第17話 死後の世界

「少し休んだらどうですか?」

 エアコンの効いた部屋にビートルズの曲を流し、それに耳を澄ましながらひたすらキーボードを打ち続ける僕に眞白は聞く。

「もう少し書いたら休むよ」

 僕は振り返り、少し微笑んでそう答えたあと、もう一度背を向けてまたキーボードを叩いた。

「ここ最近、寝る間も惜しんでずっと書いていますよね。睡眠時間を削るのはあまり良くないですよ」

 もうすぐ死ぬ人間の体の心配をしている眞白が、なんだか可笑しかった。

「あともう少しで書き終わるんだ」

「終わったらちゃんと休んでくださいね」

「分かっているさ」

 それ以上、眞白はなにも言わなかった。

 また、後ろのソファーで本でも読んでいるのだろうかと気になったが、僕は確認せずに小説を書き続けた。

「死後の世界ってどんなところなんでしょうね」

 ひたすらに小説を書いていると、後ろからそんな声が聞こえた。

「さあ。そもそもそんなところがあるとは思えないよ」

 僕は体ごと振り返りながら言う。

 予想通り眞白はソファーの上で本を読んでいて、その本の表紙を覗くと、宮沢賢治の銀河鉄道の夜だった。なるほど。そういうことかと、僕は思う。

「私はあると信じていますよ」

 ラムネのように澄んだ瞳だった。

「それはなぜ?」

「だって、悲しいじゃないですか」

 僕は、眞白の言っていることがほとんど理解出来なかった。

「悲しい?」

「はい。行く場所も帰る場所もないなんて、悲しすぎますよ」

「でも、死んでいるんだぞ?」

「だからこそですよ。私たちみたいに、楽になりたくて死んだ人が大勢いるんですから」

「じゃあ、君は死後の世界はどんなところだと思うんだ?」

「星空のように美しい場所だと嬉しいです」

 眞白は榊原と似て、読んだ本に影響されやすい人間なのかと、僕は呆れながら思った。まあそんなところも嫌いじゃない。

「やっぱり、銀河鉄道の夜に影響されたんだな」

「バレましたか?」

「そりゃあな」

 言うと、眞白は嬉しそうに笑い、また両手に持っていた本に視線を落とした。

 その姿を見て、僕もまた小説を書き始めた。

 僕の小説に起承転結があるとするのなら、ちょうど結を書き始めた直後だった。



     *



 夜、一人で部屋にいる時が今は一番怖く思います。

 孤独には慣れているはずなのにどうしてでしょう。

 詩季さんの温かさに触れてしまったからでしょうか。詩季さんと一緒にいる時間が楽しくてしょうがないからでしょうか。

 死ぬ覚悟が出来ていると言えば嘘になりますけど、少しでも早くこの世界から消えたいのです。

 なのに。なのに、なんで胸には靄が残るのでしょう。

 詩季さんの顔を見ていると、なんで胸が痛むのでしょうか。

 私にはその理由が分かりません。

 ただ、終わりがもう目の前に迫っているということだけは確かです。



     *



 酒場に入ると、相もかわらず、すでに榊原が一人で酒を飲んでいた。

「今日は随分と遅かったな」

 僕の姿に気づいて、少し微笑んで榊原は言った。

「小説を書いていてね」

「完成したのかい?」

「まださ。でも、あとほんの少しだ」

「そうかい。それは楽しみだ」

「見せるなんて言ってないけどな」

「意地悪だな」

「冗談さ。一番に見せてやるさ」

 僕は、少し傲慢な言い方で言った。

「それより、今日はなんの話をしてくれるんだ?」

「最近、やけに俺の話を聞きたがるな。いつもは眠たそうな顔をしてるのに」

「やっと君の話の面白さに気がついたんだ。さ、始めてくれ」

「しょうがないな。そうだ。君に一つ聞きたいことがあったんだ」

 僕はマスターが作ってくれたハイボールに手をつける。平生通り、ウイスキーの味が濃いハイボールだった。だが、今日は睨みつけることはしなかった。

「君は、音楽ってなんのためにあると思う?」

 珍しい。今日は音楽の話か。最近やたらと恋の話が多かったし、それに、こういう日にはちょうどいい話だ。

「娯楽とかかな。君は?」

「俺はね。恋と同じだと思ってる。最高の音楽を見つけた時と、恋に落ちた時の衝動が似ていたんだ」

 結局また恋の話かと思ったが、今日の僕は榊原に対して呆れはしなかった。

「君にとって最高の音楽ってなんだい?」

「クイーンのラブ・オブ・マイ・ライフさ」

「意外だな。君はもっとロックな曲が好きなのかと思ってたよ」

 榊原がクイーンのことを好きだと聞いたこともないし、バラードが好きな印象もない。

 ジミ・ヘンドリックスやニルヴァーナとかなら納得いくのだが。

「もちろんロックも好きさ。でも、空いた穴に埋まる曲はこれだったんだ」

「そうか。いいな。音楽って」

「ああ。彼女のことばかり考えていると無性に音楽を聴きたくなるし、音楽ばかり聴いてると彼女に会いたくなる」

「僕もいつかそんな思いをしてみたいな」

 切実な本懐だった。幼い頃、誰しもがヒーローやお姫様に憧れるように、榊原が小説家になりたいと強く願うように、純粋無垢な願いだった。ただ、もうその願いに意味はない。

「いつかきっとするさ」

「ああ。そうだといい」

 もし生まれ変わりがあるとするのなら、僕はそこでなら恋をするのだろうか。榊原がした病みたいな純愛に、僕も罹るのだろうか。

 死ぬ前に一度くらい恋をすればよかっただなんて後悔はないが、僕もいつかは恋をしたいと思った。

 榊原の言う、恋に落ちた衝動を知りたいと思ったのだ。

「そうだ。僕も君に聞きたいことがあったんだ」

 僕は二杯目のハイボールを半分ほど口に流したあと、榊原の顔を見つめながら言った。

「この世で一番重い罪ってなんだと思う?」

「一番重い罪? それは倫理的なものでか?」

 僕は煙草の火をつけながら深く頷く。

「なかなかいい質問だな。だが、すぐに思いつきそうもない。少し考えさせてくれ」

 言うと、それからしばらくの間、榊原は天井を眺めながら答えについて考えていた。

 どれだけの時間、僕は榊原が答えを出すのを待っていたのだろうか。

 腕時計をつけてくるのを忘れてしまったし、正確な時間は分からないが、火をつけたばかりの煙草を吸い終わってすぐに榊原が口を開いたから、大体四分くらいだろうか。


「愛していると嘘をつくこととかはどうだ?」


 正直期待なんてしていなかったが、納得のいく御名答だった。時間をかけた甲斐があるな。

「面白い。確かにそれは重罪だ」

 言うと、榊原は自慢げな顔をして僕を見つめた。

「そうだろう? 嘘をつくことは悪いことではないが、愛していると嘘をつくことは、どんな理由があろうが下衆だ」

 榊原の言葉を聞いて、僕は眞白の話を思い出していた。

 眞白が人を殺したことに変わりはないが、彼が愛していると嘘をついていたのなら、もしかしたら眞白が正義なのかも知れない。

 ただ、倫理的な話だ。法律を破ったのは眞白だ。何度も言うが、人を殺したことに変わりはない。

 ただ、僕は眞白のことを悪い人間だとは思はない。

 正当な理由だとも眞白の行動が正しいともは思わないが、間違っていたとも思えなかった。

 そんなことを考えていると、隣に座る榊原がいつの間にか寝息を立てて眠ってしまっていた。

 今日はあまり酔っていたようには見えなかったが、日中のバイトのせいで疲れていたのだろうか。

 僕はもう少し榊原と話したかったが、起こすことはせずに、しばらく寝顔を眺めたあと、榊原の分まで会計を済ませた。

「マスター、榊原を頼んだぞ」

 会計を済ませたあと、僕は財布をポケットにしまい、気持ちよさそうに眠る榊原を見ながら言った。

「ええ。今日は随分楽しそうだったわね」

「ああ。楽しかった。榊原が起きたら、ありがとうとでも言っといてくれ」

 僕は視線をマスターに向けながら言う。

「明日も来るんでしょう? その時言えばいいじゃない」

「とてもじゃないけれど水臭くて言えないさ」

「男って面倒臭いのね」

 マスターは少し呆れながら言う。

「女心の方が面倒臭いさ」

「恋でもしかけてるの?」

「そんな馬鹿な」

 僕は自嘲的に笑う。

「そう? まあいいわ。また明日ね」

「……ああ」

 また明日。なんの変哲もない、何度も交わした別れの挨拶。

 もう会えなくなると思うと、もう少し長居すればよかったと考えてしまう。榊原のことを無理矢理でも起こして、朝まで語ればよかったと思う。けど……。これでいい。いつもと違う夜は好きではない。だからこれでいいんだ。

「マスターもいつもありがとうな。体に気をつけてくれ」

 マスターの返答を聞かずに、言い終わると同時に僕は外に出た。

 頬に触れる生暖かい夏風が、まるで僕の涙腺を刺激しているかのようで、その風に乗って、夏の終わりの匂いが微かに香った。


 ───ありがとう。君に会えてよかったよ。


 常夜灯に照らされながら、酒場の方を振り返ってそう言った。

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