最終話 汝と約束は守れ

 視界に映るのは、やけに素朴な風景だった。とてもじゃないけれど、ここが天国だとは思えない。でも、地獄だとも思えなかった。

 死後の世界は、こんなにも色褪せたものなのだろうかと思った。なんだか少しだけ残念だ。あれほど死後の世界に憧憬を抱いていたのに、こんなものだったのかと思うと、自分の行為が水泡に帰す。

 ただ、それからしばらくしたあと、僕はここが病院であることに気づく。

 そうか。僕は……。

 僕は大きな溜息を零しながら、窓の外を見ようと思い、体ごと横に向いた。

「……榊原?」

 振り向くと、そこには椅子の上で眠る榊原の姿があった。手元には、僕が書いた小説の入った封筒があった。

「……起きたのか?」

 僕の言葉を聞いて榊原は目を覚まし、驚いたような顔をしながら立ち上がって言った。

「心配したんだぞ」

 榊原は僕の方を強く握りしめる。

「僕は死ねなかったのか……」

 僕は俯きながら言う。

「俺を置いて死のうとするなよ……。君がいなくなったら、俺は孤独なんだぞ! 唯一の友達なんだよ! 君がいなくなったら、俺はどうやって生きればいいのか分からないんだ。だから、頼むから死なないでくれよ」

 榊原は涙を零しながら、力強い声で言った。榊原のこんな顔を見るのは初めてだった。

「なにかで悩んでいるなら、俺に相談してくれよ。俺を頼ってくれよ」

 榊原の涙が僕の掌に零れ落ちる。その涙を眺めていると、僕も琴線が揺られて泣き出してしまいそうだった。ただ、泣き出してしまわないように唇を噛んで堪える。

「……すまなかった。もう死のうとしないよ」

「本当かい?」

「ああ。約束する。だって、たった今、僕は自分が幸せだったことに気づいたんだ」

 僕はなんでこんな恥ずかしいことを言っているのだろうか。自分の言動が馬鹿馬鹿しく思えて笑いが堪えられなく、思わず頬が緩んでしまった。

「そうか。もう心配かけるなよ」

「本当に悪かった。マスターにもちゃんと謝るよ。あと、ありがとう。僕をこんなにも思ってくれて」

「馬鹿言え。当たり前だ」

 恥ずかしそうに、目を逸らし、瞳に滲む涙を袖で強引に拭き取りながら榊原は言った。

「そうだ。君の母親も、もうすぐ君の様子を見にくる頃なんだ。君が眠りについている間ずっと傍にいてくれていたから、ちゃんと感謝するんだぞ」

「あの母がずっと傍にいてくれたのかい?」

「ああ。そうだ。俺と交代でね」

 正直、榊原の言葉は冗談であって欲しかった。

 大学生になって逃げるように家を出たあの日から、僕は母と一度も会っていない。理由は簡単で、母の顔を見るのが怖いだけだ。

 母は僕の顔を見ると、あの夏のことを思い出して寂寞な顔をするし、僕もまた、母の顔を見ると罪悪感に蝕まれる。閉じ込めた記憶の蓋が開いてしまうのだ。

 僕はこの場所から逃げ出してしまいたかったが、不思議と体は動かなかった。怪我をして動けないからではない。榊原の話を聞いて、感謝をしなければいけないと思ったからだ。

 榊原は予定があると言って病室から消え、僕は消毒液とナフタリンの匂いが染み付いた病室で、ひたすら母が来るのを待っていた。

 母が来るまでの間、榊原が置いていった漱石の本を読んでいた。夢十夜だった。

 本を捲る度、僕の鼓動は早くなっていった。

 僕の姿を見て、母はなんて言うのだろうか。なんて顔をするのだろうか。

 やっぱり、あの頃のように険しい顔で叱るのだろうか。それとも、安堵した顔を見せてくれるのだろうか。どちらにせよ、僕は母に会うのが少しだけ楽しみに思えた。多分、叱って欲しかったのだ。僕の選択は間違えだったのだと、そう教えて欲しかったのだ。

 僕は胸を抑えながら、窓の外から聞こえる蝉時雨に耳を澄まし、ひたすら漱石の本を読んでいた。



 二、三回ドアが優しくノックされ、ゆっくりとドアが開かれる。

 入ってきたのはもちろん母だった。最後に見た時よりも皺も増え、頭には数本の白髪が入り混じっていたが、紛れもない母だ。

「久しぶりね。こんなことを聞く状況でもないけど、元気にしてたかしら?」

 先ほどまで榊原が座っていた椅子に座り、母は僕の顔を真っ直ぐに見つめて言った。

 こんな優しい声をしていたっけ。いや、あの頃よりも随分と穏やかな口調になった気がする。

「ああ。肉体的には最悪だけどな」

 言うと、母は頬を緩めて嬉しそうに笑った。

「あなたに色々聞きたいことがるけれど、まずは謝らせてちょうだい。ずっと、あなたを責め続けてごめんなさい」

 僕はなにも言えず、頭を下げる母を見つめることしか出来なかった。

 叱られることを覚悟していたのに、謝れるなんて、流石に思いもしなかった。

「しょうがないさ。僕が悪いんだから」

 言うと、母は顔を上げた。

「ううん。違うの。あなたはなにも悪くなかった」

「どういうことだ?」

 なにも悪くない? 慰めの言葉だとしたら、それは僕のことを煽っているようなものだぞ。


「あの子の遺書が見つかったのよ」


 淡々と告げる母の言葉が、僕の頭では到底整理出来るものではなかった。

「もう少し早くあなたに伝えればよかったのに、こんなことになるまで黙っていてごめんなさい」

 母はもう一度頭を下げたあと、顔を上げて、ポケットから二つ折りにされた一枚の紙切れを取り出した。

「ちょうど一ヶ月前くらいに、あの子の部屋を掃除していたのよ。そしたら引き出しの鍵が見つかって、気になって開けてみたの。そしたら、私が見つけるのを待っていたかのように、これがその引き出しの中で眠っていたのよ」

 言いながら、母は僕にその紙切れを差し出す。

「あの子の死は自殺だったのよ。だから、あなたはなにも悪くないの」

 僕はなにも悪くない……。僕はなにも……。

 ずっと願っていたことだが、いざその状況に陥ると、僕の頭は理解に追いつけなかった。

「僕は本当になにも悪くないのか?」

 訝るように聞くその声が、夏の暑さに溶けてしまいそうだった。いや、半分以上は溶けていた。

「ええ。悪いのはあなたを責め続けた私だけよ。本当にあなたはなにも悪くないの」

 その言葉を聞いて、僕はいつの間にか涙を流していた。流さないように堪えていたはずなのに、瞼の裏に溜まった涙が溢れてしまった。

「そうか。僕はなにも悪くないのか……」 

 情けない声で言う僕の涙の雫が、掌で握る紙切れに数的零れ落ちた。

「私は飲みものでも買ってくるから、落ち着いたら読んであげて。それと、いい友人を持ったわね。榊原君に私の知らないあなたの話を聞いたの。誰かのことをあんなにも大切に思える人間はそうそういないわ。大切にしなさいね」

 言い終わるのと同時に母は立ち上がり、返答も聞かずに病室を出た。

 僕は母の姿が見えなくなるまで母を見つめていて、見えなくなってしばらくしたあと、涙で少し濡れた紙を静かに開いた。 



     *



 俺は涙を流すために生まれたわけじゃない。死ぬ理由なんてそれだけだ。

 こんな風に格好つけた書き出しだが、俺は酷く情けない男だ。

 自分の才能に溺れて、歩きたくもない道を選んで、きっとやりたくもない職に就いて。

 俺はきっと、このまま生き続けても、死ぬときに笑顔でいられる自信がない。

 だって、どこで道を間違えたのか自分でもよく分からないんだ。

 少し頭がよかったからいい高校に入れて、周りに負けたくなかったからいい大学を目指して、そんな風に過ごしていたら、いつの間にか自分を見失っていた。

 これからどこにいけばいいのか分からないんだ。どんな顔をして生きたらいいのかも、どんな生き方をすればいいのかも。

 人間には終わりがあるからちょうどいい。

 俺は静岡のあの海で、誰もいない沖で、燃えるように暑い太陽の下で、波の音に耳を澄ましながら死のうと思うよ。だって、波の音が俺を読んでいるんだ。ほら、君にも聞こえるかい?

 正直死ぬのは怖いさ。ただ、このまま生き続ける方がよっぽど怖い。

 それに、どうせ死ぬなら海で死にたいし、海に行くならそのまま死にたい。

 あまり長ったらしく語っても無意味だから、これで終わりにするよ。

 最後に一言だけ書くとするのなら。

 ここまで読んでくれてありがとう。それだけだ。



     *



 榊原は自動販売機で缶コーヒーを二つ買い、それを一つ僕に差し出す。

「もう大丈夫なのか? これ退院祝いね」

 受け取りながら、僕は頷く。

「そうだ。これ、君に渡しておくよ」

 榊原は一つの封筒を僕に差し出した。見覚えのある花柄の封筒だった。眞白の遺書と僕の小説が入った封筒だ。

「一応ちゃんと読んだけど、俺が持ち続ける理由はない。あと、君の小説も読んだよ」

「どうだった?」

「苦しかったさ。酷く苦しかった」

「そうか」

「ごめんな。俺はなにも気づけなかった」

「君はなにも悪くないさ。逆に僕はなにも言えなくてすまなかった。僕は多分、自分と他人を信じる能力が欠け過ぎていたんだと思う」

「もっと君を知りたい」

「僕もだ。もっと君と話がしたい」

 榊原は満足気に笑って、飲み干した缶コーヒーをゴミ箱に投げ捨てる。

 その姿を見ながら、僕は一つの約束を思い出す。

「悪い。用事を思い出した」

「どんな用事なんだい?」

「人と会うのさ」

「もしかして女かい?」

「ああ。よく分かったな」

「なんだか表情が明るかったからね。そうか。頑張れよ。酒場には来るのかい?」

 なにを頑張る必要があるのかと思った。

「もちろんさ」

 言い終わると、僕は背を向けて歩き出した。特に大事な予定ではないが、彼女にとっては、きっとなによりも大事な約束だろう。

 それに、昔榊原がこんなことを言っていた。


『汝と約束は守れ』


 女とした約束を破るわけにはいかない。彼女に会いに行く理由なんてそれだけだ。きっとね。

 僕は少しだけ早歩きで古書店に向かいながら、蝉時雨が聞こえない静まり返った秋の街を、ぼんやりと眺めていた。

 夏のことは嫌いだが、夏の終わりはもっと嫌いだし、初秋はもっと嫌いだ。やっぱり、僕は嫌いなものを眺めるのが好きだ。


 古書店に入ると、一番奥の日の当たらない本棚の前に彼女がいた。芥川の本が並んでる本棚の前だ。

「久しぶり。今日も芥川を読んでいるのか?」

 芥川の本を両手で包み込むように持ちながら、真剣に本を読んでいる彼女に話しかける。

「あ、お久しぶりです。今、鼻を読んでいるところでした」

「君は本当に芥川が好きなんだな」

「大好きです」

 少し照れながら彼女は言う。

「そうか。好きなものを迷いなく好きだと言えるのは素直に羨ましいよ」

「そうですか? そんなことより、また会えて嬉しいです」

「僕もさ」

「正直、もう二度と会えないんじゃないかって思っていました」

「約束があったおかげさ」

「優しいんですね」

「そんなことないさ」

 彼女と話していると、不思議と頬が緩む。僕にはその理由が分からないから、今夜榊原に聞こうと思った。きっと、榊原なら答えを教えてくれる。なんの根拠もないが、僕は確信していた。


 言いそびれていたが、眞白は僕より少しだけ退院が遅れ、二週間ほど長く入院していた。僕は打撲と捻挫だけだったが、眞白は足を骨折していたからだ。

 退院後、眞白はしばらく僕に家にいたが、自らの意思で自首をし、それから八年ほど帰ってくることはなかった。だが、塀の外に出てすぐに、僕のところに戻ってきた。

 八年という時間の中で、榊原は見事小説家になり、僕もまた、大学を卒業して仕事を始めた。

 前のように毎晩飲める時間はないが、休日には、例の酒場で益体のない会話を今でも続けている。もちろん、マスターと眞白も一緒にね。

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汝と約束は守れ 春木ゆたか @harukiyutaka

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