……殿方にはね、目の前にあるならダイヤモンドでもバラでも区別せずに自分のものにしようとする人もいるのよ。手に入れて自分の好きにできるなら、相手がどんな性質を持っているかなんて気にしない――そういう人もいるの。覚えておいて損はないわ」

 「そ……そうなの? 」

 「ええ。でもその逆に、相手のよさを正確に見抜いてくれる目利きな人もいるけどね。見抜いた後の対応も、また個性が出るところなんだけど……フォーリ卿にとって、きっとあなたは〈価値がありすぎた〉のよ。だからどうしても手放したくなくて、逆に手放すことにした――わたしはそれが真相だったんじゃないかと思うわ」

 「よく分からないわ……」

 「それじゃあ、サナはフォーリ卿にキスしたいってはっきり言えた? 」


 マリアンナに優しく問われ、サナははっとした。そうだ。自分だって、抱きしめてほしいと伝えるのが精一杯で……書庫でキスしてもらえるかもしれないと思ったときは、誰にも見せない日記の中にさえ、はしたないような気がしてそう書けなかった。まして本人に言うなど――。


 エルドに、失望されるかもしれないと思ったら。


 「フォーリ卿はサナに嫌われたくなかったんだと思うわ」


 マリアンナは静かに言った。


 「自分に自信が持てなくて――あなたがご自分と同じ気持ちかどうか、慎重に見極めようとしていらしたのかも。だけどあなたが可愛くて、愛おしくて、どうしようもなくなって……あなたに嫌な思いをさせて嫌われるよりは、って別れを選んだ。――もしこれが正しいとしたら、死ぬほど後悔していらっしゃるでしょうね。もっとも、その後悔すら感じていないふりをなさるのかもしれないけど」

 「………」


 サナは寂しい気持ちでお茶を少し飲んだ。エルドがサナと同じ気持ちだったかもしれない――サナを愛し、サナに愛されたいと思っていたかもしれないという可能性の浮上は、すでにすべてが手遅れだということを加味したとしてもサナの心を少なからず温めた。


 初めて、本当に好きになった人だった。顔も知らない状態で結婚したのに、いつの間にか本気で好きになっていた。優しい、美しい人だった。サナに後悔はなかった。


 ただ、マリアンナの言うように彼が今死ぬほどの後悔をサナのために味わっているとしたら――そう考えて、心を痛めた。



 見えてきたぞ、と友人が馬車の窓越しに宿屋の看板を指差した。本来の目的地はもう少し先の場所だったのだが、先方は時間を問わずに訪問できるほど気の置けない相手というわけではなかったので、非礼と不自然を避けるために近場に宿を取ることにしたのだ――そして、質素だが清潔で快適な田舎の宿は、人目を忍んでの相談事にも最適だった。


 「待たせたな」


 部屋にふたりで差し向かいにいるところへ案内されてきた画卿のアントーニ・メーディオは、気さくな様子で手を差し出してきた。


 「しばらくだな、フェルナンド。留学はどうだった? 」

 「ああ、素晴らしい経験だったよ。こうして得がたい友も得られた」


 フェルナンドは連れ立って王都を出てきた友人をアントーニに紹介した。


 「レオナルド・コラジ君だ。異国で同郷の人間に出会うと無性に嬉しくなるものだが、彼は一時の意気投合で終わらせるには惜しい男だ。……レオナルド、彼が例のアントーニ・メーディオ卿だよ」

 「コラジ? 」


 宿屋の娘に三人分のお茶を頼んで下がらせるレオナルドを、アントーニはまじまじと見つめた。


 「それじゃあの……もしかして、詩卿の――」

 「……ええ。サナの兄です」


 レオナルドがにこりともしないで(それが彼のいつもの顔だったのだが)そう答えたので、アントーニはちょっとした絶望を顔に浮かべてフェルナンドを見た。アントーニとフェルナンドは互いの祖父の代から付き合いのある友人同士だった――フェルナンドから『君に会いたがっている人がいる』という手紙で呼ばれてここまでやってきたアントーニは、その相手がまさかエルド・フォーリの元妻の兄だとは夢にも思っていなかったのだ。


 フェルナンドは朗らかに言った。


 「心配するな、アントン。レオナルドはなにも、フォーリ卿のことで君に文句を言いにきたわけじゃないから」

 「あ、ああ……」


 レオナルドが頷くのを見たアントーニは、ほっとしたような、合点がいったような顔をして頬をかいた。


 「なるほどな。おれは無口なやつは見慣れてるはずなんだがなあ……」

 「文句を言いにきたわけではないが、メーディオ卿」


 レオナルドが声を潜めたので、アントンでいいよ、と言いつつアントーニは彼に顔を寄せた。


 「もしサナがフォーリ卿にふさわしい娘だと思ってくださるのなら、ご助力願いたい――それで今日、ご足労いただいたのです」

 「どっちかといえば、エルドのやつがサナにふさわしい男なのかどうかが疑問なんだけどな」


 アントーニはレオナルドの要請を聞いてすぐさまその意味を理解し、にやりと笑った。


 「サナはどんな様子なんだ? まだエルドのところへ来てくれるかな? 」

 「フォーリ卿のあの仕打ちは、何か言うに言われぬわけがあるのだろうと言っていましたな。ひどい扱いをされたことは一度もないと」

 「そうか……」


 アントーニはサナの境遇と愛情に心を動かされたらしく、淡い色の天井を仰いだ。サナのことはレオナルドの話を介してしか知らないフェルナンドも、腕を組んで唸った。


 「なかなか健気な人だなあ、君の妹君は」

 「フォーリ卿はいかがお過ごしだろうか」


 レオナルドに尋ねられ、アントーニは温かみのある苦笑いを浮かべた。


 「重症だよ。大袈裟だよな、死に別れたわけでもないし……自分で別れといて。なんせ、嫌いになって家に帰したとかそういうわけじゃない。後悔は――まあしているだろうが、これでよかったんだと自分で自分を納得させているってとこだろうな。サナにとってはこれでよかったんだと思ってる――そう思いたいんだ」

 「フォーリ卿は、サナを好いておられただろうか? 」

 「そりゃもう、賭けてもいいぜ。ただ、なんていうのかな……サナを人間の女以上に〈きれい〉なものだと思っちまってるというか。欲をかいて手を出したりしちゃいけないと思ったらしいんだ」

 「確かにその心理は分からなくもないね」


 フェルナンドがにやにやと言った。


 「トラモント卿……忍耐がきかなくなられたのだな」


 レオナルドは普段よりも濃い皺を眉間に刻んだ。


 「サナは家に戻ってきてからひとりで泣いていたと母が言っていた」


 サナは聡明で強い娘だとレオナルドは思っている。このままエルドと永遠に別れることになってしまっても、いずれは自分の力で心を癒していくに違いない。


 だが少なくとも、愛する夫から一方的な決別を宣告されたサナの心は、生涯忘れえぬ深手を負ったのだとレオナルドは考えていた。


 「もしフォーリ卿がサナを手放されたことで気が楽におなりなら、サナも少しは気が晴れたろうに」

 「エルドに同じことは言わないでくれよ、レオナルド。一生にそう何度もないほど落ち込んでいるところへ、サナを泣かせたなんて言われたら……自業自得って片付けられるくらいにはあいつは大人なんだが、大人になるってのもいいことばかりじゃないな」


 三人は知らず知らず眉を寄せて険相を作っていて、お茶を運んできた宿屋の娘が部屋に入るのをためらうほどだった。


 「別れた夫婦の仲を取り持とうとしてる集まりだって知ったら、あの娘さんはなんて言うかな」


 フェルナンドは朗らかにお茶をひと口飲んだ。


 「前にそんな本を読んだんだが――縁のないもの同士は、天意に逆らうからどんなに互いを愛してもうまくいかないというんだ。逆に、縁さえあればどんなに障害があっても最後には一緒になるんだとか」

 「その点、今回はどうなんだ? 」


 とアントーニが聞いた。


 「おまえは、エルドとサナに縁があると思うか? 」

 「サナ嬢のことは、僕はレオナルドから聞いたことしか知らないが」


 フェルナンドはハシバミ色の柔らかな巻き毛を揺らしながら言った。彼はレオナルドの誠実さと堅実さに友人として敬意を払っていたので、そんなレオナルドが愛するサナという娘は、きっと自分にとっても味方をする価値のある娘なのだろうと考えていた。


 「一度は夫婦という関係を解消したにもかかわらず、ふたりの幸せを願うものが集まってまた一緒にしてやろうという結論が出たんだ。かなり前向きな巡り合わせだと思うな」

 「父上は夜会を開こうとしている」


 レオナルドはいよいよ苦く言った。


 「もちろん、サナの将来を父上なりに考えてのことだ。サナは家にとって不名誉な事件をなかったことにしたいのだと思ってなかなかうんとは言わないが……フェルナンド、夜会で別の愛が生まれる可能性と、フォーリ卿との縁の方が強い可能性なら、どちらだと思う? 」

 「そうだな、五分五分だが。夜会を渋っているということは、サナ嬢は少なくともまだ新しく恋をする気にはならないんだろう。復縁の見込みは十分あると思うね」

 「エルドは夜会なんて二度と行くかと思ってるかもな」


 とアントーニ。


 「エルドの方がどこぞの令嬢と先に結婚してしまうってことは、まあ〈ない〉と思っていいだろう」

 「決まりだ」


 レオナルドはお茶をひと口飲んで気持ちを落ち着けた。


 「わたしがサナの兄であることや、アントンがフォーリ卿の友人であること。アントンの友人のフェルナンドが旅先でわたしと知り合ったこと。我々の縁が結ばれた意味を、今度のことで問うてみようと思う」



 ある日差しの穏やかな日の午後、エルド・フォーリは珍しい来客を迎えた。アントーニが他の客を一緒に連れてきたのだ。青年のひとりはエルドも知っている顔で、エルドは朗らかに彼らを歓迎した。


 「やあ、フェルナンド君。いつこっちへ帰ったんです」

 「お久しぶりです、トラモント。つい先日のことですよ――短い留学でしたが、非常に有意義でした。今日は旅先で素晴らしい友人と出会ったことをお話ししようと、アントンと一緒にお邪魔した次第で」


 フェルナンドは友人の肩を叩いて促した。


 「こちら、レオナール・ド・シュエット君です。向こうではずいぶん世話になりましてね」


 レオナールは礼儀正しく頭を下げ、言葉尻をわずかに訛らせて


 「はじめまして」


 と言った。

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