第18話 来世に期待を
「……やっと書き終わった」
言いながら、僕は大きな溜息を零し、左手で優しくパソコンを閉じた。
「本当ですか?」
「ああ」
伸びをしながら答える。追い込みをかけたせいか、随分と体が疲れているようだった。
「じゃあ、もうあとは死ぬだけですね」
「そうだな。でも、あと一つだけやりたいことあるんだ」
「やりたいことですか?」
「読みたい本があってね。古書店に買いに行こう思ってる」
「それなら、それを読み終わったらですね」
眞白は少し残念そうな顔をしていた。そんなにも早く死にたいのだろうか。
「今日中に買いに行こうと思っているし、短い物語だからすぐ読み終わるさ。早くて明日の夜には決行出来る」
「楽しみです」
「そうだな。それより、君は最期にやりたいことってないのかい?」
「やりたいことですか。うーん。本も全て読み終わってしまいましたし……」
やっぱり、もうすでに読み終えていたのか。
「それなら、神社にお参りに行きたいです」
「これから死ぬというのにか?」
「だからこそです。ちゃんと死ねますようにってお願いするんです」
澄んだ瞳で言う眞白がなんだか可笑しかったが、僕は感心するばかりだった。
「君は真面目なんだな。まあいい。明日一緒に行こう」
「ありがとうございます」
「じゃあ、僕は今から古書店に行くから」
「はい。本でも読んで待っていますね」
僕は頷き、眞白の頭をぐしゃぐしゃに撫でた。
頭から手を離すと、眞白は嬉しそうに微笑んでいて、その姿を見て僕はもう一度頭を撫でた。
その笑顔はあまりにも儚くて、触れたら壊れてしまいそうで、放っておいたら消えてしまいそうだった。だから、僕はもう一度頭を撫でてから家を出た。
店内は、まるで僕の頭の中みたいにやけに空いていた。
僕は迷うことなく足を進め、読みたかった本を手に取る。
僕は一度読んだ本を、もう一度読もうとはしない性質だから、いくら思い出深い物語でも、授業で習ったこの本だけは買おうとはしなかったのだ。
結局、こうしてわざわざ買いに来ることになるのだから、最初から買っとけばよかったのにと、僕は思う。
僕には趣味もこれと言って好きなものも特にないが、最期になにをしたいかと聞かれたら、やっぱりこの物語を読みたいと答える。
設定も内容も特別好きなわけでもない。なのに、最期に読みたい本があるとするのなら、この物語以外になにも思い浮かばない。
僕はその本の表紙を眺めながら、榊原の寝顔を思い浮かべていた。
すると、
「芥川好きなんですか?」
横から誰かがそう話しかけてきた。
振り向くと、栗毛色のショートヘアの女がいた。
「ああ。それなりにね」
僕は淡々と流れる大河のようにそう答え、僕のことを真っ直ぐに見つめる女の瞳を覗いた。
「どのお話が好きなんですか?」
「王道だけど、羅生門が好きかな」
「でも、その短編集に羅生門はないですよね」
随分と詳しいじゃないか。
「どうしても地獄変が読みたくてね」
「好きなんですか?」
「思い出ある物語なんだ。君は芥川が好きなのかい?」
「好きです。でも、知り合いに芥川が好きな人が他にいなくて……」
女は俯きながら悲しそうに言う。
「僕の友人に一人だけ好きな奴がいるよ」
「そうなんですか? 凄く羨ましいです」
「そんなにかい?」
「はい。だって、今こうしてあなたと芥川の話をしてるだけで、私は物凄く幸せなんです」
面白い女だなと、純粋に思った。僕の周りには少し変わっている女しかいないのだろうか。
「もしよろしければ、またいつかこうして芥川のお話をしませんか? また芥川の物語が無性に読みたくなった時にでも」
「……ああ。また読みたくなったらな」
「本当ですか? ありがとうございます」
女は嬉しそうに、大袈裟に笑って言う。
「約束ですよ」
「……分かった」
罪な人間だと、自分でそう思った。これから死ぬというのに、約束を交わすなんて愚の骨頂な人間だ。
僕はそのまま女と別れ、本を買ったあとしばらく殺風景な店内を眺め、ゆっくりとした足取りで自宅に向かった。
帰り道、頭に浮かぶのは女の顔で、女のことを考える度に、僕を罪悪感が襲った。
家に帰ってすぐに本を読み出し、半分ほど読んだところで眞白と夕飯を食べ、二人でひたすら益体のない話をし、日付が変わる前に僕たちは眠りについた。
夢の中でも、僕は女のことしか考えられなかった。
目を覚ますと、空はまだ少しだけ薄暗かった。
こんな早くに起きてしまうだなんて、無意識に緊張しているだろうかと、僕は思った。
無性にシナモンティーが飲みたくなり、僕はベッドから起き上がってキッチンに向かった。
お湯を沸かしてる最中、ソファーで寝ている眞白を見ながら、太宰の言葉を思い出す。
『死んで行くひとは美しい。生きるという事。生き残るという事。それは、たいへん醜くて、血の匂いのする、きたならしい事のような気もする』
その言葉を思い出していると、僕は眞白が死ぬ瞬間を見てみたいと思った。
こんなにも美しく眠る人間の最期を、この目で見てみたいと思ったのだ。自分でも呆れるくらい、腐った考えだった。
僕は考えるのをやめ、シナモンティーを飲みながら、地獄編の続きを読んでいた。
たまに視線を眞白に向けながら、音のない静かな部屋で、ひたすら読み続けた。
「もう起きていたんですか?」
読み終わってやることがなくなり、窓の外を我を忘れて眺めている僕を見て、眞白は言った。
「不思議と目が覚めてしまってね。ただ、君も僕と同じで今日はやけに起きるのが早いな」
「多分、少しだけ緊張しているんです」
まるで、僕の頭の中を覗き見でもしているのかと疑うくらい、眞白は僕と同じことを考える。
「そういえば、詩季さんって遺書とか書いたんですか?」
「書くものも思いつかないし、小説を遺書にしようと思ってる。君は?」
「実は、初めて会った日からずっと書いていました」
やっぱり、あの時ノートに書いていたのは遺書だったのか。
「じゃあ、書き始めたタイミングはほとんど同じなんだな」
「そうですね」
言いながら、眞白は嬉しそうに笑った。まるで、顎下を触られてる猫のような顔だった。
「じゃあ、少しゆっくりしたら神社に行こうか」
言うと、眞白は深く頷いた。
「どうだい? 久しぶりに外に出た気分は」
「気持ちがいいです」
「そうか。それはよかった」
眞白は太陽に向かって大きな伸びをした。
「言い忘れてたんだけど、僕ってあまり神とか信じないタイプなんだ」
「そうなんですか?」
「ああ。だから僕は遠慮しとくよ」
「せっかく神社に行くんですし、一緒にしましょうよ。それに、最期くらい信じてみるのもいいですよ」
眞白は早熟な少女のように駄々をこねる。
少し前までなら、こんなことをする人間をうざったらしく思っていたはずなのに、不思議だ。今はそんなこと微塵も思わなかった。
「分かったよ。じゃあ、一緒に行こう」
言い、僕たちは灼熱の陽光の日差しを仰ぎながら、近所の神社に向かって歩き出した。
夏の終わりとはいえ、この日はこの夏で特に暑い日だった。
平日の昼間だからか、神社は伽藍としていて、見渡す限り、僕たちだけしかいないようだった。
まるで、僕たちがもう死んでしまったかのように、僕たちだけが取り残されてしまったように思えた。
賽銭箱の前で目を閉じながら、なにを願おうか迷っていた。
眞白と同じで、ちゃんと死ねますようにと願おうと思ったが、眞白の願いはそれだけじゃないような気がした。
だから、
『眞白の願いが叶いますように』
数秒考えたあと、そうお祈りした。
「そういえば、どうやって死ぬんだ?」
帰り道、僕はふと気になって眞白に聞いた。
「いい考えがあるんです」
「なんだい?」
「夜までお楽しみです」
まるで、悪戯を企んでいる子供のように、白鳥色の八重歯を見せて眞白は笑った。
「そういえば、私も聞きたいことあるんですけど」
「聞きたいこと?」
「はい。詩季さんは遺書をどうするんですか?」
ああ。そんなことか。
「友人に郵送しようと思ってる。僕に小説を書くことを勧めた友人にね」
一番に読ませると約束してしまったし、書いたからには、やっぱり榊原に読ませたい。
「もしよろしければ、私の遺書も一緒に郵送してくれませんか?」
「君がそれでいいなら構わないよ。きっと友人は驚くだろうけどね」
「迷惑ですかね?」
「どうだろう。まあ、変な奴だからきっと笑ってくれる」
榊原の驚いた顔が頭に浮かんで、僕の頬は少し緩む。ああ。どんな反応するかこの目で見てみたい。
「いいお友達ですね」
「ああ。誇りに思うよ」
その言葉に嘘はない。全てが本心だった。
僕たちはその足取りで家に帰り、雑談を交わしながら夜が来るのを待ち、辺りに光がなくなったのを確認してすぐに家を出た。
僕は眞白の後ろを黙ったままついて行きながら、夏の夜の静けさに心を預けていた。
「学校の屋上なんて初めて入ったよ」
扉を閉めながら僕は言う。
「高校生の時、ずっと一人で行き場所もなかったので、こっそり合鍵を作ったんです」
「凄いな」
感心すると同時に、僕は少し揶揄するように微笑んだ。
「そんなことないですよ。ただの犯罪者です」
「ああ。二人揃って犯罪者だ」
「なんか素敵です」
「そうかい?」
「はい。それに、学校の屋上から死ぬことが夢だったんです」
「変わった夢だな」
「ロマンチックだと思いませんか?」
「まあ、言われてみれば」
学校で死ぬことなんて、考えたこともなかった。死ぬ時は線路の上と決めていたけど、これもこれでいいかもしれない。
頭の上には、無数の星たちが僕らを見下ろしていた。
これから行われる美しい行為を観察しているかのようだった。
「じゃあ、そろそろ行こうか」
「はい。行きましょう」
僕たちはフェンスの前までゆっくりと歩き出す。
フェンスを跨ぐと、眞白は僕の左手をなにも言わずにそっと握った。
眞白は酷く手汗をかいていて、その手は産まれたての子鹿のように小刻みに震えていた。
僕も黙ったままその手を強く握った。まるで、親が子に大丈夫だと暗示させるように。
「詩季さん」
暗闇の先にある地面を眺めていると、風鈴の音のように小さな声で眞白は言った。
僕は振り向き、星に照らされる眞白の横顔を見つめる
「月が綺麗ですよ」
「……ああ。そうだな」
なんて言葉を最期に残し、僕たちは大空へと飛び交った。
この時、僕は月なんて見ずに、眞白の顔をひたすら見ながら答えたから、本当に月が綺麗だったのかは分からない。だが、眞白がそう言うなら間違い無いだろうと、勝手に思っていた。
地面に落ちるまでの時間が、スローモーションのようにやけに長く感じた。
眞白の手を強く握りながら、僕はガリレオとニュートンについて考えていた。
そうか。僕は、もう苦しまなくて済むのだ。もう罪から逃れられるのだ。楽になれるのだ。
死後の世界があるとするのなら。
そこだけではせめて。
せめて、
───そこで幸せになってみたいと思った。
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