第19話 違和感

 詩季さんの瞳に違和感がありました。

 何日も傍にいたのですから、その正体を私は分かります。

 詩季さんは、この世界に忘れものをしています。私と違って、心残りがあるのです。

 詩季さんは優しい人だから、きっと、私にはなにも言いません。聞いても嘘をついてはぐらかすでしょう。でも、気づいてしまった以上、私はそのことで悩んでしまいます。

 一夜考え、私は一つの答えに辿り着きました。

『詩季さんを死なせるわけにはいかない』

 その答えが出てから、私はまた悩み続けました。

 どうすれば詩季さんだけが助かるのでしょう。

 死ぬことをやめにすればいい話ですが、詩季さんはきっとそれを拒むはずです。それに、今更そんなことなんて言えません。

 そんな時、私はとある風景を思い出しました。

 それは、母校の屋上から見下ろしていた大きな桜の木です。

 あそこなら、もしかしたら木がクッションになって詩季さんが助かるかもしれない。

 一寸のズレもなく完璧に落ちる保証なんてありません。少しでもズレたらアウトです。

 だから、私は神に祈ることにしました。

 これ以上のない祈りを込めて。

『詩季さんを幸せにしてください』

 私は、神にそうお願いをしたのです。

 本当は詩季さんと一緒に死にたかったけれど、やっぱり、詩季さんには生きてる中で幸せになって欲しかった。

 本当は一緒に幸せになりたかったけれど、詩季さんを幸せに出来るのは、残念ながら私ではありませんでした。



     *



 小説を書いていると言うと誰しもが、それより勉強の調子はどうなんだと聞いてきた。

 凄いじゃないかと肯定してくれたのは彼が初めてだった。



 酒場に来れない時、いつもはなにかしら連絡があるのだが、今夜はなに一つ連絡がなかった。

 別にそんな日もあるだろうと思っていたが、最近の言動を振り返ると、不安で堪らなかった。

 何度電話をかけても一向に繋がることはなかったし、家に押しかけてももぬけの殻だった。

 不安と恐怖に押し潰され、喧騒の街を走り回った。酒場の近くにあるコンビニから、お気に入りだと言っていた古書店まで。考えつく場所全てを探し回った。だが、どこにも姿はなかった。

 今までの日々が夢だったかのように、この世のどこにもいない気がした。



 彼はいつも遠くを見ていた。半径二メートル以内にいる彼には、いつも触れられない靄があった。

 知りたかった。興味本位とかではない。ただ、一人の友達として知りたかった。

 過去になにがあろうと関わり方を変える気はないが、どうしてそんな顔をするのか、どんな過去を過ごして今の彼になったのか、どうして名前を偽るのか知りたかった。



「僕のことは詩季と呼んでくれ」

 彼と初めて話したあの夏の日、喫茶店に行くまでの道を歩きながら彼は言った。

 入学当初から彼の存在を意識していたし、名前ももちろん知っていた俺は、彼が偽名を言っていることは気づいていた。

「詩季?」

「ああ。詩人の詩に季節の季で詩季さ」

 とても嘘をついている顔には思えなかったが、嘘だと知っている俺からすれば恐怖だった。

 僕の前だけで嘘をついているのかと思ったが、どんな人間だろうと彼は偽っていた。

 本当この名前が正しいのだろうかと錯覚するほど、彼は自分を詩季だと主張し続けた。

 マスターやバイトの同僚もみんな彼のことを詩季と呼ぶが、俺は一度たりもその名前を口にすることはなかった。

 俺が知りたいのは詩季ではないし、友達になりたいのも詩季ではなかったからだ。

 だから俺は呼ばなかった。彼のことを詩季と呼んでしまったら、彼がどこか遠くに消えてしまいそうだったからだ。

 いつか彼が自分の名前を告白する時まで、俺は呼ばないと決めた。


 さっき最近の言動を振り返るとって言ったが、今思えば、ずっと前から彼は違和感を覚える言動をとっていた。

 最初は名前、その次は夜道を車で走っていた時だ。

 海沿いを走っている時、彼の顔は明らかの不機嫌だった。不機嫌というより、苦しそうと言った方が正しいかもしれない。

 そんな顔をしながら彼は車の窓を閉め、ずっと呼吸を整えていた。

 こんな顔を見るのは初めてだった。俺は心配で堪らなく、彼の顔を横目で何度も見ながら、ゆっくりと車を走らせていた。だが、潮の匂いが消えたところまで行くと、彼の顔色はよくなっていた。

 さっきまで見ていた光景が嘘だったかのように、彼は何事もなかったような顔をしていた。

 もう一つ不可思議な言動を挙げるとするのなら、それは今年の夏が顔を出したばかりのことだった。

 あの日、俺たちは公園のベンチに座り、常夜灯で手元を照らしながら、真夜中に二人で本を読んでいた。

「なんの本を読んでいるんだい?」

 俺はページを一枚捲りながら聞く。

「言っても分からないと思うよ」

 彼は少し癖のある髪を掻きながら言った。

 俺は気になって彼が読んでいる本を覗き込む。著者は聞いたことある名前だったが、彼が読んでいる本は見たことも聞いたこともない本だった。

「君はなんの本を読んでいるんだ?」

 覗き込む俺に構うことなく彼は言う。

「漱石の夢十夜さ」

「へえ。またその本を読んでいるのか」

「ああ。最近夢という言葉にどうも敏感でね」

 言いながら、俺は本に栞を挟んで閉じる。

「明晰夢って知っているかい?」

「さあ。初めて聞く言葉だよ」

「自分が夢を見ていると認識出来て、夢の内容をコントロール出来る夢さ。楽器を演奏したり、空を飛んだりね」

 言うと、彼は読んでいた本を閉じ、視線を俺の方に向ける。

「そんなことが出来るのかい?」

「ああ。世の中にはそういうことが出来る人間がいるらしい」

 普段は興味なさそうに俺の話を聞くが、この時は一向に目を逸らさずに聞いていた。

「どうしたら出来るようになるんだ?」

「夢日記というものを書くといいらしい。毎朝目を覚ましてすぐにね。そうすると、夢を見ている時の精神状態に繋がって、今夢を見ていると自覚しやすくなるそうだよ」

 言い終わるのと同時に、俺は煙草に火をつける。

「もしそれが出来るようになったら、悪夢を見ることもなくなるのかい?」

 悪夢でも見ているのかと聞こうとしたが、俺は聞かなかった。

「ああ。でも、夢日記を書くのはデメリットもある。睡眠障害を起こしたり、現実と夢の区別がつかなくなるらしい」

「区別がつかなくなったら悪いことでもあるのかい?」

 彼は少し口角を上げながら聞く。

「夢の中は無法地帯で無敵な状態だからね。空を飛ぼうが、犯罪を犯そうが関係ない。だが、夢の中だと錯覚して、現実世界でそんなことをしてしまったら?」

「肉体的にも社会的にもアウトだな」

「そういうことさ。だから、夢日記を書くことはおすすめしないよ」

 言うと、彼は少し残念そうな顔をしていた。

「君はその話を知って試したりはしなかったのかい?」

「しないさ。夢の中より現実の方がずっと面白いからね」

「へえ。意外だな。こういうことは、事後のことを考えもせずに試す性格だと思っていたよ」

 そんな性格だと思われているのか。そう思ったが、否定出来る気もしなかった。

「君はどう思う? 今の話を聞いて試したくなったかい?」

 言うと、彼は黙ったまま初夏の夜空を見上げた。

「夏の終わりにでも試してみようかね」

 少し考えたあと、夜空に向かってそう呟いた。

 彼は毎年この季節になると、いつも不機嫌そうな顔をしていた。だが、俺からすれば、彼は夏がよく似合う人間だと思った。

 栗色の髪は夏の夕暮れによく似ているし、鋭い相貌からは、大汗を流したあとに飲むビールの炭酸を感じさせる。

 夏が嫌いな理由は明確に分かっていたから、そんなことを彼に言うことはなかったが、夏の夜に生まれてきた彼は、やっぱり誰よりも夏が似合う人間だ。

「さあ。そろそろ帰ろうか」

 返答に困っている俺に背を向けて、彼は言いながら立ち上がった。

「まだここにいるのかい?」

 一向に立ち上がらずに、彼の瞳を見つめている俺に言う。

「いや、俺も帰るよ」

 言いながら、俺も立ち上がる。

「そうか。じゃあ、また明日」

 俺が頷いたのを見て、彼は背を向けて歩き出した。俺はしばらく、遠くなる彼の背中を眺めていた。その背中がやけに物寂しく、吐き出した煙のようにどこかに消えてしまいそうだったからだ。

 だから、その背中を見失わないように、俺はひたすら眺め続けた。だが、夏の終わり、彼の背中は消えてしまった。



 着信音が聞こえ、俺は飛び跳ねるように起き上がる。

 着信元を見てみると、彼の携帯からだった。夢ではないかと一度頬を抓ってみたが、どうやら夢ではないらしい。

 ただ、電話に出たのは彼ではなかった。

 電話を切ったあと、俺は身支度もしないで、慌てて家を出た。慌て過ぎたせいで、玄関に鍵を掛けたかどうかすら覚えていない。ただ、今はそんなことはどうでもいい。

 自転車に跨り、家から五分ほどの距離にある病院に、俺は一直線に向かった。


 病院に行くと、電話相手だっだ医師が俺を病室まで案内してくれた。

 病室の前で、早鐘を鳴らす胸を強く握りめる。現実から逃げ出してしまいたかった。

 この扉を開けた先に彼がいるというのに、俺はこの場から逃げ出したかった。それでも、俺は扉を開けなければいけなかった。

 恐る恐る扉を開けた先で、彼はやけに幸せそうに眠っていた。

 俺は一歩一歩ゆっくりと彼に近づく。雲の上を歩いているような感じだった。

 そして、

「死んでしまったのかい?」

 消毒液の匂いがする部屋に、煙草の煙を吐くようにそう告げた。


 彼の小説が家に届いたのは、次の日のことだった。

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