第6話 行き違い

 二十四歳のとき、エルドはある令嬢と恋仲だった。父方に北方の国の血が流れているとか――舞踏会に居並ぶ娘たちの中でたったひとりきりの黄金色の巻き毛と空色の瞳は、秋の一等星のように美しかった。


 そんな輝きに満ちた彼女を一体何と言って口説き、どうやって恋人同士になったのか、今となってはエルドに思い出せることは何ひとつない。それどころか、恋人だった間に彼女と何を言い交したのかさえさだかでなかった。


 熱烈な恋情があったということは途切れ途切れに覚えている――熱烈だったのにもかかわらず、なぜこうも曖昧な記憶になってしまったか。そちらの記憶の方は、今もって鮮烈だった――忘れたくとも、いつまでも記憶から去ってくれないのだ。出会いも衝撃だったが、別れはそれ以上の衝撃で青年だったエルドの心をばらばらに引き裂いてしまったのだから。


 運命の日、エルド青年にはたまたま彼女の屋敷の近くへ出かける用事があった。だから、帰路につく前に花束を持って彼女を訪ねたのだ。事前に約束はなかったが、父卿は喜んで彼を迎え、娘の居場所までの案内を買って出た――その純潔を信じて疑っていなかった愛する娘が、庭の木陰で恋人以外の青年と抱き合っている最中だとも知らずに。


 浮気の相手は、屋敷に出入りしている楽師だった。絶句する父親と恋人を前に、彼女は可愛い目を瞬かせながら言った。


 「この人、わたしに宝石をくれたのよ。そりゃああなただってたくさん贈りものはしてくださるけど、彼はあなたよりずっとお金がないのに、わたしのために尽くしてくれたの――わたしだって、応えてあげなくちゃ」


 黙らせようとする父親を無視して、彼女は続けた。


 「それに正直言うと……あなたのお話、つまらないのよね。わたし、詩になんてちっとも興味ないもの」


 結局、彼女は家柄のいいエルドと表向き恋人としてつきあいながら、その実彼女の美貌を慕って集まる若者たちと好き勝手に、まるで悪びれることなく恋愛を楽しんでいたということがじきに明らかになった。エルドが彼女のために丹精込めて書いた〈乙女のための賛歌〉は、彼女にとっては何の値打ちもないものだった――そんなことも、エルドはそのとき初めて知ったのだった。……


 「………」


 暖炉の薪がぱちんと音を立てて弾け、エルドは虚ろな旅から戻ってきた。隣でサナがうつらうつらと頼りなく舟を漕いでいる。ずれた肩掛けを直してやりながら、エルドは温かい火に照らされた妻の顔を見つめた。彼女はこの城にいる限り、世の中のいかなる害悪も自分を傷つけることはできないと信じているのに違いない。彼が隣にいることに心から安堵しているようなその表情はとても無垢だった。


 エルドはサナに嫌われたくなかった。同時に、自分がサナを嫌うことを――そうせざるを得なくなるような出来事がなにか起こることを恐れていた。実際には、たとえサナが宝石ひとつでエルドを裏切ったところで、今さらサナを突き放せるかは疑問だったが――サナの持つ、光輝くような明るさ。純粋な笑顔。掛け値のない優しさ。言葉の端々に現われる聡明さ。こうした美質は、コラジ家出身の女性詩人たちが創作してきた詩の印象と重なる。


 だから、サナを詩人として導くことにしたのだ。先人が遺した詩と似た雰囲気を持つ彼女なら、やがて負けず劣らず優れた詩人になるかもしれないとエルドは思った――そして、この考えはいまや確信に変わっていた。エルドの指導を受けるようになってからサナが書いた詩はどれも彼女らしい愛嬌や夢想が十分に表現されたものばかりで、小さな宝石を無数に散りばめたかのように、選り抜かれた言葉によって組み立てられていた。


 まだ少し粗削りなところはあったが、エルドはサナ本人を愛するようにサナの詩を愛した。なぜ伯母がサナをエルドの妻にと思ったのか。今ならその考えが少しは分かる。


 コラジ家にとっては破格の良縁だったというのが、今回の縁談に対する大方の評価だったと聞く。エルドはそれを否定することはなかったが、誰それがそう言っていたというのが耳に入るたびに、好奇と羨望に釣り合わない彼らのお粗末な洞察力をおかしく思っていた。それだけよその家庭のことは見えにくいということかもしれないが、そういう噂を平然と口に出す人々は、すぐにまた決まってこう言うのだ。


 「フォーリ卿にとってよかったのは、若い妻を手に入れたことだけだったね。聞くところによるとそれなりに美人らしいし、どうだい、それならお互いに、これ以上ない結婚だったと言えるんじゃないかね」


 話を聞いて腹が立ってきたら、一緒にいるのは午後の八時までだと彼らの目の前で告白したときのことを想像する。恐らくまるで信じないものと仰天するものとに反応は分かれるだろうが、愛情など毛の先ほども通っていないのだろう、欲を持ち寄って夫婦として結びついているようなものなのだろうと考えている連中を多少なりとも動揺させることができると思えば、エルド自身も無傷というわけにはいかないが、溜飲も多少は下がろうというものだ。


 「――かわいい人ですね、君は。ほんとうに」


 そっと呟いたのはサナが眠りかけていて、絶対に聞こえないと分かっていたからだ。彼女には聞こえてほしくない――だが、本心だと分かってほしい。大変なわがままだ。自分がどれだけサナを好ましく思っているか、エルドには彼女の詩情と才能を愛しているという以外の言い方が分からない。それも嘘ではなかった。


 (『美しい物語の〈第三章〉を楽しみにしています』、か……)


 幾日か前にサナへ届いた伯母の手紙を思い返す。


 エルドが〈一等星〉に恋初めた頃、すでに結婚してトゥッカヴェルデ夫人となっていたメリルと、手紙で人生について議論したことがあった。サナが不思議がっていた〈第三章〉というのは、そのときのメリルの手紙が元になった表現なのだ。エルドはサナが手紙を読み上げるのを聞いてすぐにそう気がついたが、サナに謎解きをしてみせる勇気が出なかった。


 当時のメリルの手紙というのは、次のようなものだった――夜会で出会ったトゥッカヴェルデ卿に見初められて大恋愛を経験したメリルは、愛を物語に喩えて甥に意見したのだ。


 『第一章、はじまり方はいろいろよ。結末がどうなるかは、恋の場合二種類からしか選べません。でも第二章のはじめの頃まで、考えていることはみんな同じ。第三章まで続きがあって、家族の未来を考えるくらいになれれば、言うことないわね。


 ところで、この〈美しい物語〉の最後の場面は、結婚式ではないとわたしは見ているわ――もちろん、そう思いたい人もいるでしょうけどね。愛にとって、結婚はひと区切りではあるけれど結末ではないのです。あなたも噂の〈一等星〉のお嬢さんと一緒になれば分かるわ』


 残念ながら、結婚は結末でないという伯母の助言をエルドが理解したのはつい最近のことだったが、メリルが物語に喩えたうちのどの章に今の自分たちを置けばいいのやら、エルドには見当もつかなかった。メリルは〈第三章〉も近いと思っているようだが(この手紙をやり取りしていたとき、彼女はちょうど妊娠していたのだ)、第一章の一行目がいきなり結婚、それも夫が妻を避けるところからはじまった場合どうすればいいのかということまでは、伯母の喩え話は教えてはくれなかった。


 サナの愛情を疑っているわけではない。鏡を覗くより、彼女の目を見てまなざしを受け止めた方がよほど確かな自信が手に入るくらいだ。こちらを見上げて信頼に緩むサナの瞳を見つめる権利は、もはや何にも代えがたい彼の財産と言ってよかった。


 エルドが疑っているのは、サナの愛情が何に由来するものなのかということだった。そして、サナと自分とで愛情の種類や熱量に食い違いが起こることを、彼は心底恐れていた。


 エルドにとってサナは妻であり、教え子だ。どちらであろうが根底に共通する想いはいまや確固たるものになりつつある。だが、サナの方に師弟愛以上のものがあるのかまでは彼には分からなかった。そうして今も、彼女の髪を撫でようとした手を彼は下ろすことになる。


 サナがあの〈一等星〉のように、誰かと奔放な恋を楽しむようにはとても見えない。まともな恋をしたことがない可能性すらあるのではないか……。


 どうして、サナが自分を好きになってくれるなどと思えるだろう? どうして、初恋を捧げる相手として選んでくれるなどと信じられるだろう? 歳だってずいぶん違うというのに。突然の結婚話で、彼女にとっては他に選びようがなかったというだけかもしれないのに。


 うぬぼれてはいけない。サナの気持ちの在りか以上のところへ、先走ってはいけない。


 その突き詰めた心の一点を見誤ったとき、今ようやく見出しかけているサナとの幸福は、進展の遅さを裏切って粉々に崩壊することになるだろう。



 エルドが詩卿たちの会合に出かけてしまったので、その日はニコラがサナと町に出かけることになった。フォーリ家代々の〈みなし領地〉であるフォーリの町は王都のような華やかな活気には希薄だったが、全体に落ち着いたのどかな雰囲気の場所で、サナは一目でこの町が好きになった。町は海と森に囲まれ、国全体から見れば田舎の一地方に過ぎないだろう。だが、現在の領主であるエルドに似た、どこか優雅な色合いも確かにあった。


 無地だけど、とても質のいい布。


 素朴だけど、こだわった素材で作られたお菓子。


 派手さはないけど、素晴らしい芳香と薬効のある花。


 サナはニコラについてフォーリの町を歩きながら、この町のことを詩に表現するとしたらなんと書こうかと考えた。


 「都会ではないけど、悪くない町だろ」


 サナと一緒に帽子屋の出窓を覗いていたニコラが言った。売れ筋なのだろう、レースをあしらったボンネットがたくさん並んでいる。見ているだけでもひとつひとつ丁寧に作られているのが分かる上品なものだった。ニコラの方は、その隣にひとつだけ飾られた満艦飾の帽子に声を上げた。


 「見て、サナ。あの帽子、あんなに羽根がついてる! 」

 「今、王都で流行ってるのよ」

 「あれが? へえ、都会の人の好みって分かんないなあ……サナもああいうの好きなの? 」

 「ううん……隣にあるボンネットの方がいいわ」

 「やっぱり? ……あ、でもさ、あんたの結婚式の日に――なんていったっけ、サナのいとこの……」

 「イライザとアリーチェ? 」

 「そうそう、あの人たち、ああいうの被ってたよね。よくお似合いで……」


 サナはニコラの言い草に吹き出してしまった。気の強いイライザが、軍艦の飾りのついた帽子を自慢そうにかぶっていたのを思い出したのだ。アリーチェの方も、リボンと鳥の羽根で飾り立てたごてごての帽子を、羨ましいだろうと言わんばかりに気取ってかぶっていた。


 結婚式でサナよりも目立ってやろうという魂胆だったのかもしれないが、残念ながらこの企てだけは、サナを笑わせる以外の効果はなかった(おかげでふたりとも、せっかく滞在中サナをからかったのに帰るときはいたくご機嫌斜めだった)。そのときのことを思い出すにつけ、サナもニコラも笑わずにはいられなかった。


 「うちの店の前で笑っているのはどこのお嬢さんたちかしら? 」


 とうとう店の人が顔を出した。娘たちのおしゃべりを咎めようという気はないようで、服飾を扱うものらしく上品に装った奥さんは、にこにこしながら話の輪に加わった。


 「ああ、あのすごい羽根の帽子ね……都会の流行りだからって、うちの人が仕入れてきたのよ。フォーリの町じゃこんなの売れやしないわよって、わたしは言ったんだけどね――」

 「あんた、自分とこの売りものにそんなこと言うもんじゃないわよ」


 帽子屋の奥さんの後ろからさらにもうひとり女性が出てきて、友だちに苦言を呈した。どうやら、ふたりで暇に飽かしてお茶の時間を楽しんでいたらしい。


 あとから来た奥さんはニコラを見て目を丸くした。


 「まあ、ニッカじゃない。あんたが帽子に興味があったなんてねえ」

 「こんにちは、メルティスさん。お茶なんか飲んでていいの? 」

 「いいのよ。うちは夕方からだし、午前中の仕事はもう終わったから。そっちの子は、お友だち? 」

 「そう。まあ、立場的にはあたしの〈奥さま〉なんだけどね」


 これを聞いたメルティス夫人は「ええ」と「まあ」の合いの子のような華やいだ悲鳴を上げた。帽子屋の奥さんは事情が分からない様子でのほほんとした笑顔を浮かべていたが、メルティス夫人に


 「ほら! フォーリ卿の若奥さまよ! 」


 と脇腹をつつかれ、まあ、と口を覆ってサナを見つめた。


 メルティス夫人は油の撥ねた前掛けをもじもじといじった。メルティス家は近所では有名なかかあ天下だったのだが、自分の夫や下町の飲んだくれにはいかんなく発揮される彼女の威勢も、こと〈若奥さま〉に対してはそうもいかなかった。


 「ごきげんよう、奥さま……お目にかかれて光栄ですわ。わたし、酒場をやっているメルティスと申します。フォーリ卿にはいつも大変なご贔屓をいただいて」

 「まあ、エルドが? 」

 「ええ、うちは来た人に飲ませるだけじゃなく、頼まれたところへお酒なんかを届ける仕事もしているんですよ。フォーリ卿には、先々代からお世話になっていて――いつもうちの人がお肉やお魚をお届けに上がってるんですけどね」


 このとき、サナは最近エルドからこの人の名前を聞いたことを思い出した。


 「あ……それじゃあ、洋梨のタルトの――」

 「まあ、お恥ずかしい」


 メルティス夫人ははにかんで頬を染めた。


 「そうなんです、お城のお菓子は特別に注文をいただいていて……奥さまのお口に合うかどうか、分かりませんけれど……」

 「サナはメルティスさんのお菓子すごく好きなんだよ。ねえ? 」


 ニコラが言ってくれた。サナは頷いた。


 「ええ、本当に。いつかお会いして、お礼を言いたいと思っていたんです」

 「そんな、もったいない……ああ、でも、そういうことだったのね」


 メルティス夫人は納得した様子でサナをまじまじと見つめた。


 「最近ね、フォーリ卿がご自身でお菓子を注文なさるようになったから不思議だったんですよ。前までは必要なときにマルタから頼まれたりしていたくらいでしたからね。……そうだったのね。奥さまがいらしたからだったのね」


 サナはエルドの様子を思い返した――確かに、彼はサナがデザートを食べているのを眺めはするが、自分ではあまり口をつけないような……。


 「エルドって、甘いものが好きじゃないのかしら? 」

 「まったく召し上がらないわけじゃないでしょうけどね」


 とメルティス夫人はこともなげに言った。


 「甘いものが好きじゃないというよりお酒がお好きなんですよ、あの方は。先々代さまからそうだから、いつも同じ葡萄酒を切らさないようにしてるんですよ」

 「ご自分は辛党なのに、奥さまのためにお菓子をご注文になるなんて! 」


 帽子屋の奥さんが乙女のように華やいだ声を上げた。


 「素敵だわあ……仲がよろしくていらっしゃるのね」

 「エルドがお酒を好きだなんて知らなかったわ」


 ふたりの奥さんに明るく見送られて通りを歩きながら、サナはぼやいた。エルドが、サナのためにわざわざお菓子を注文していた――この事実は、奥さんたちにとっては夫から妻への最高の愛情表現だと感じられたようだ。


 だが、サナの注意は知ったばかりのエルドの辛党ぶりに向いていた。ニコラは不思議そうにサナを見た。


 「気になる? サナもお酒好きだったの? 」

 「ううん、わたしは甘いものの方が好きだけど……エルドがお酒を飲むところなんて、見たことがなかったから」

 「なんだ、じゃあいいじゃん。旦那さまもあんたがお酒に興味ないって分かってるからひとりで飲んでるんじゃない? お酒を頼まれるの、大体夜だしね」


 ニコラは何気なくそう言ったが、この事実はサナを少なからず傷つけた。


 「……やっぱり、お酒を一緒に飲めるような人の方がいいのかしら」

 「なんのこと? 」

 「エルドは……わたしのこと、小さい女の子みたいに――思ってるんじゃ……」


 サナが涙ぐんだので、ニコラはぎょっとした。彼女はあたふたとサナの肩を抱き、なんとか慰めようとした。


 「ちょ、ちょっとちょっと。なに? 小さい女の子? あんたが? 」

 「だって……」


 サナはこの先を口に出したものかどうか迷った。だが、年は近いとはいえ結婚して子どももいるニコラは、女性としての経験値がサナとは桁違いに高いのだ。それに、なにかとさっぱりした気性を持っている彼女になら、打ち明けられる気がした。


 「だって、エルドは……キ、キスもしてくれないから……」

 「あー………それはさあ……」


 ニコラは頭を抱えた。


 「んー……でも、旦那さまがあんたを好きだってのは確かだろ? 自分は大して食べないのに、あんたが好きだからって甘いお菓子を頼んでるんだもん。あんたが嬉しそうに好きなものを食べてる顔が見たいんだよね、きっと」


 だがそれは、相手が姉妹や娘や姪であっても――つまり、恋愛の対象にはなりえない相手に対しても十分にありえる愛情表現だ、とサナは思った。ニコラもそう思ったのだろう。その後もいくつか〈恋の根拠〉をサナに提示しようとしていたようだったが、成果はなかったらしかった。


 ニコラの目から見ても、今のエルドとサナは世にいう〈夫婦〉には見えないのだろう。なにかしらの愛情は存在するという証拠が見つかるだけで。サナはそう考えて、ますます落ち込んだ。


 「……なんか、腹立ってきた」


 やがて、ニコラは腕を組んで唇を結んだ。


 「あんたにじゃないよ、もちろん……サナみたいな子が来てくれたのに、いつまでもウジウジしてる旦那さまにだよ。結婚式だって顔出さなかったし、そのあとだってしばらくほったらかしだったしさ」

 「でも、それは……お加減が悪かったんだし」

 「だとしても! ……あ、でも」


 ニコラは一瞬で怒りを引っ込め、今度は満面の笑みでサナを見た。


 「キスしてくれないって悩んでるってことは、サナは旦那さまのこと好きなんだ? 」

 「えっ! ……だ、だって、エルドは――素晴らしい詩人だから」

 「それから? 」

 「……と、とっても、優しいし……あの……素敵な人だなあって、思うわ」


 サナがはにかみながら言うと、ニコラは深い溜め息をついた。


 「……こんなにかわいい人が奥さんなのにねえ。マジで信じられない。まあでも、紳士的って意味じゃ悪くはないか……世の中にはいろんな男がいるからさあ。あたしの前の旦那の話、聞く? それ聞いたら、旦那さまのこと気長に待てるようになるかも」


 前の旦那? サナは一瞬、聞いてはならないことを聞いてしまったかのような罪悪感に襲われた。だが、ニコラは気楽に言った。


 「大丈夫だいじょうぶ、もうあたしには関係ないやつの話だから。まあ、ラルフはそいつとの子どもなんだけどね、実は」

 「そうだったの……」

 「うん。だから、マッシモにはすごく感謝してるんだ。……でね、その前の旦那ってやつ、メルティスさんとこに雇われていろいろ届けてくれるやつだったんだよ。それで知り合ったの。もちろん、今はどこで何やってるか知ったこっちゃないけどね。とにかく、口のうまい男だったんだ」


 ニコラは眉間に皺を寄せた。


 「マッシモとの方がつきあいは長いんだけど、あの人って無口だろ? あたし今より若かったからさ、分からなかったんだ……口説くのがうまいからって、中身までいい男ってわけじゃないって。結婚してからのあいつは――というか、そっちが本性だったんだろうけど。短気で、ひどいやきもち焼きでさ。結婚してからもマッシモと働いてたから、それが気に入らなかったんだろうね。あたしのこと叩くようになったんだ」

 「ひどいのね……」

 「うん。でもラルフが殴られるんじゃないかと思うと、何も言えなくてね……このあたしがよ? 母さんにも心配かけたくなくてさ、仕方ないからお暇をもらおうかってことで、マッシモに聞いたんだ。あたしが抜けても大丈夫だよね、って」

 「そうしたら? 」

 「『どうしてもと言うなら引き止めることはできないが、事情があるなら教えてくれないか』って。驚いたよ……なにか堪えてることがあるんじゃないか、なんて聞くんだもの。それで、みんな話しちゃったんだ……最後まで黙って聞いてくれてさ。帰りが遅くなっちゃって……あの男、厨房に殴り込んできたんだ。おれの女房を返せって」

 「ええっ! 」


 サナは息を飲んだ。ニコラはたったひとりの聴き手をすっかり惹きつけていると知って、満足そうに頷いた。


 「さて、お立ち合い――ここからがすごいんだから。あいつね、あたしの前にいたマッシモを突き飛ばそうとしたんだ。ほんとバカだよね、毎日鉄板に乗ったパンを持ち上げてるような人をだよ? で、そのあとがよく見えなかったんだけど……マッシモがあいつの腕を掴んで、ぶっ飛ばしたみたいだった。かまどの横に積んであった鍋がガラガラって崩れたんだけど、マッシモが『後ろにいろ』って見せてくれなかったんだよね」

 「人を殴るところなんか見せたくなかったのよ……」

 「うん、そうかも。でもさ、バカ亭主の方は鼻血垂らしながらニヤニヤ笑ってんの。おれを殴ったな、出るとこ出てもいいんだぜ、って。おれはあちこちに顔がきくから、おまえみたいなやつに負けるわけないって……あたし怖くなってさ、もういいからって、出てこうとしたの。そしたら――」


 ニコラは低い声色を作り、胡散臭いほど優雅に腕を組んでみせた。


 「『こんな騒ぎを起こしてうちの城のものを壊しておいて、一体どこへ訴え出るつもりかな? 出るところに出るとまで言うのなら、君の方こそ覚悟はいいんでしょうね? 』」

 「エルド? 」


 不機嫌そうに目を細めたニコラの高飛車な物真似はエルドにはちっとも似ていなかったが、それはひとえにニコラの話し方のせいだった。サナの頭の中のエルドは、貴族らしい威厳で狼藉者を気高く黙らせた。


 ニコラはにやりと笑った。


 「このときジュリオさんがたまたま厨房の近くを通ってて、旦那さまに厄介なやつが来てるって教えてくれたらしいんだよ。で、旦那さまは中で暴れてるやつが話の通じなそうなやつだなって分かったんだね――いつもならこんな言い方しないもん。最後にジュリオさんが一言『では、外までお送りいたします』ってトドメ刺してさ」

 「エルドやジュリオさんに聞かれちゃったら、もうお仕事はさせてもらえないわね」

 「そうなの。それまで猫被ってたからさ、もう取り返しつかなかったんだよね。それであいつはすごすご帰って行ったんだけど、ジュリオさんがわざわざメルティスさんとこに行って担当を変えるようにお願いしてくれたもんだから、お店からも叩き出されてそれっきり。すぐ噂が広まって、フォーリの町から出てっちゃったんだってさ」

 「それであなたは、マッシモと? 」

 「そう――『君さえよければ、これからはおれが君とラルフの助けになりたい』って言ってくれたんだ。もうさ、断れないだろ? ……でね、隠してたのにどうして何かあるって分かったの、って聞いたら――」


 ニコラはまた低い声で、今度はマッシモを真似た。これは驚くほどよく似ていた。


 「『君がパイを焼きながら鼻歌を歌わなくなったからだ……』」

 「素敵ね……マッシモは、ずっと前からニッカのことを見てたのね」

 「うん……このことがあるまで全然気がつかなかったんだけどね。だからまあ、〈言わない〉男が悪いわけじゃないってのはよく知ってるんだけどさ、あたしも。……でも旦那さまの場合はもう結婚してるわけだし、やっぱりちょっと腹立つけど。だけどさ、あの人はあんたのこと叩いたり嫌がることしたりとか、それは絶対しないから。だから、もうちょっと待ってあげてほしいな」


 サナは頷いた。君が幸せだと安心すると、彼は言ってくれたのだ――静かに言葉を交わしたり、たまに髪を撫でてくれたり、まなざしの優しさを感じたり、柔らかく名前を呼ばれたり、……そういったひとつひとつから、サナはエルドの気持ちを受け取っていた。大切にされていることはよく分かっている――だからこそもどかしいというのも、また事実だったが。


 ちょうどそのとき道の反対側に小さなお菓子を満載にした屋台が現れ、ニコラはそちらに夢中になった。普段だったら、サナも喜んで目の前に並ぶマドレーヌや砂糖漬けや色とりどりのキャンディやチョコレートに見入っていたに違いなかった。


 だがこのとき、マルタとマッシモ、それにラルフのためにお菓子をあれもこれもと選んでいるニコラに付き合いながらも、サナはエルドのことばかり考えていた。


 いっそエルドが、結婚前に考えていたような、無口で愛想なしの変人だったら――サナが好きになりようもないような人物だったら、少なくとも今ほどもどかしく悩んだりはしなかったのに(その場合は別のことで悩んでいたかもしれないが)。サナが抱いていた〈無口で愛想なしの変人〉という想像は、実際の彼と対面することですべて彼の美点になり変わってしまっていた――物静かで落ち着いて誠実で非凡、というふうに。


 どうしたら、彼に好きになってもらえるのだろう。マッシモがニコラに対して持っているような愛情を、どうしたら向けてもらえるのだろう。


 サナがぼんやりしていると、マドレーヌをひとしきり箱に詰め込んだニコラがふいに振り向いた。


 「ねえ――このチョコレートとか、買って帰ってみたらどうかな」

 「えっ? 」

 「旦那さまに……それで、一緒に食べてみるとか」

 「でも、エルドは……」


 サナはまごついた。エルドと一緒にお茶の時間を過ごすことは、今ではサナの習慣になっていた。だが、よく思い出してみるとお茶菓子はいつも彼女の方に寄せられていた気がする――彼は辛党だから、お茶請けといえども甘いものはあまり食べないのだろう。話に夢中になっていないでもっとよく彼を見ていればよかったと、サナは後悔した。


 ニコラは違う違うと手を振り、チョコレートをいくつか指差した。


 「ほら、見て――ここのチョコレート、お酒が入ってるのがあるんだよ。お酒の入ったチョコレートなら、サナの好きなものも旦那さまの好きなものも一緒になってるわけじゃない」

 「おいしいわよ」


 と屋台のおばさんが請け合い、ずらりと並んだチョコレートの一番上の列を指差した。


 「この列のチョコレートはどれも、お酒を入れて作ってるわ――チョコレートの生地にお酒を入れたり、中にリキュールを入れたりね。甘いものが苦手な人にもおすすめよ」


 サナは屋台のおばさんとニコラからあれやこれやと助言を受けながらも、何種類か選んで箱に詰めてもらった。サナが自分でチョコレートを買うときには選ばないようなものばかりだった……だが、これで少しでもエルドの見ている世界に入れてもらえるかもしれないと思えば、小さな箱を抱えた胸が優しく温められるような気がした。



 サナが城に帰るとエルドは出先からすでに戻っていて、談話室の暖炉の前で何か読みながら彼女を待っていた。ニコラは夕食の支度をしに厨房に戻っていき、一緒にサナが買ったチョコレートの箱を持って行った――ふたりで打ち合わせしたのだ。このあと、事情を聞いたジュリオがお茶と一緒にサナのチョコレートを持ってきてくれるはずだった。


 エルドは温かい場所にサナを呼び、彼女に膝掛けを渡した。秋はまもなくこの地を去ろうとしており、陽が落ちると途端に冷え込むようになっていた。


 「おかえり。フォーリの町はどうでしたか? 」

 「素敵な町だったわ――なんだか、時間がゆったり流れているみたいで、落ち着いた雰囲気で。優しい人ばかりだったし……あ、そう。メルティスさんにもお会いできたわ」

 「それはよかった。あの町は、代々フォーリ家のみなし領地とされてきたんです。君に好きになってもらえたなら僕も嬉しい。――僕の方は、まあ……同業者同士の定例会のようなものだったので、特筆すべき日ではありませんでしたね。君と町を歩く方がよほど有益だったと思います」


 エルドはゆったりと脚を組んだ。サナは膝掛けの下で指先を弄んだ――ただ、ふたりでお茶の時間を楽しむためにちょっとしたお土産を買ってきただけだというのに、急に胸が緊張でどきどきしてきたのだ。


 「あ、あのね……お菓子を売っている屋台とか、素敵なものがたくさんあって……少しチョコレートを買ってきたの。あなたと一緒に食べようと思って……あまり、甘くないのを選んでもらったの。エルドは、お酒の方が好きって聞いたから」

 「ほう」


 エルドは穏やかに目を丸くした。折よくジュリオが


 「お待たせいたしました」


 とお茶を持ってきてくれ、銀の皿に並べたチョコレートをふたりの前に置いた。一粒ひと粒に繊細な意匠がほどこされたチョコレートは、暖炉の明かりを受けて宝石のようにきらきら光っていた。


 「これは美しい。ありがとう」


 エルドが嬉しそうに――本当に嬉しそうに目を細め、波のような模様のついた一粒を手に取った……その後、自分でも手前にあった丸い粒を取って口に入れたのをサナは覚えている。それから、穏やかに話していたエルドがサナを見て驚いた顔をし、何か必死に声をかけてきていたことも。


 だが、それからあとの記憶は……彼女には残らなかったのだった。



 ――まさか、こんなことになるとは。


 エルドは胸にすり寄ってきたサナを抱きとめながらも、どうしたものか思案した。


 サナが、チョコレートを買ってきてくれた。しかも、エルドの好みに合わせたものをわざわざ選んで。誰に聞いたのかは知らないが、そもそも昼食どきに彼がケーキを食べないのを見て不思議に思っていたのかもしれない。そこまではいい。サナがエルドのことを考えながらチョコレートをひとつずつ選んできてくれたという事実だけで、彼は十分に幸福だった。


 問題はそのあとだ。確かに菓子類にしては強めの酒が使われているチョコレートのようだったが、だからといってまさか二粒か三粒を口にしたくらいでサナがこんなに酔ってしまうとは思いもよらなかった。


 「……サナ。大丈夫ですか? 」


 話しかけて肩を優しく揺すっても、サナは眠そうに瞬きをしながら彼にしがみついてくるだけだった。気分や体調が悪いというわけではなさそうだったが、それならいいか……などと放置できようはずもない。


 普段より色づいた頬。半開きの唇。温かく潤んだ瞳に、長い睫毛。柔らかい体をこちらに押しつけながらぼんやりしているサナを間近に見つめ続けるのは危険だった。


 「サナ。サナ……起きなさい――」


 まじまじと見てはいけないと分かっているのに、目を逸らすことができない。エルドの声に反応してとろりと彼を見上げてきた瞳は美しく、彼女を遠ざけることも、自分が離れることすら、彼にはできずにいた。


 だめだと、分かっているのに。自覚はできなかったが、もしかしたら彼の方もすでに酔いはじめていたのかもしれない。………


 「失礼いたします」


 突如響いたノックの音とジュリオの控えめな声で、エルドはぎくりと我に返った。何か追加で持ってきてくれたのか、夕食の準備ができたと呼びにきてくれたのかはさだかではなかった――ほとんど助けを求めるような気持ちで、エルドは扉の向こうにいるジュリオにマルタを呼んでくれるよう頼んだ。


 自分はなんというおぞましいことをしようとしたのだろう。サナは自分でも思いがけずに酔ってしまい、誰に何をしているかを正確に分かっていなかったに違いないのに。彼女の方から腕の中にきてくれたのをいいことに――。


 エルドは頭を抱え、深い息をついた。そのうちにマルタが来てくれたので扉を開けてもらい、サナを抱き上げる。


 部屋に送って寝かせるくらいのことなら、彼女も許してくれるだろう……と胸中に言い訳をしながら。

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