第7話 夜会の一夜

 自分のチョコレート作戦が失敗に終わったということを、サナは翌日自室で目覚めて知った。彼女には、昨夜エルドとともにチョコレートを食べてからあとの記憶がなかった――ところが、朝にはきちんと自室の寝台に寝ていたのだ。十中八九誰かがここまで運んで寝かせてくれたのだろう。


 エルドだろうか? もしそうだとすれば、自分はいったいどれほどの醜態を晒してしまったのだろう。


 こんなつもりではなかったのに。サナは悲しいやら頭が痛いやらで、起こしに来たマルタに慰められながら少し泣いた。


 「大丈夫ですわ、奥さま」


 とマルタは傷心の女主人を優しく励ましてくれた。


 「ニコラから聞きましたわよ――旦那さまのお好きなものを、一緒に召し上がろうとなさったんですわね。大丈夫ですよ。お酒を飲んで寝てしまうなんて、誰にでもあることです」

 「でも」


 サナは涙を拭った。忙しいマルタをいつまでも手間取らせるわけにはいかない――だが、涙というものは一度流してしまうと止めようがないのだった。


 「エルドは、がっかりしたかもしれないわ。せっかく喜んでくれたのに、どうして寝たりなんか……」

 「あら、旦那さまはがっかりなんかしていらっしゃいませんでしたわ――心配はなさってましたけどね。ニコラのことも、許してやってくださいませね。あの子なりにいい案だと思ったんですのよ」


 だがみなに優しくされればされるほど、サナの〈小さな女の子疑惑〉は深まりこそすれ解消などされようがなかった。コラジ家の立派な跡取りたれと気を張っていたときと比べたら、自分はなんと頼りない人間になってしまったのだろうとサナは情けなかった。仮にも使用人を何人も抱える城の女主人だというのに、この体たらく。嫁ぎ先でまともに夫婦になることもできず、夫にもみなにも世話ばかりかけている――せめて普段通りの態度で過ごそうとサナは心に誓った。


 だから朝食の席でエルドに


 「体調は大丈夫ですか? 君はお酒はやめた方がいいかもしれませんね」


 と眉を下げて言われたときも、なんでもないような顔を貫いた。ちょっとした思いつきがただうまくいかなかっただけなの、というように少し肩をすくめて。


 「チョコレートくらいなら大丈夫かと思ったんだけど……昨日はごめんなさい」

 「体質に合わないものというのはどうしてもありますからね。やはり、君が好きだと思うものを楽しむのが一番です」


 サナは、エルドが他意なく心配してくれているということを誰よりも分かっていた。それでも彼女は寂しかった。


 だから、朝食のあとでアントーニが訪ねてきて


 「カルディさんとこの夜会の話、聞いたか? 」


 と話し出したとき、つい前のめりになったのも無理からぬことだった。既婚者が夜会に呼ばれるとなれば、配偶者を伴っていくのが基本だ。参加が決まればサナにとってはエルドと結婚して初めて夜会に招待されるということになり、エルドに


 「僕の妻です」


 と紹介されることになるのは間違いない。サナはどうしてもその一言が聞きたくなった。


 だが、当のエルドはあまり乗り気ではない様子だった。


 「昨日の会合もその話だったんですよ――テオフィルス君の大学の卒業祝いでしょう。詩卿はひとり一編ずつ詩を書いていくようにとのことでした。アンブロ氏とテオフィルス君が、即興で曲をつけるからと」

 「画卿はテオフィルスの〈輝かしい未来〉の肖像を描いてこいってよ」


 とアントーニが応じた。その顔を見る限り、彼も参加したいとは思っていないらしかった。


 コラジ家はカルディ家と親交はなかったので、サナはなぜふたりが揃って微妙な顔をしているのか分からなかった。アントーニは肩をすくめた。


 「まあなんだ……おれ、あの家のテオフィルスってその……あんま気が合わねえんだよな。歳はそう離れてねえんだけど、昔っから。仲悪いってわけじゃねえんだけど、時間かけて肖像画を描くほどの知り合いでもないっていうか」

 「僕も」


 とエルドが短く言った。


 「カルディ家とは結構付き合いが長いんですが、テオフィルス君はお父上とはあまり似ていませんからね」

 「まあそういうわけだから、おれは行かないけど――あんたはそうもいかないだろ。アンブロさんとあんたの父さんはあれだけ仲がよかったわけだし、あんたはサナと結婚したわけだし……多分カルディさんちの方じゃ、あんたら夫婦が来ないなんて思ってないぜ」

 「サナの顔見せという意味があることは理解できますが」


 エルドは眉を和らげなかった。


 「本当に披露したい相手であれば結婚式に呼びますし、後になってわざわざ妻を見せものにしなければならない理由が分かりませんね。現に、カルディご夫妻はきちんとご招待したはずですし」

 「あんたその結婚式にいなかったじゃないか……まあ確かにふたりとも来てたし、あんたの気持ちも分かるけどな」


 アントーニは呆れたように呟いたが、それ以上追求はしなかった。エルドが渋い顔をしているのが、自分の義務に対するあきらめの裏返しだと分かっていたからかもしれない。


 エルドはため息をつきつつ、サナに尋ねた。


 「そういうわけなのですが、一緒に出席してくれますか? 」


 夫は微妙な表情を浮かべたままではあったのだが、それでもサナは〈夫婦〉として夜会に招かれたかった。エルドが嫌なら、カルディ邸まで一緒に連れて行ってくれるだけでいい――一緒に、〈夫〉として夜会に出てくれるなら、それで。


 「もちろん、あなたと一緒にお呼ばれするわ。……そうお返事してくれる? 」

 「じゃ、衣装はおれが見立ててやるよ。離れて立ってても一目で夫婦だって分かるようにな」


 アントーニが言ってくれ、彼のこの提案はサナを少なからず喜ばせた。


 「それはいい。よろしくお願いします」


 と応じたエルドが、初めて目元を和らげるのが分かったから。



 アントーニは大胆な色使いが特徴の画卿だったが、一見情熱のままに筆を走らせているように見えなくもない彼の作風には、実な精緻な計算が潜んでいるのだった。彼は自分の〈作品〉が目にした人々にどのような印象を与えるかを熟知しており、それはフォーリ夫妻の夜会服の見立てでも変わらなかった。アントーニはサナや使用人たちと話し合いながら彼女の装いを決め、次いでエルドの夜会服もそれに合わせて調整してくれたのだった。


 「女ものの衣装の方が選択肢が多いから、先に決めたほうが楽なんだ」


 というのがアントーニの意見だった。


 夜会服を釣り合わせるという幸福がこの世にあるということを、エルドはとうに忘れてしまっていた。たった一度だけ、あの宝石好きな〈一等星〉とそんなことをした覚えはあるが――今にして思えばあのとき彼女があれほど乗り気だったのは、彼女が満足のいくまで思う存分自分を飾り立てたところでフォーリ家の財産には痛くも痒くもなく、エルドも何も言わないと分かっていたからに違いない。


 当時の記憶はエルドにとって、長らく惨めさや苦痛に満ちた残酷なものだった。だが意外なことに、こうして〈一等星〉との思い出を脳裏に描いてみても、彼の心は大した反応を見せなかった。


 むろん傷を負わされた経験であることに変わりはないのだが、それは触れてみたところでもはや痛みを生じない、古傷のようなものへと急速に変化しつつあるようだった。骨まで裂け、膿み、いつまでも塞がらずに彼を苦しめていたはずのあの傷が。


 目の前で、サナが着せ替え人形よろしく首飾りを次々とあてがわれて困った顔をしている(アントーニと使用人たちは一応の案が決まったあとも妥協するつもりはないようだった)。彼女のはにかんだほほえみが近くにあったおかげなのだろうと、彼は思った。


 〈一等星〉も変わっていたらいいと思う。誰か良い人と巡り合って誠実な愛の価値に目覚め、たやすく相手を裏切るような浅はかな振る舞いは改めてくれていたらいいと思う。


 「ねえ、これ……どうかしら」


 衝立の向こうで着替えたサナが、青紫のドレスの裾をオーロラのように引いて目の前にやってきた。生地に散りばめた真珠は星々が煌めくよう。首元に飾った一粒のダイヤモンドは北極星もかくやだった。


 「――女神のようですね」


 エルドは特別褒めそやしたつもりもなく、ただ正直に感想を言っただけだったのだが、サナはほんのりと赤くなった。


 幸福というものに人格と人の形を与えたらサナという女性になるのではないか……とエルドは考えていた。



 アンブロ・カルディは恰幅のよい優れたオルガン奏者で、たとえオルガンがなくとも一日中鼻歌を歌っているらしいと噂されるほど楽卿として筋金入りの男だったので、弾き慣れた愛用品がある自宅での夜会ともなれば、それはもう彼の独壇場だった。


 アンブロはオルガン演奏こそ自分に提供できる最高のもてなしだと信じており(アンブロに限らず、楽卿には多かれ少なかれこういう傾向がある)、招待客たちに丁寧な挨拶を述べたあとはずっと譜面に釘付けになっていたので、全体に向けての音頭を取るのはすべて妻のエレノアに一任されていた。彼女は現役のオペラ歌手で、その場の全員に届く声を出すことにも優雅なお辞儀をして拍手を受け取ることにも慣れており、なんとも適材適所な夫婦だともっぱらの評判だった。


 「みなさま、今日はわたくしたちのテオのためにお集まりくださってどうもありがとう。カルディの家訓に従って、アンブロのオルガンとテオのヴァイオリン、そして選り抜きの奏者たちの極上の音楽でおもてなしさせていただきましょう。どうぞ今宵は、月落ち日の昇るまで! 」

 「〈月落ち日の昇るまで〉」


 みんなと一緒に拍手しながら、サナは繰り返した。


 「素敵な言い方ね」

 「そうですね。あれは、確かオペラの中の台詞だったと思います。なかなか逢えない恋人を少しでも長く引き留めようという――」


 ほらこの曲、とエルドが言う間に、アリアから編曲された美しいワルツが大広間いっぱいに響きはじめた。


 「エルド……」


 周囲の人々が組になって調べの中に溶け込んでいくのを見てサナは夫に声をかけた――だが彼女がそれ以上言うより、エルドの腕に背中をぎゅっと抱き寄せられる方が早かった。彼は眉を下げて囁いた。


 「僕と踊ってくれますか? 詩ほど得意なわけではありませんが」

 「それでも、踊りたい……」


 サナがエルドの胸のあたりに額を寄せると、頭上から彼の声が優しく落ちてきた。


 「ふふ……ではお手をどうぞ、美しい方」



 幼い頃に努力して身につけた技術というのは長く使わずにいても自然と体を動かしてくれるのだと、エルドは知った。サナの手を取り、緩やかにターンを重ねながら体を寄せ合っていただけだったが、美しい旋律の中で穏やかに温もりを分かち合える夢のようなひとときだった。


 彼らのそれぞれが抱いている気持ちの種類や温度に差があったとしても、一緒にワルツを楽しむことはできるのだ。少なくとも、サナが望んでいるであろう〈優雅で如才ない紳士〉としての顔を保つことはできたと彼は自負していた――挨拶に回ってきたテオフィルス・カルディがサナを誘っていってしまったときも、内心に反した寛大な態度を彼は辛うじて貫いたのだった。


 テオフィルスにワルツを申し込まれたサナは困惑した様子だったが、二曲目を彼と踊っている。今夜の主役に声をかけられた以上、辞退するというのも不自然だ。


 踊るサナを客観的に見るというのもなかなか悪くないとエルドが思いはじめたときだった。シャンパンを片手に、彼に声をかけてきた女性がいた。


 「あなたはワルツなんかお嫌いだと思ってたわ」


 エルドはふくよかだが不機嫌そうな、そしてエルドのことを知っているらしい彼女の顔を見下ろした――人違いを疑ったのはほんの一瞬だった。彼女はその顔の中で、唯一エルドの記憶にあるままの空色の瞳で憎々しげにエルドを見上げた。


 彼女は〈一等星〉だった。


 「――君は……」


 わずかに身を引いたエルドの隣で、彼女はシャンパンをひと息に飲み干した。それはエルドが彼女と恋仲だったときから彼女がよくやっていた仕草だった……かつてなら、若い令嬢がかりそめに見せる無作法は一種の茶目っ気として愛らしくさえ見えたものだ。


 もちろん、同年代の女性と比べたら彼女はやはり格段に美しい。だが今の彼女の美貌は彼女が持たない気品を補ってくれるほどのものではなく、無作法の粗だけが悪目立ちする彼女は、まるで落ちぶれた娼婦のようだった。


 容姿が衰えたわけでもないのに、なぜこうもかつてと印象が違うのだろう? エルドは思わず彼女を凝視したが、答えは出そうもなかった。ただひとつ言えるのは、時の経過が彼女のもたらしたものは品格でも成熟でも洗練でもなく、退廃と悲惨と劣化だったということだ。


 「ご結婚なさったんですってね。お祝いも申し上げずに失礼したわ」

 「……ありがとう」

 「それで? お幸せなの? ねえ……」


 彼女はエルドにもたれかかり、甘ったるい息を吐いた。本当に酔っているのかどうかは別として、サナに同じことをされたときとはまるで違う感想をエルドは抱いた。――あのときも仮に彼女が相手であれば、あれほど苦しい思いをすることはなかっただろう。


 エルドは特に返事をしなかったのだが、彼女は彼の沈黙を〈幸福の肯定〉と受け取ったらしい。儚くため息をつきながら囁いた。


 「お幸せなのね。羨ましいわ……」

 「君は違うとでも? 」


 詳しく聞きたくはなかったが、そうしなければ彼女はますます機嫌を悪くするだろう。別れて久しい相手の機嫌の取り方を敏感に思い出せたのはエルドには驚きだった。


 きちんと聞き返したのに、彼女はエルドを詰り出した。


 「あなた、お変わりになったのね。殿方はみんなそう。君は違うとでも、ですって? 前だったら、どうしたんだい、話してごらんよって言ってくださったのに」

 「――君は変わりませんね」


 変わってくれていたらいいと思っていたのに。もう何も聞かなくても、彼女が今いかに〈不幸〉かが分かるような気がした。


 宝石箱を選り好みする金メッキの飾り。今の彼女はまさしくそれだ。


 「わたし、メーゼの領主のところへお嫁にやられたの。あなたと別れてすぐよ」


 まるで円満に別れが訪れたか、さもなければエルドが彼女を捨てたか――要するに、彼らの破局の原因は自分の方には一切ないと思っているに違いない口ぶりで、彼女は言った。


 「結婚したときからそうだったけど、本当につまらない男なの……わたしのことを女中か何かと思っているみたいでね、自分は本当の女中なんか追いかけて」


 彼女の夫、気の毒な――そう表現して差し支えないだろう――メーゼ卿が、別の人間が妻の相手をしてくれるこの夜会という機会を大いに活用して、くたびれた顔を気心の知れた紳士たちに見せているのがエルドから見えた。彼は篤実で、慎み深い人物だと聞く。そうなると、領主の妻と女中の扱いの差の区別もつかない女の相手は、善良な彼にはさぞ大変だろうとエルドは思わず同情した。


 本当に見せかけだけの夫婦仲で彼女が苦労しているというのなら話は別だが、彼女の家庭内で迫害を受けているのは彼女ではなく、明らかにメーゼ卿の方だった。


 「……あなただって、本当はそうなのでしょ? 」

 「なにがです? 」


 彼女の相手を好きで続けていたとは、若かったとはいえ恋とは盲目だ……などとぼんやりしていたエルドは、一方的な愚痴の大半を聞き流していたために、突如向けられた問いかけの語調へついまじめに聞き返してしまった。


 彼女は甘やかな色の口紅を引いた形のよい唇を、小さな囁きのためにふっくらと動かした。


 「本当は、お幸せなんかじゃないんでしょ? 」

 「――なぜそう思うんです」


 エルドは急に一音も二音も下がった自分の声を自覚しながら言った。確かに普通の夫婦より進展は遅いかもしれないが。サナとの間にあるものは、普通の夫婦とは違うものなのかもしれないが。


 分かったような口を利かれることが、これほど不愉快だとは。


 ところが、元恋人の声色から心の機微をわずかでも感じ取れるような感受性を、メーゼ夫人はひとかけらも持ち合わせていなかった。あの頃も、今も。


 「だってあなたの奥さまったら、まるであなたのお嬢さんみたいじゃない……誰かと結婚なさるには、ちょっと早かったんじゃないかしら。殿方が何をしたら喜んでくださるのかもご存じなさそうだし、とてもじゃないけどあなたと釣り合っているようには――」

 「それは」


 とエルドは普通に返事をしたつもりだったので、今度の声には血も通っていなさそうだということには発声するまでまるで気がつかなかった。


 「彼女と夫婦になるには僕が老けすぎていて、彼女が気の毒ということかな? 」

 「まさか……」


 メーゼ夫人はようやくエルドの怒りに気がついたらしく、しどろもどろに言い繕った。その反応も致し方ないだろう。なにしろふたりが恋人同士だった頃、エルドが彼女に向かって怒ったことなど一度もなかったのだから。


 「ち、違うわ……あんな子どもみたいな子が相手じゃ、あなたがおかわいそうということよ! どうせあなたの財産目当てだったに決まってるわ! 」

 「そうですね。君は彼女と同じくらいの歳のころ、いろいろな男を喜ばせる方法をすでに熟知していたのでしょうからね」

 「な………なんですって! 侮辱するおつもり? 」

 「君こそ、僕のことを大した学習能力のない男だと思っているようですね。そもそも、妻を貶されているのに同調するような男だと思われていたことも屈辱ですが……悪口で取り入れる相手かどうかくらい、最初に見極めては? 君の社交術には必要なことでしょうから」


 夜会ではまだ招待客同士のワルツが続いている――エルドはメーゼ夫人を〈フォーリ夫人〉として今日の夜会を迎えたかもしれない可能性について考えてみたが、少し虚しい気持ちがしただけで、幸福感など見出しようがなかった。


 「ベアトリーチェ」


 何か一心に言い募っていたメーゼ夫人は、エルドを見上げて黙り込んだ。エルドは言った。


 「僕はサナを愛しているんです。君から見てどんなに不釣り合いでもね」


 メーゼ夫人は愕然とした。平然と自分に背を向けたエルドに呪いの言葉を吐くその顔は、やはり美しかったかもしれない。鬼より恐ろしかったかもしれない。醜く崩れていたかもしれない。もはや彼女を顧みることのなかったエルドには、どれでも同じことだった。


 ただひとつ、確かだったのは――メーゼ夫人の暴言は退場に値すると評価され、彼女はカルディ家の執事に宥められながら夫とともに廊下に連れ出されていった――エルドには彼女を幸せにすることはできず、彼女にもエルドを幸せにすることはできなかったということだった。


 ――サナ。エルドはメーゼ夫人に気を取られている間にすっかり見失ってしまった彼の妻の姿を探した。


 彼女は、まだテオフィルスと踊っているはずだ……メーゼ夫人との遭遇で思いがけず動揺した心は、彼が自覚している以上にサナの存在を必要としているようだった。


 軽やかに踊る人々の間に、青紫色のドレスがちらりと見えた。エルドはそちらへ近づいていき――やがて聞こえてきた声に、思わず立ち止まった。



 テオフィルスにワルツに誘い出されてからというもの、サナは困っていた。最初からエルド以外と踊るつもりなどなかったからだ。単に一回でも多く彼の


 「僕の妻です」


 を聞きたかった、という理由だけで今日の夜会に参加した彼女は、エルドがうるさく言わないであろうことを見越して始終夫のそばにくっついているつもりだったのだ。とはいえ、礼儀上今夜の主役を無碍にするわけにもいかなかった。


 既婚者の女性を独身の男性が踊りに誘うのは無作法なことではない。逆に、テオフィルスの方でも初めて自宅の夜会に訪れたサナをもてなすつもりで声をかけてくれたという可能性が高いのだ。そんな相手をむやみに警戒するのはどうなのかと、サナ自身でさえそう思う。


 だが実際にワルツがはじまってみると、いくらも音楽が進まないうちにサナは後悔しはじめた。テオフィルスの踊りは、エルドとはまるで違っていたのだ。


 「今晩は、来てくださってありがとうございます」


 振りで顔が近づいた瞬間、テオフィルスがそう囁きかけてきたのが最初だった。サナはぎくりとして思わず体を離しかけたが、それでは礼を欠くことに危うく気がついて口元ににっこりと笑顔を貼り付けた。腰に触れているテオフィルスの手袋越しの熱が苦しい。


 「ええ、こちらこそご招待ありがとう。夫も楽しんでますわ」

 「トラモント卿ですね――彼はあまりこういった場には顔を出さない方と聞いていましたが、あなたのような方とご結婚なさったのなら披露なさらないわけにはいかなかったのでしょうね」


 テオフィルスは気取った表情の上にうっすらとしたほほえみを浮かべた。母親譲りの華やかな美貌が武器になるということを、自分でも熟知しているのが分かる振る舞い方だった――サナが自分を拒否するはずがないと言わんばかりの。なぜエルドやアントーニが揃ってこの青年と〈気が合わない〉と言ったのか。今ならその理由も分かるような気がした。


 彼の独りよがりな態度は踊り方にも表れ、やたらと大胆で大きな足運びや派手な振りばかりが繰り返されるので、サナはついていくので精一杯だった。エルドが相手なら、あんなに安心して身を任せていられるのに……ただ幸福でいられた数十分前のひとときに思いを馳せたところで、目の前の状況を打開できるわけでもない。この一曲が終わるまで、今は耐えるしかなかった。


 あまり熱心に見つめられるので、せめて妙に甘やかな沈黙を長く続けまいとサナは必死で尋ねた。


 「大学では、何を勉強していらしたの? やっぱりヴァイオリンを? 」


 テオフィルスにとっては願ってもない質問だったようだ。彼は優雅にほほえんだ。


 「ヴァイオリンなぞ……父は音楽の学校へ僕をやりたかったようですが、最後には分かってくれましたよ。これからの時代、やはり呑気に音楽をやっているばかりではいけないと思いましてね。経済と、それから法律を少々……時代が変わっても、先行きは非常に明るいと自負していますよ」


 そのとき、ワルツの最高音の盛り上がりに合わせてテオフィルスはサナを引き寄せた。助けを求めたかったのか見られたくないと思ったのか、どちらなのかは自分でも分からないままサナは咄嗟に夫の方を見たが、エルドは金髪の女性客と話していてサナの方を見ていなかった。


 テオフィルスはいつまでもよそ見をさせていてはくれなかった。


 「トラモント卿はご覧にならなくてよいのでしょうか? あなたはこんなに美しいのに……」

 「夜会ですもの、いろいろな方とお話しすることも大切ですから。でも美しい方によそ見するようでも困りますから、近くで目を光らせていないといけませんわね」


 これが遠回しな関係継続の拒否であることに、テオフィルスは気がつかなかったようだ。彼は踊りながら床を移動し、周囲で踊る人々に紛れてサナをエルドの視界から巧みに連れ去った。


 「僕なら、一分一秒でもあなたから目を離せない」


 耳元に囁きかけられてサナは思わずぞっとした。この曲、一体いつ終わるのかしら――彼女は焦れたが、テオフィルスはお構いなしだった。


 「フォーリ卿はあなたにとってどんな方ですか? 」

 「とても優しい人ですわ」


 サナは実感を答えただけだったのだが、この評価はテオフィルスの意図するところではなかったらしい。夫の話題が出たことで油断していたサナには知る由もなかったが、楽卿の息子として前々からエルドのことを知っていたテオフィルスにしてみれば、〈優しさ〉はエルドが持つ性質の中で特筆されるべきものではなかったのだ。彼がサナに知らせたかったのはエルドの別の印象だった。


 「彼は昔からずいぶん無口だし、奥方にも気難しい方なのでは? 結婚なさったと聞いたときは驚きましたよ」

 「言葉で相手を傷つけたり嫌な思いをさせたりしないように気をつけているだけだと思いますわ。それに詩人ですから、美しい言葉を使う人です」

 「それはたとえば、女性に愛を囁くときにだとか? 」


 テオフィルスは壁際で立ち話をしているエルドと女性客を見やった。彼がサナにどういう疑いを抱かせたいかは明白だったが、エルドの顔を見る限り好きで彼女の相手をしているのではないのだろうということも同じくらい明らかだった。かえって、夫に無用な疑いを向けさせようとするテオフィルスの浅はかさを感じて、サナはますます彼が嫌になった。


 わたしを口説いているくせに、どうしてエルドのあの顔に恋の気配があるなんて思えるのかしら。自分が今、あんな熱の欠けた顔をしていると思っているのかしら。


 サナは怪訝に思ったが、そういえばテオフィルスはエルドを無口で気難しいと思っているのだった、と思い直した。サナが今のエルドの顔に〈熱が欠けている〉と思ったのは、いつもエルドがサナを見る表情の方がずっと優しく、温かいものだと彼女がよく知っているからだ。


 いつの間にか、そんなことも分かるようになっていたのだ。サナは考えているうちに、思わずほほえんでしまった――テオフィルスは、これを非常に有望な兆候と受け取ったらしかった。実際には、サナの幸福感に彼はまったく寄与していなかったのだが。


 「サナとお呼びしても? 」


 サナはこの質問には聞こえなかったふりをせざるを得なかったが、テオフィルスはもはや挫けなかった。


 「今日このときだけの縁とするのは寂しい――また会っていただけますね? 今度はふたりきりで」

 「ご冗談が過ぎるのではなくて? 」

 「おや、これは……実に奥ゆかしい」


 テオフィルスは口元に微笑を浮かべた。


 「しかし、今どきその程度の火遊びなど珍しくもないでしょう。おとぎ話に憧れる少女でもあるまいし――それに先ほども申し上げましたが、僕は付き合って損のない男ですよ」


 テオフォルスとしては、新婚のサナを〈大人の女性〉として賞賛する意味の言葉だったのかもしれない。だが、〈少女でもあるまいし〉という彼の一言はサナを決定的に傷つけた。


 「……わたしたちを侮辱なさるのね」


 サナが明らかな敵意を向けたので、テオフィルスは怯んだ――彼女の気迫に驚いたというよりも、彼女が拒絶の意思をはっきり示したことが本気で意外らしかった。


 恐らく、彼に同じように口説かれて陥落した貴婦人がこれまでに何人もいるのだろう。彼はなにしろ、絶世の美青年だ。想像にかたくない。


 エルドの顔に泥を塗るまいという健気な心がけが、これまでサナに反撃の姿勢をとらせなかった――だが、もはや我慢も限界だった。


 「わたしの夫は、わたしを裏切ったりしません。わたしのことだって……夫を裏切るような女に見えるとおっしゃるなら、それはれっきとした侮辱ですわ」

 「い、いや……僕はなにも、そんなつもりでは――」


 音楽はまだ途中だったが、サナはテオフィルスを振りほどいて彼の腕を抜け出した。


 テオフィルスから逃れることには成功した。だがただでさえ彼の強引な踊りに巻き込まれていたところから無理やり脱出するのは至難のわざだった。サナは踵でドレスの裾を踏み、思いきりつまずいた――。


 (………! )


 周囲で踊っていた人々が驚いたようにこちらを見る。だが、サナは転んでしまうことはなかった。背後から抱き留められたのだ。


 「――怪我はありませんか? 」

 「エルド……」


 少し眉を下げた、困ったような表情。サナが転びそうになったので、慌てて走ってきてくれたのだろう。サナをきちんと立たせ、覗き込んでくる琥珀色の瞳はとても優しいもので、サナは直前までの屈辱的な仕打ちから救われたことを知って少し涙ぐんだ。


 エルドに聞かれてはまずいことを発言していたという自覚はあるのか、テオフィルスは黙りこんでいる。エルドは何をそんなに気まずそうな顔をしているのかと穏やかに不思議がっているような顔を彼に向けたが、サナの背を抱いたまま、テオフィルスと対面させることはなかった。


 「申し訳ない――城から使いのものが来ましてね。急用なのですぐに戻ってほしいとのことで」

 「あ、ああ……そうでしたか」

 「妻も少し体調が悪いようですし、今夜はこれで失礼します。改めて、お招きありがとう」

 「こちらこそ……」


 テオフィルスは型通りの挨拶をぎくしゃくとこなした――彼らしい優雅な振る舞いはこのときまったく失われていた。


 エルドはサナを促して演奏が続く大広間を抜け、カルディ家の使用人にフォーリ家の馬車を呼んでくれるよう頼んだ。城から急用の使いがきたというのは、嘘だったのだ。だが、エルドは本当に帰るつもりのようだった。


 サナは安堵したが、それ以上に情けなかった。テオフィルスが言うように、こうした場でのちょっとした誘惑は本当に軽い火遊びのようなもので、あんなに拒絶するようなものではなかったのではないか……受け入れることなどできはしないが、せめてもう少し体よくあしらったり、話を逸らしたりすることだってできたのではないか。


 エルドの妻として初めて夜会に招待されたというのに、遊び程度の誘惑に動揺し、参加者との社交を深めることもできず、こうして夫に迷惑をかけている。


 だから、わたしは子どもなんだわ。今も、一言でもエルドに謝りたいのに、それもできない。せめて気づかれないようにしなくちゃ……。


 だがいくら声を立てないようにしたところで、かたわらのエルドに涙を隠すことなどできるはずがなかった。


 「――サナ。どうしたんです」

 「……ごめんなさい。わたし、うまくできなかったわ。せっかくお呼ばれしたのに」

 「ああ」


 エルドはほっとしたように息をついた。


 「そんなことならいいんです……もともと気乗りのする会ではありませんでしたし、むしろこうして早く切り上げられたのは僕としては幸運でしたよ」

 「でも……」

 「君が本当に仲を深めたいと思えなかったのであれば、無理に相手と関わる必要はありません」


 エルドはサナの肩を抱いたままきっぱりと言った。


 「誠実さは君の美質のひとつです――賞賛されこそすれ、誰かのために犠牲にしていいものではない。……君はどうか、君の気持ちに素直なままでいてください」


 馬車が到着し、ふたりは帰路についた。サナはエルドから離れられなかったが、エルドはその必要がなくなってもサナの肩をじっと抱いていてくれた。


 「エルド」

 「うん」

 「エルド……」


 サナは涙を止めることができないまま、夫に願った。


 「抱きしめて……」

 「………」


 エルドは動揺したように一瞬沈黙したが、やがてかたわらの彼女を強く抱擁した。縋っているのはサナの方なのに、エルドに縋られているような不思議な感覚があった。


 苦しくはないのに息が詰まった。願いどおりに抱きしめられているのに、なぜこんなに寂しくなるのだろう。もしかしたら、彼の腕があまりに優しかったからかもしれない。……


 きっと、彼の方でもサナに言えない気持ちが何かあったに違いない、とサナは思った。そのくらいのことを察せられるほどにサナは彼のことを好きで、それ以上のことは分からない程度にしか彼のことを知らなかったのだ。


 夜会から帰って、一週間。何か思い詰めているらしいエルドを心配していたサナに、彼は別れを切り出した。


 今にも泣きそうな声で、君のせいじゃない、と言いながら。



 アントーニは友人の背を、ものも言えずに見つめた。彼を案内してきたジュリオがうなだれている。サナがいなくなってから、もうずっとこの調子だと。


 彼ら夫婦に何があったのか……どういうやりとりの末にこうなったのかは、誰にも分からなかった。ただ、エルドがサナに別れを告げ、サナがそれを受け入れてフォーリ家を去ったことは確かだった。サナがいなくなった城はほんの四、五ヶ月前とまったく同じ状況のはずなのに、明らかに以前より暗く感じた。


 そして当のエルドは、泣いてみもしないくせに散々泣いてまだ泣き足らないというような、アントーニですら見たことがないようなまったくひどい顔をしていた。そう、どちらが振られたのだか分からないような顔を。


 「あんたは一体、何をやってんだ」


 アントーニは努めて気丈な声を出した。本当ならお互いのために放っておいてやりたいところだが、今のところエルドと対等にやりあえるのは彼しかいない。使用人たちのためにも、彼が踏み込むしかなかった。


 「サナを出て行かせたんだって? ……馬鹿だな、本当に」


 言い返してこないということは、異論はないのだ。みずからの行いのせいで今にも死にそうな顔をし、一方的な罵倒を甘んじて受けている城主の力ない背に、アントーニはだんだん本当に腹が立ってきた。


 「何か言いたいことはないのかよ」


 エルドは答えない。サナのこともこうやって取り付く島もなく閉め出したのかと思えば、アントーニはもう引き下がれなかった。


 「サナを追い出すなんて、よくそんなことができたな。最初から押しつけられた結婚だったから、やっぱり嫌になったってわけか! そうだよな! どっかの〈一等星〉みたいに、もっと派手で遊べそうな女はいくらだって――」

 「――サナを侮辱するな! 」


 エルドがすごい剣幕でアントーニの方を向いた。アントーニも、扉の近くに控えていたジュリオもぎょっとした――まるで本当に掴みかかってきそうな勢いだったのだ。


 こんな、火花が飛び散るような怒りがエルドから発露するとは思わなかった。……いや、知らなかっただけなのだ。エルドが掴みどころのない性格に見えていたのは、本来の激情から周囲の人間を守るために彼が本心を覆い隠していただけだったのだと。


 サナを手放したのも、恐らくそれが原因で――彼自身から彼女を守ろうとした結果なのではないかとアントーニは思った。エルドは恐らく、彼自身の気持ちがサナにはふさわしくないと思い詰めたのだ。サナが彼の本心に気づき、彼を恐れ……あるいは、嫌悪や軽蔑を抱くことに、彼は耐えられなかったのだ。


 果たして本当にそうなのか、確かめることもできないくらいに。


 「……あんた、サナに手を出しちゃまずいとでも思ったんじゃないのか? 」


 この一言の効果は絶大だった。エルドはてきめんに黙りこんだ。


 「どうして……」

 「分かるさ。おれも男だからな――本気になった女にこそ言えねえってのは分かるよ。……けど、」


 アントーニはさらに続けようとしたが、口を噤んだ。エルドは、サナが自分を受け入れてくれることはないと思い込んでいたのだろう。ならば、彼にとってアントーニがしようとした問いかけは、あまりに残酷なものだろうから。


 ――けど、サナがあんたと同じ気持ちだった可能性だって、あったんじゃないのか? 

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