第5話 師弟

 普通の夫婦にとっては何でもない、幸福に分類することも忘れられるであろうという日々が穏やかに続いた。毎朝顔を合わせ――エルドは窓の下でサナを待つのを習慣にすることにしたらしい――、連れ立って庭を歩き、バラの葉の朝露に触れたり、海を見下ろしたりしながら言葉を交わす。前に海岸を歩いていた女性と紳士は、その後何度か見かけただけでそのうちに姿を見なくなった。


 「海辺で療養するには寒い季節になってきましたからね。高原の方へ行ったのかもしれない」


 あの人は結核だったのではないかと思ったとサナが告白すると、エルドは笑いも咎めもせずに


 「ああ、僕もそう思いましたよ」


 と言った。思ったというより、〈そうであってほしい〉という望みのような想像だった、と。


 「たとえば……彼女には町に婚約者がいて、彼と結婚するために病気を治しに来ていた、とかね。実に詩想に富んだ物語です。もちろん、病に苦しむ女性など実際にはいないに越したことはありませんが。――しかし、僕らは詩人です。自分が受容したものに琴線を刺激され、美しいと思う物語を見出してしまうのは自然な心の働きなんですよ」


 エルドは静かな声でサナに教えた。サナは笑った――彼の優しい声で聞くには、ずいぶん冷めて聞こえる内容だと思ったのだ。


 エルドは人の悪い顔でにやりとした。


 「優しい話し方をすることと、優しいことを言うこと。これは、まったく別のことです。騙されないように」

 「あら……優しい話し方で冷たいことをおっしゃったからといって、その人が不親切だという証明にはならないわ」

 「君がその信条を撤回せずに済むよう努力しよう」


 口元にほほえみを含んだまま、彼はわざと傲慢にそう言うのだった。


 夫と顔を合わせたことでサナが得た幸福のひとつは、堂々と手紙を書けるようになったことだった。トゥッカヴェルデ夫人と、コラジ家からもマリアンナの名義で新婚生活の様子を窺う手紙がよく届いたが、当たり障りのない返事で対面したことのない夫を庇う必要はもうなかった。


 〈彼は昔から、なんでも黒っぽい服を選んでしまう癖みたいなものがあるそうです。初めてお会いしたときは、死神かと思ったわ! エルドのお友だちのアントーニとも知り合いになって、最近では三人でよく演奏会をしています。わたしは楽器ができないから、ふたりに伴奏してもらって歌を歌うの。エルドはリュートが、アントーニはヴァイオリンがとっても上手で――〉


 トゥッカヴェルデ夫人とマリアンナはこの吉報にすぐ返事を書いてくれた。マリアンナは手紙が城へ届いた二日後に本人がフォーリ家を訪ねてきて、ようやく〈サナ・フォーリ〉という署名に実の伴ってきたサナを祝福した。エルドはサナとともにマリアンナを出迎え、陽気な義母をもてなした。直前までしどろもどろで、ただでさえ少ない口数がさらに減っていたことを知っているのは、サナとジュリオとマルタだけだった。


 あのイライザとアリーチェにも結婚式へ参加してくれたことへの礼状がてら手紙を、かなり前に書いたのだが、どちらからも返事は来なかった。


 「『あなたへの祝福が無駄にならなくて本当によかったわ』ですって。ふふ、メリル伯母さまったら」


 サナが食卓で手紙の文面を読み上げると、差し向かいで聞いていたエルドが気まずげに顔を上げた。生クリーム入りの柔らかな玉子料理はエルドの好物だったが、彼は伯母からの手紙が読み上げられる間さじで切ったりすくったりしているきりで、せっかくの玉子は皿の上で見るも無残にぐちゃぐちゃに崩れていた。


 「伯母さまは、僕がそばで聞いていることを期待してそれを書いたんですね」

 「あら、どうして? 」

 「僕には昔から皮肉っぽい人なんですよ――僕のことを構いたがる、というか。……今君が読み上げた一文も、なかなか耳に痛い」


 午後へうつろう途中の時間帯の秋の風は爽やかだったが、エルドは食卓の上に乗ってきた枯れ葉のような苦笑ぎみの溜め息をついた。甘いものはいかがですか、とそばへやってきたジュリオが笑う。


 「さようでございます。メリルさまは、昔から旦那さまをたいそう可愛がっていらして」

 「いじめられた……とも言いますね。僕は身内の中では一番歳が下でしたし、彼女から見れば引っ込み思案で心配だったのでしょうが」

 「まあ、メリル伯母さまが? 」

 「君は本当の意味で可愛がられていると思いますよ……伯母さまは君のお母さまとも仲がよかったし、きっと君や君のお母さまのような、優しくて聡明な性質の人と気が合うんでしょうね。……女性同士というのはまったくすごいと思いますよ。僕らが体面にこだわっている間に、歳の上も下もなく友だちになれるのだから」

 「あら、その友情が本物かどうかは分からないわよ。メリル伯母さまのような方にはなかなか会えないもの……えーっと、『追伸。九月の詩と、あなたがたの美しい物語の〈第三章〉を楽しみにしています。』……〈第三章〉って、何のことかしら? 」


 エルドはようやく口に含んでいた玉子に咽せた。


 「――さあ……何のことだろう。伯母さまは謎かけも好きなんですよ……ジュリオ、申し訳ない。ふきんを――」


 食後、エルドはお茶を頼んで、頬杖をついた。サナは洋梨のタルトを食べているところだったが、向かいから見つめられては落ち着かなかった。今日のことだけではない。エルドはサナがお菓子を食べていると、大抵こうして彼女を眺めているのだ。そして必ず、


 「おいしいですか? 」


 と尋ねてくる。気になるなら自分も食べればいいのに、彼が甘いものを頼んだことはなかった。


 サナはタルトを切りながら言った。


 「このタルト、上にゼリーがかかってて綺麗ね……宝石がたくさん乗っているみたい。中にクリームも入ってるの。とってもおいしいわ」

 「そう、それはよかった……フォーリの町にお菓子を作るのがとても上手なご婦人がいるんです。この城で出てくるデザートは、その人に頼んでいるんですよ。厨房に食材を届けに来てくれるメルティスさんという人がいるんですが、その人の奥さまです」

 「まあ、そうだったの。それなら、いつかお会いしてお礼を言いたいわ。――ねえ、気になるならあなたもひと切れ召し上がったら? おいしいわよ、本当に」

 「……ああ、申し訳ない。君がいつもあんまり幸せそうな顔で食べているから――つい見てしまうんですよ」


 エルドが朗らかにそう言うので、サナは頬に熱が集まってくるのを感じた。そんなふうに話すエルドの方こそなんだかにこにこして、幸せを噛みしめているように見えたのだ。



 サナが加わったあとのエルドの生活の流れが決まりはじめていた。使用人たちの業務に関わりのある部分では、エルドが三度の食事をサナとともにするようになったというくらいの変化があっただけだった。だがエルドとサナが一緒にいる時間は、朝から気をつけて合計すれば相当長いということは明らかだった。結婚式のあと数週間まともに顔を合わせていなかったのが嘘のように、ふたりは睦まじく見えた。


 ジュリオとマルタは使用人たちをまとめるかたわら主人夫妻の動向を敏感に察知しており、日々少しずつ深まっていくふたりの仲を静かに見守っていた。〈中庭か、書庫〉というのが、この頃の合言葉だった。


 「さっき旦那さまがご自分でお菓子を注文なさったそうです」


 仕事の合間に裏廊下で出会ったら五分程度の情報交換をするのが、男女の使用人の頭をそれぞれに務めるふたりの習慣だった。この日もジュリオを見つけるなり、マルタは早口に言った。もっとも彼女は大きな花瓶に水を入れて腕に抱えていたので、それも無理からぬことだったのだが。


 ジュリオが花瓶の把手を半分負担しながら首を傾げた。


 「近頃多いですね。メルティス夫人ですね? 」

 「ええ――あの〈中庭の日〉から、急に旦那さまがケーキのことを気になさるようになったと。人気のあるものやきれいに飾られたもの、旬のものを優先して回してほしいとおっしゃったと言うんです。だから今日は洋梨のタルトを――明日は、クルミとキャラメルのケーキを持ってきてくれるそうですわ」

 「確かに今日のお昼は、洋梨のタルトを給仕しましたな。奥さまが大変お喜びで」

 「ですから、それですよ」


 周りには他に誰もいないのに、マルタは密談を持ちかけてでもいるように声を潜めた。他人に行動を合わせることに慣れたジュリオが、つられて彼女に耳を寄せる。


 「旦那さまったら、奥さまに喜んでいただきたくて――」

 「奥さまのお好きなお菓子をひそかに手配なさっている……と」

 「そうとしか思えませんわ! あの方は、ご自分はずいぶん辛党ですもの――ライラ……メルティス夫人も、何事かと思ったそうですわ。今まではわたしたちの注文に任せきりだったのに、突然食後のデザートを頼まれるなんて思っていなかったって」

 「なるほど。……これは、有望な傾向ですね」


 ジュリオは昼間の和やかな食卓の様子を思い出したらしい。サナが幸福そうにデザートを楽しんでいるのをエルドが見守っている様子は、ふたりから見ても印象的だった。サナは夫に見つめられる理由がいまいち分かっていなかったようだが――エルドは妻の表情に見惚れていたのだ。


 だが先々に希望がある分、マルタはもどかしかった。


 「順調であることは結構です。しかし、わたしとしてはもう少し……いっそ〈君のために特別に頼んだんだ〉くらいのことはおっしゃっていただきたかったわ。もうご結婚なさっているんですから、奥さまも失礼だとはお思いにならないでしょう」

 「まあそう焦らずに。最初のあの関係とは、比べるべくもない進展ではありませんか」

 「確かにそのとおりですけど……これでは、お世継ぎなどいつになることやら。いまだにお部屋が別々なんですもの。心配にもなりますよ」


 マルタは溜め息をついたが、すぐに気を取り直した。


 「まあでも、ジュリオさん、まさか旦那さまがあんなに明るくなられるなんて思ってもみませんでしたね」

 「おっしゃるとおり。去年のわたしに説明しても、恐らく信じないでしょうな――どなたのお力かは明らかですが」

 「ええ。恋の力というのは偉大ですわね! 」

 「愛ではなく? 」

 「その答えは予想しておりませんでしたわ」


 マルタは頬を染めて声を上げた。彼女はいまやフォーリ家になくてはならない存在としてジュリオや他の使用人たちから頼りにされているが、そんな彼女もかつては少女だったのだ。


 マルタはほほえみながら言った。


 「恋でも愛でも、偉大なことには変わりありませんわね。でも、わたくしとしてはあのおふたりの間にはぜひ愛の方に育っていただきたいわ。はじまりが恋だとしてもです」

 「ほう。その明確な違いがあると」

 「恋には幻滅があるわ。でも、愛は破綻しないのではなくって? 」

 「期待できますかな」

 「できますとも――最初の一週間で奥さまが愛想を尽かさなかったのが、わたくし不思議でしたもの」


 マルタはここでジュリオと別れて裏廊下から出た。花瓶をある階段の踊り場に置き、女中たちに摘ませておいた花を活ける。エルドがそうしてほしいと頼んできたのだ――いまや、大広間やサナの部屋をはじめ、城中のいたるところに花が置かれている。何年ぶりだろう? 活ける花の色合いに、もっとも美しい葉の向きに、これほど気を遣ったのは。


 このところの主人の変化を通じて、マルタは……恐らくジュリオも、主人夫妻の間に光り輝く小さな水晶が少しずつ結晶していくのを目の当たりにしているような気がしていた。他人が手を触れたら弾けてしまうような、まだ脆い結晶だ。だから、どんなにもどかしくてもじかに口を出すなどもってのほかなのだ。


 しかし、たやすく育っていかない代わりに、幻のように消えてしまうこともない。時間をかければかけるほど、盤石で大きな結晶ができあがるに違いない。その過程で多少の傷がついて一部が砕けても、星くずのように美しいのだ。


 エルドが自分の愛情ごと相手を大切に守ろうとする性格の持ち主であることを、マルタは知っていた。ただ彼は、手の中で大切に守っているその結晶のかけらが〈星くずのように美しい〉ことを分かってはいるが、同時に少しの破損すらひどく恐れているのだ。



 雨の日は好きですか、とエルドが尋ねてきた。この日は朝から粒の細かな霧雨が振りどおしで、書庫には早いうちから明かりが入れられていた。


 サナは占星術の本から顔を上げた。エルドは外国語の本を開いてはいたが雨音の方に集中しているようで、その目は紙面を滑ることなく止まっていた。


 「今日みたいな? 」

 「そう。前にアントンに聞いたら、大嫌いだと言われてしまったんですよ。じめじめしているし、絵の具は乾かないし、出歩くのにも面倒だしでいいことがないとね」

 「彼らしいわね」


 ふふふ、という笑い声も、今日はどこかこもったようになってあまり響かないようだ。エルドは彼女の控えめな声に残念そうな顔をしてサナの方を向いた。


 「もっと大きな声で笑っても構わないんですよ? ここは公共の図書館ではなく、君が暮らしている城なんですから」

 「あら、遠慮してるわけじゃないのよ。ただ、静かなところでは静かにしていたいの。あなたの邪魔になりたくないし――あなた、わたしが笑うと顔を上げてしまうでしょう? 」


 エルドは意外そうに瞬きした。


 「そう? 」

 「そうよ。今だってそうじゃない」


 サナが指摘すると、エルドはいつの間にか彼女を見て話していたことにようやく気づいたらしい。ああ本当だ、と言うそのまなざしが、サナを見たままとろりと細まった。言葉少なに笑う奥から、その目は〈君がかわいい〉と言っていた。


 彼の唇は、正直だとは限らない。だが彼の目はとても素直なのだと、サナはいつの間にか分かるようになった。


 「ふふ。わたし、雨の日は好きよ」


 とサナは答えた。


 「特別理由を考えてみたことはないけど……落ち着くからかしら」

 「では、今日はその理由を考えてみましょう。なぜ好きなのか、他の天気との違いはなんなのか……ものを判断する基準は人それぞれだ。自分がどういう琴線を心に持っているか知ることは、詩人にとってはとても価値のあることなんですよ」


 サナは〈雨〉から連想を広げていった――エルドの詩人講義は、大抵こんなふうなのだ。他愛もなく、何となく広げた枝葉が、思いもかけない詩情と結びつくことがある。エルドはサナにそれを教えたいらしい。


 雨――土を潤し、恵みをもたらすもの。たった数日晴れが続いただけでも、森は乾きはじめる。干上がり、ひび割れた土にカビのようになった苔が辛うじて張りついている。黄色っぽく萎えた葉の隙から射し込む陽は、小さな子どものようだ。健やかで、無邪気で、まるで加減を知らない。


 そこへ雨が降る。すべてが水を含み、大気がしっとりと冷える――サナの幻想の中で、蛙が鳴き出した。葉先に透明なしずくがはじけ――。


 「息がしやすいみたい」


 サナはうっとりと呟いた。今なら、雨の森を誰よりも楽しく活写できるような気がする。エルドがひそやかに笑った。


 「何が見えたかな? 」

 「森が見えたわ――日照り続きで乾いていた森が、雨で潤っていくの」

 「なるほど、雨の持つ〈恵み〉の側面ですね。――僕は、自分の部屋の窓辺が見えました。外には、灰色の空が広がっている。静かに雨が降っていて、中庭の赤いバラが、一か所だけ色づいて見える」

 「憂鬱そうね」

 「ふふ、そうですね……憂鬱を誘発する陰気な雨。しかしそんな雨の日は内にこもりがちになるので、創作や内省をしたいときにはいい――温かいお茶があればさらに」


 あとは畑も見えました、とエルドは窓の外を指さしながら言った。


 「これは君と同じ〈恵みの雨〉ですね。この辺りは田舎だから、町を少し外れると農家ばかりの地区もあるんです。麦、リンゴ、ブドウ、バラ、蕎麦……育てているものは家によりますが、日照りのあとに雨が喜ばれるのは同じです」


 見てごらん、とエルドは膝に開いたままだった本をサナの方へ向けた。エルドはきっと見やすい向きにしてくれたのだろう――ところが、どんなに首をひねってもサナには何が書いてあるのか分からなかった。どうやら文字の解説のようだが、サナには文字というより模様のように見えた。逆さに見せられても気づかなかったに違いない。


 「なんだか、絵みたいな字ね」

 「鋭い。これは、象形文字の一種です。僕は初めて見たときからすっかりこの文字にかぶれてしまいましてね。複数の国でそれぞれに発展を遂げて使われているようですが、特にこの本で解説されている言語は興味深い」

 「ここには何が書いてあるの? 」

 「このページには、雨にまつわる字と言葉がまとめてあるんです。もともと農耕民族として歴史を重ねてきた人々ですからね。気象にとても繊細な感性を持っているようです――たとえば、これ。これは〈銀〉、これは〈矢〉という意味の字です。読み方は……〈ギンセン〉だな。雨を銀の矢に喩えた表現ですね。雨脚のきらめきがよく表されている」

 「これとこれは、別の種類の字なの? 」

 「そう。これは表音文字の一種です。こっちは、文字そのものが意味を持っている表意文字。この国の文章は、どうも五十個の表音文字を二組と、何百もある表意文字を組み合わせて作るらしい。だから、そう……極めるのはなかなかの難易度でしょうね」


 文章を綴るだけなのに、なぜそんなにたくさんの文字が必要なのだ? サナは話を聞くだけで途方に暮れた。エルドは大切そうに本を撫でた。薄く開いたその目の奥で、きっと旅をしているのだ。海を越えて? 陸をまたいで? もう向こうの国についたかしら? どんな挨拶をするのかしら? 暑いのかしら、寒いのかしら? 


 きっとすごく遠い場所なんだわ。見当もつかないくらい……。


 「これは〈空〉。これは〈泣く〉。読み方は――〈テンキュウ〉。空が晴れているのに雨が降ることを言うそうです。心理描写にも使えそうですね。僕は……」


 とエルドは遠いままのまなざしでサナを見つめた。


 「こんなに他の国の言葉で詩を作ってみたいと思ったことはありません。この国に生まれて詩人になった人は幸運です――こんな言語が日常的に使われている国に、詩人がいないはずはない」

 「その国へ行ってみたいと思う? 」

 「そうですね……」


 エルドは頷きかけたが、ふと


 「なにを拗ねてるんです」


 とサナの目を覗いた。もう近くに焦点が合っていた。サナは唇を尖らせた。


 「あなたがどこにいるか分からなかったからよ」

 「僕が? ……ああ、そういうことか」


 エルドは少しためらうそぶりを見せてから、本にするよりずっと慎重にサナの髪を撫でた。


 「僕の想像の行き先に追ってきてくれようとしたんですね。きちんと説明すればよかった。そうしたら、君も同じところを旅できますからね」

 「そうよ、ひどいわ。わたし、砂漠までしか知らないのよ」

 「雨を降らせて森にすればいい」


 エルドは楽しげに笑いながら話を続けた。


 「僕が聞いたのは絨毯の商人がしていた噂なので、正直さほど正確にどんな国なのか知っているわけではないのです。彼も多分、人づてに聞いたんでしょうしね。だけど、印象的な話がひとつあります――君は、桜の花を見たことはありますか? 」


 サナが首を傾げたので、エルドはある本棚から古い植物図鑑を引っ張り出してきた。開くだけでぱりぱりと紙が鳴る。気をつけないと崩れそうだ。


 一枚一枚のページをそっとめくりながらエルドが囁いた。


 「ごらん、この書き込み――イカ墨のインクです。三百年前くらいのご先祖さまが書いたものですね。〈恋を語る詩には古い〉……この人は、決まりきった表現が好きではなかったのでしょう。バラのページにこんなことを書き入れるとは」

 「あなたはバラの花がお好きみたいね」


 〈あの幾重にも白い花びらでできていそうな、君の頬の優しさ〉。エルドはぎょっとした顔をした。


 「それは、僕の詩……ですね」

 「四月の詩、〈乙女のための賛歌〉だったかしら」


 素敵な題ね、とサナが言うと、エルドは急に唇をぐっと引き結んだ。彼なりの照れ隠しだ。サナはそうして、夫はもともとかなり寡黙なたちであったことを思い出す。


 「ずいぶん前に書いたものですね……」

 「全部覚えていらっしゃる? 」

 「若い頃に書いた作品というのは、忘れたくても忘れられないものですよ。――そう、ちょうど今の君くらいの歳だったかな」


 エルドは柔らかだが微妙な屈折のあるほほえみを浮かべた。彼にとって笑顔は愛情表現であり、盾であり、仮面であり、そして十回に一回くらいは、溜め息の一種なのだった。


 「まだ、未熟だった頃に向き合うのには勇気が必要ですね。――ああ、ほら、これ。これが桜の花です」


 エルドの指先が挿し絵を指差す。黒ずんだインクの点描で描かれた桜の花を、サナはやはり見たことがなかった。エルドは解説した。


 「先ほどの国では、この桜の花が木の枝いっぱいに咲くんだそうです」

 「どんな色をしているの? 」

 「薄紅色、かな。ごく薄い色ですよ。白に近いようなね」


 エルドの指が、儚いひとひらの形をなぞって宙を動いた。


 「昔、小さな苗木の状態の木を見たことがあります。もう花が終わりかけていて、真新しい、綺麗な嫰葉が出ていてね。雪のように小さな花が一輪だけ、まだそこに残っていたんですよ」


 だから、そこだけが光を固めたように輝いて見えましたよ。エルドが言いながらサナの方を向いたとき、サナはなんだか彼の目をまっすぐに見られず、図鑑の桜にさりげなく注目した。美しい記憶をたぐる彼の目を、見ていて切なくなるくらいにサナは好きだった。


 「春になると、桜の木がどこでも道いっぱいに花をつけるとか――きっと夢の中を歩いているようでしょうね」

 「町ひとつ、光を集めたみたいに見えるかしら? 」

 「きっと」


 エルドがそう頷く声で、サナは今、彼と自分とが同じものを頭の中に描けたかもしれないと思った。書庫の空気には、雨の立てる小さな音がかすかに混ざっている。沈黙が下りた少しの間に、ふたりの耳はその静かな音を拾っていた。


 「雨が降ったら散ってしまうの? 」


 サナが言うと、エルドは半開きにしていた目をちょっと見開いて彼女を見つめた。


 「僕もちょうどそのことを心配していました。いや、確か……現地に、そんな心境を表現した詩があるんです。桜さえなければ、もっとのどかに春を過ごせるのに……というような」

 「余計な心配をしなくて済むから? 」

 「そう。つまり作者は、これ以上ないくらい桜を称賛しているんです……」


 エルドは続きを言いさしかけたが、明るみを少し欠いただけで、黙ってしまいはしなかった。


 「こんなに苦しいなら出会わなければよかった……というのと同じですね」

 「ずいぶん遠回しね」

 「明確に言い切ると、時に野暮な表現になってしまうこともあるのです」

 「そうね……でも、わたしは好きなら好きって言っていただいた方が――」


 サナは何気なくそう言っただけだったが、エルドは彼女をじっと見つめた。琥珀色の瞳が、何か言いたげに視線を合わせてくる。もしかしたら何か重要なひと言がその唇から投げかけられるのではないかと、サナは知らず息を潜めながら彼を見守った――。


 エルドはサナを見つめたまま何か言おうとしたが、じきにその唇を閉じた。それからややあって、ようやく言った。


 「……今、幸せですか? 」

 「――ええ」


 彼の問いかけはあまりに純粋なように思えてサナは言いよどんだが、心からの答えだと彼に分かるように口元を綻ばせた。


 「幸せよ、とても」

 「そう……」


 どちらが求めたというのでもなく、お互いになんとなく手が触れあっていた。エルドは桜の形を描いたのと似たような手つきでサナの手を丸く撫でた。


 「君が幸せだと安心します。とても、ね」


 静かな声で、彼はほほえんだ。



 日記を開くのは久しぶりだった。最新の、三週間前の日記には、中庭で初めて彼と出会ったときのことが書いてある。〈本当に嬉しかった〉。……


 幸せかと尋ねられて、幸せだと答えたことに嘘はない。同時に心に秘めていることを言わなかっただけだ。


 サナは夫のことを、今やあの結婚前夜の心境からは考えられないくらいに好きになっていた。彼の優しさを慕い、詩想を展開させているときの気高い横顔を美しいと思っていた。この気持ちがなんなのかと問われれば、間違いなく〈恋〉の類だった。


 日記になんと書き出そうかをサナは迷った。書きたいことは分かっている。だが、エルドの愛情を疑うような問いかけに、明らかな形を与えたくはなかった。


 エルドの優しさは、まるで花の番をしているかのようにサナには思えた。守り番が種に水を注ぎ、花が滞りなく咲くように大切に守っているようなものだ――彼は、サナを詩人として育てようとしているのだから。


 そう、〈詩人として〉だ。恋人や妻として愛そうとしているのではなく――名高い詩人であるエルドに詩才を見込まれたことは、誉れではある。だが、サナの恋心はまったく満たされようがなかった。


 わたしがもっと彼に釣り合うような女性なら、とだけ書いて、サナは日記を閉じた。もっとはっきり書けばすっきりしたかもしれないが、なんと書けばいいか分からなかった。


 ……いや、違う。どうしてもはしたないような気がして、恥ずかしくて書けなかったのだ。


 サナはろうそくを吹き消した。昼間の雨が上がって、秋の月が窓ガラス越しに冷たく冴えている。頭からかぶってもまったく足が出ないたっぷりとした毛布は上質なものだったが、毛布も、それに寝台も、サナひとりには大きすぎた。彼の部屋は、違うのだろうか? 


 顔を見て言葉を交わせるだけで幸せだったのに。サナは貪欲な自分の恋心を呪った。今日髪に触れられ、瞳を覗き込まれたとき、サナは期待してしまったのだ。エルドがキスをしてくれるのではないか、と。

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